日常
執筆者:白鳳院さん

 その日は、カーテンでさえ光の侵入を防ぐことができないほどの晴天だった。 空は青く、薄い雲は白く、陽は鮮やかに日常を照らし、いつもとは少し違う朝を彼に与えていく。
 そのせいなのだろうか。――いつもよりも随分早く、目覚まし時計に頼ることなく、彼は布団の中で眼を開けた。
 獣のうめき声のような声が、お世辞にも広いとは言えない部屋に響く。 あまり朝には強い方ではないのだろう。白い布団の小山はもぞもぞと何度かうごめき、彼の体はそこから解放されなかった。
 目覚め直後の布団は一種の牢獄にも見える。……特にそろそろ気温も下がってきた今時なら特にそうだ。 外の世界と布団内部の世界では快適指数は随分と違う。 ……これに敗北して、珍しい早起きを寝坊の言葉に変えてしまう人間は、百や二百ではないだろう。
 布団の中に彼の顔が沈んだ。 おかげで外に出ているのは、彼の手入れがそれほど行き届いていない ――しかし美しい色を保った青髪だけがひょっこりと飛び出していた。
 ――見方によれば、パイナップルの葉みたいに見えて何とも滑稽である。布団はいわば実の部分か。
 再び獣のようなうなり声。このまま二度寝へと落ちていくと思いきや――
「……しまった。今日くらいあいつを見返してやらねぇと……くそ、変な約束なんて取り付けるんじゃなかった」
 そう彼は呟き、不機嫌そうな顔で上半身を起こした。 顔まで布団の中に入れた体は蒸されたようになっていて、彼の体は少し汗ばんでいる。 薄いシャツの端でそれを拭い、ようやく全身を布団から解放した。
「……うぅ。さむ
 全身に鳥肌が立ってもおかしくないほどの悪寒と、止めようのない全身の震えが彼を襲った。 左右の手をそれとは逆の腕にあてがい、しゃっしゃと音を立てて摩擦する。 慰め程度にしかならないが、彼にとってはその行動で得られる暖かさが何よりも大事な物だった。
 ぼさぼさの軽く髪を掻きながらも、クローゼットの中から黒色のアンダーウェアと学生ズボンを取り出し素早く着替える。 彼の髪よりも少々薄い青色の学生服とワイシャツは彼に持たれたままだ。 学生ズボンとアンダーウェアでは少々センスがないのだが……別に彼はファッションにこだわるような人間ではないし、 外ならともかく、家の中ではこんな格好をしても別に恥ずかしくはないではないか、というのが彼の持論である。
 いつもしているように第二ボタンまで外した思いっきり校則違反の服装だが、 だらしないと言うよりも野性的な部分が増すのは彼がこの服装に慣れているからだ。 双子のもう片方に言わせれば「お前がきっちりとワイシャツを着ているとむしろ気持ち悪い」とのこと。
 それはさておき、時計を確認。いつもより二時間早めの起床だ。
 自然と彼の唇がつり上がる。にこり、というよりはにやり、という感じ。 悪の親玉が浮かべるような三日月型の笑みを彼は作った。
「フ……今日こそは俺が勝つ」
 厚いカーテンを勢いよく開け、彼は差し込む強烈な光に眼を細める。 やがて光にも慣れた目で見下ろせるのは、十分なゆとりを持って出勤するサラリーマン方もろもろだけ。 生徒の姿はまるでない。
 彼の顔は勝利を確信した晴れやかな物に変わっていた。
 木製のドアに手をかけ、彼は勢いよくドアを開けた――

「……ふぅ」
 小鳥のさえずりもなく、世界は静かだった。 最近張り替えて貰ったばかりの畳はまだ若草の匂いを多く残し、日焼けして茶色になった畳とはまた違った印象を彼の朝に与える。
 一件女性と間違えてもおかしくない程、彼の顔は美しく整っていた。 畳の上に直接敷かれた布団から身を起こすと、長い髪がぱさりと揺れ、だというのに、 ほとんど直す必要がないほどに整っていることから、十分に手入れをされている事がよくわかる。 それを少々うざったげにかき上げて、彼は素早く布団を折り畳み、部屋の隅に置く。
 と同時に、ふすま一枚隔てたところから声がかかった。とても落ち着いた女性の声。祖母だ。
「クレール」
「はい。おばあさま」
 男性にしてはやはり高い声だろう。穏やかな返事をしながら、彼はまだ上りきっていない朝日を見る。 高層ビルこそこの辺りにはないが、太陽の光が辺り一面を支配しつくすのには今しばらく時間がかかるようだ。 気温はまだ低い。こういう日には少し体を動かしておいた方がいいだろう。
 まるで機械のように、彼の頭の中で一日のメニューが次々に設定されていく。 毎日一定の日課をこなすだけでなく、折々に体調に合わせたメニューだ。もう少し早めに起きていてもよかっただろうか。
「朝食の準備は済ませたからね。……今日はトルシュの方も早起きなんだろう?」
 非情にゆったりとして、落ち着きのある――しかし最後の方に含み笑いのようなニュアンスを含めた老婆の声。
 いや、老婆と言うのは失礼だろう。 確かに体力こそ年齢にふさわしいが、精神的な活動は未だ衰えておらず、未だに頭の上がらない人物の一人である。
 彼――クレールは少々不機嫌そうな顔つきをしながら、着替えを始めた。
 のりがしっかりときいたワイシャツ。汚れなど微塵もないズボン。 学生服にはしっかりとカラーがつけられ、ボタンも一つも外すことなく完璧に着込む。
 ……唯一の校則違反と言えば、彼の手の甲に装着されたグローブだろうか。 指を覆う部分は切り取られて手にフィットし、彼には似合わぬ格闘家の雰囲気をそこから漂わせていた。
 長年使い古しているのだろう。多少光沢のある黒い革には所々に傷が目立ち、汚れもひどい。 しかし嫌な顔一つせず、彼は感触を確かめるようぎゅっと手を握った。
「あいつがそう簡単に早起きするとは思えません。……彼の起床時間、おばあさまもご存じでしょうに」
 ふすまの置くから響く静かな笑い。
「まあ、そうだねぇ。……あの子もフェイトと一緒で寝坊が好きだから」
「僕には考えられません。……父も、トルシュのような人物だったのですか?」
 そうだとしたら、父親に対する評価を少し下げなければならないなと、彼は頭の中で少しだけ考え――次の言葉にかき消される。
「トルシュの不真面目なところ、クレールの真面目なところ……両方持ってた子だったよ。 まあ、どちらかといえばクレール側に近かったかね」
「そうですか。それは……よかった」
 誰が見ているわけでもないのだが、彼は心底安心したように胸に手を当て深呼吸すると、静かにふすまを開ける。 目の前には、穏やかな笑みを浮かべながら、座布団に座っている祖母の姿があった。
 名をリョウコ=ラインゴッド。自分たちの保護者である。
 ――体二つ分ほど離れた場所に彼は左足から折り曲げて正座をし、畳に指を軽く押しつけながら深く頭を下げた。
「朝のご挨拶が遅れました。おはようございます。おばあさま」
「はい、おはよう。……今日は朝練があるんだろう? 早くご飯を食べてしまいなさい」
「はい。毎朝ありがとうございます。……おばあさまも、今日は予定があるのでしょうに」
「私のことはいいから。……フォルサもそろそろ降りてくる頃だ。一緒に食べるといい。 ……私は、そろそろ出かけるからね、後はいつも通りに」
「はい。行ってらっしゃいませ、おばあさま」
 彼女はもう随分な年ではあるが、いまだにラインゴッド研究所の所長を務めている。 何とか手伝いたいとは思うが、そのレベルにまで自分の頭脳が届いていないのが何とも悲しい。 正座の姿勢を崩さぬまま、彼は祖母の出発をその場で見送った。
 ――家のドアが開き、閉まる音がすると同時に、階段から小さな足音が近付いてくる。 彼の双子の弟ではこんな静かにいかないだろう。
 ひょっこりと現れる小さな影。
「おはよう、フォルサ」
「…………」
 可愛らしいパジャマのまま、寝ぼけ眼を擦って彼の妹が現れた。 即座にダイニングへと行かないのは、きっとこちらの気配を察知したからだろう。こう言うのには妙に鋭い妹である。
 年の頃なら十二歳前後。同年代の少女と比べても多少幼い顔つきと、その割には大人びた雰囲気を持つのがフォルサである。 兄妹というには多少共通点の少ない――髪の色、瞳の色など――のであるが、彼女の場合は隔世遺伝である。
 今はクレールよりも長く伸ばした髪をぼさぼさに爆発させ、しかしそれほど気にしているわけでも無さそうにそれを指先でいじっている。 彼女の場合水につけたりドライヤーをかけなくても、時間で勝手に元に戻るし、 それこそ失礼な言い方だが、双子の弟よりも外見にこだわらないのである。
 小さな人形の様な妹に、彼はもう一度挨拶をする。
「フォルサ、おはよう」
「…………」
 彼女は喋らない。寝ぼけているわけでもなく、彼女はいつもこうだ。クレールは内心苦笑する。 同時に僅かながらいらだった。
 そう、この藍色の髪をした妹は無口というか――いや、無口には間違いないのだが――どこか感情を内に秘めているといった感じがする。 兄と妹という関係にいながらも、会話をする量はごく限られているのが現状である。
 別に精神的な病のせいでこのように無感情的なのではない。 逆にそれならば諦めも納得もできる。しかし彼女の場合これで地なのだ。
 ――真面目、時には頑固と称されるクレールにとって、この彼女の性格はどこか許せないところがあった。
「フォルサ」
 少し声が固くなる。フォルサはぴくりと体を動かし、上目遣いでこちらを見てくる。
「おはよう」
 もう一度、最後通告並みに固くなった声で彼はあいさつをした。
「……おは、よう。クレール」
 ようやく――喋ってみればまさしく鈴の音が、クレールの鼓膜を振るわせた。 同時に厳しく固まっていた顔の筋肉も元に戻る。
「うむ。よくできました。……しっかりと早起きもできたな。偉い偉い」
 右足から正座を崩して、まだ随分と下にある彼女の頭を撫でる。 ……やっぱり彼女は無口だったが、まんざらでもなさそうだった。
「朝食はできているらしい。手を洗ってきなさい」
「……ん」
 トトト……と小走りで――和室から一変して洋風のフローリング床となった廊下を彼女は駆けていく。
「廊下は走らない」
「…………ん」
 たしなめられ、彼女の歩調が変わる。 それを腕組みしつつ満足げに見届けた後、フォルサとは別の水道の前に立ち、石けんで丁寧に、かつ素早く手を洗った。
 ダイニングへと向かえば、まだ湯気を立たせている食事の数々が迎えてくれた。 改めて祖母に感謝をして、フォルサとは向かいに座る。これが二人の定位置だ。
「では……」
 両手を合わせ――
「いただき、ます」
 フォルサの言葉と共に、朝食は始まった。
 白米にミソスープ。砂糖で味付けされた甘い卵焼きに鮭の塩焼き。 純和食のメニューを二人はゆっくりとしたペースで食べていく。 行儀の良さはさすがと言うべきか、箸の使い方も慣れた物で、二本の棒で鮭を解体していく様はなかなか見事なものだ。
 鮭の場合、秋刀魚などの魚に比べればかなり解体しやすい。 適当な部分に箸を突っ込んでも、まあ食べられなくはないのだが、そうすると崩れた鮭の肉に埋もれた骨に気付かず、 飲み込んだ時に後悔してしまう。
 一番良いのは、断層のようになった鮭の肉を順に切り落としていく食べ方だろう。 慣れると鮭はあっと言う間に千切りにされたニンジンみたいに細い身に分けられる。 しかもその間に骨があることが多いのでつっかえる危険性もなくなる。 しかも骨を取り除くのに手を使う粗相も無くなって一石二鳥だ。
 ――カチャカチャと、しばらくは箸と食器を動かす音と、ようやく朝を感じた小鳥たちの囀りがBGMとなった。 テレビの音はこの場では邪魔だろうと、二人ともすぐ近くに置かれたリモコンには手を触れもしなかった。
 それほど多くはない朝食を、しかし二人は三十分以上かけて飲み込んでいく。 育ち盛りのフォルサは、いち早く鮭を食べてしまい、物足りなさそうにクレールを見る。
「……僕のがほしいのか?」
「…………ん」
 恥ずかしそうに頷く。
「ま、その年齢なら気にするほどでもないか。……骨には気をつけろよ?」
 と、四分の一ほど残っていたピンク色の魚肉を、彼は皿ごと彼女の前に差し出した。
「ありが、とう」
「ああ。僕は朝練あるから、そんなに食べるわけにもいかないし」
 そうして、手早くクレールは茶碗の中に残っていた白米の余りを口に入れる。残ったのはミソスープだけだ。
 ――そんな朝の平穏をぶちこわすかのように朝食終了間際の二人の耳に入ってくる音があった――
 ドドドドドドドドドドド……!
「……まったく、うるさい奴だ」
「トルシュ兄さん……うるさい」
「そうだ。うるさいんだよ、あいつは。……お前もわかるようになってきたな」
「でも、クレール、細かい所にもっとうるさい。意味は違うけど、でもすっごくうるさい。ある意味トルシュ兄さん以上」
「ぐ……」
 思わず箸を落としかねるが、そんな粗相をするわけにもいくまい。 平静を装って――もう具の入っていないミソスープの中味を箸でかき混ぜた。
 こういう一撃が困りものだ。毒舌というわけでもないのに、的確にその人物の痛いところを突いてくる。 しかもそう言う時に限って語りが長文なのだからダメージはさらに大きい。
 ……もっと困りものが二階から降りてきた。
「よっしゃ、一番の――」
 フローリングの床を裸足で滑りながら、ぼさぼさ髪の自分とよく似た男がダイニングを覗き込み、呆けた顔で疑問符を浮かべる。
「一番乗りか。そうだな、いつものごとく後ろから一番だ。おめでとうトルシュ。これで数え始めてから通算1000回連続で僕の勝ちだ。 昨日約束した通り、貸した金、利子付きで全部返してもらう」
 そのまま双子の片割れは滑り続ける体を元に戻すことができぬまま――ダイニングと廊下を繋ぐ扉の前から姿を消した。
「耳を塞ごう」
「ん」
 ドガッシャァァァン!
 通路の奧にある物置きに突っ込んでいくつかの割れ物を破壊するような、やたらと具体的な音が鳴った。
 耳を塞ぎその音を和らげてから、二人は再び残った朝食を片づけ、流し台に置く。
「……さて、洗面所に行こうか」
「ん」
 何事もなかったかのように二人はそろって洗面所へ向かい――頭に割れた皿の欠片を乗っけた男が現れた。
「待て待て待て待て待て! そこの二人! 流石に無視はないんじゃないのか? 無視は」
 恐るべき事に無傷で、トルシュは廊下のど真ん中に仁王立ちしていた。彼の背後に洗面所への扉がある。
「おはよう、トルシュ兄さん」
 こちらの時とは違い、自分からフォルサは朝の挨拶をした。
「おう。はよっす」
「挨拶がなってないぞ。トルシュ」
「気にするなよ。……よし、とりあえずこれで無視じゃなくなったな。 俺は朝飯喰ってくるわ。早起き対決は負けたが、朝練では負けんぞ?」
「言っていろ。……ここを出るまで後三十分。急げよ」
「うい」
 だからそう言う返事の仕方は――とクレールが言う前に、トルシュは二人の間をすり抜けダイニングへと猛ダッシュをしていた。 彼の足と朝食の速さは伊達ではない。こちらが顔を洗っている間にもう終了しているだろう。
 ――クレールの予想は思い描いた通り現実となり、フォルサの着替えを待って三人は同時に鞄を玄関に置く。 大きめの二つのバッグは同じ色、同じデザインで、小さなものはピンク色の可愛らしいバッグだった。
「――では行ってきます。お母さん」
「行ってきます」
「行って、きます……」
 三人は玄関を開ける前に家の内部に向かって三者三様の礼をし、三人は同時に外へと出る。
 ドアが閉まる音がし、続けて鍵のかけられる音が家の中に大きく響いた。
 それきり――トルシュのおかげで、忘れられていた静かさが再び家の中に戻る。小鳥たちも目を覚まし、家は暖かな光に包まれた。
 その奧――家の中で一番よく日が差す部屋の隅に、一つの写真立てが置かれていた。
 赤子のフォルサを抱き、双子の兄弟にそれぞれ膝枕をしてあげながら、若い頃の――そしてもうこの世界にはいない母が、 変わることない笑顔をそこに浮かべていた。

 ピンポーン。
 軽快な音が遠くから聞こえる。 ソナーレ・ミセッドは洗面所で顔を洗いながらそれを聞いていた。
 まだ学校に行くには早過ぎ、しかし彼女は今より三十分前――陽が昇る少し前には常に起きるよう心がけている。 同世代の友人に話すと、「お肌に悪そう」とか「おばあさんっぽくない?」とか言われるのだが、 彼女には彼女なりの起床時間という物がある。 それをいちいち友人の言うことで変える必要はないじゃないのと、そうソナーレは思っていた。 ……そういう意固地さが元で、少々クラスでは浮いた存在なのだが。
「歯磨きアンド洗顔終了っと。……あれ、おかあさーん?」
 断続的に聞こえるチャイムの音は未だ止まず、いつもなら彼等を迎え入れる母の姿もない。 父は――この時間にはまだ寝ている。
「……おっかしいなぁ」
 タオルを片手に彼女は洗面所を出て、ダイニングに向かうと、
「……はい。わかりました。ええ、問題ありませんよ」
 と、そんな声が聞こえた。話し相手はどこか遠い所にいるお偉いさんだろう。 こちらがダイニングに顔を出すと、ちらっと母はこちらを見て、次に玄関の方へと合図した。
 うんと頷くと、ソナーレは裸足にサンダルをつっかけて、そのまま玄関のドアを開く。
「……む、今日は――じゃなかったか。おはようソナーレ。今日も世話になる」
 爽やかな笑みで挨拶をされる。この丁寧さはクレールだ。相変わらず女の子っぽい顔立ちに少し古風な物言いである。
「おはようございます。トルシュもフォルサちゃんもね」
 いつの間にか服の端を掴まれていた。フォルサがぎゅっと握っていたのだ。 普段は自分と一緒でトロトロしたところがあるのに、これだけは一流の忍者みたいな素早さだ。 なついてくれている……と言うことなのだろうが。
「今日は、朝練?」
「ああ。ソフィアさんにも毎朝すまないと伝えてくれ。……君にも迷惑をかけるな」
「ううん。いいの……それに、フォルサちゃんと遊ぶのも、そんなにイヤじゃないしね」
わりィな、ソナーレちゃん」
「悪いと思ったら、しっかりお弁当のにんじんは食べなさい。トルシュ」
 グっと彼が詰まるのをおもしろそうに見届けると、フォルサを連れて家の中に入る。 キッチンには四つのお弁当がすでに包まれた状態で置かれていた。 二つは自分があの双子用に、二つは母が作った物だ。料理の腕ではまだまだ勝てない。
「あら、今日はいつもより早いのね。おはよう、フォルサちゃん」
 ほわほわとした笑顔で、母が椅子に座りながら紅茶を楽しんでいた。
「…………ん」
 フォルサが挨拶をすると、もう一度、母は軽く首を下げるだけの小さな挨拶を返した。
「お母さん。電話は終わったの?」
「うん。また出張。……黒字は嬉しいけど、ここまで頻繁だとやになっちゃう」
 少女のような頬笑みで、ソフィア・ミセッドは肩をすくめた。
 母は高名な紋章術師で、しばしばそれ関係の組合から呼び出しがかかるのだ。高名なだけに制限も大きく、 彼女は生活のほとんどを家か、組合が設立した学校の職員室で過ごす。 ……強力な紋章術師はその性格の善し悪しにかかわらず危険だという不条理な理由で、家以外の場所では常に監視されているという事実もまたある。
 まあ当の本人がそんなに気にしてはいないし、何か依頼をされれば星の一つや二つは軽く渡り歩くような商売である。 普通の主婦よりは行動範囲は広い。ソナーレもとっくに母離れは済んでいるので、それほど寂しいと思ったことも無かった。
「でも今回は結構近いところだから、三日くらい。また家事の方をお願いするね」
「了解。でもお父さん寂しがってたよ?  『ああ、うちの妻はどうして夫をないがしろにしてアッチへフラフラコッチへフラフラするんだ。 あれはどう見ても何かしているに違いない。そう、きっと子供には教えられないような……』云々と」
 ぴきりと母の額に浮かぶ青筋。
「あの人は……。そんなに心配するなら今日は一杯かまってあげなきゃね。……久しぶりにサンダーボルトでお目覚めさせてきまっす」
「りょーかい。たいちょー」
 適当に敬礼しながら言い放ち、青い弁当袋を片手に一つずつ持ち出して、玄関へと向かう。
 背後でソフィアはルンルンと鼻歌を歌いつつ二階への階段を上がっていった。それがまた殺気放っていて非情に恐ろしい物があるのだが。
「はい、二人とも。今日のお弁当」
 クレールは丁寧に両手で、トルシュは奪い取るような乱暴さで弁当を受け取った。 相変わらず対称的な二人だ。
「助かる。では、妹の事、頼んだぞ」
「サンキュー! それじゃあ行くぞクレール!」
 トルシュはさっさと走り出してしまっている。クレールはため息を吐きつつも苦笑いをし、
「朝のランニング代わりには丁度いいか……わかった。学校まで走っていくぞ」
 彼もまた走って長い道路の向こうへと消えていく。 学校のスポーツテストでは必ず同率一位の座を獲得する二人の速力は桁違い――というか人間離れしていて、あっと言う間に見えなくなった。
「相変わらず元気だねぇ」
 ひらひら手を振りつつ見送っていると何だか知らないがあくびが出た。 昨日は幾分睡眠時間を減らしたからなのかもしれない。
 くいっと服の裾が引っ張られる。
「でも、二人とも、今日は息が合ってる。いつもなら、この辺りでケンカしてた」
「……ま、たまにはそんなこともあるよ。さ、フォルサちゃん」
「ん」
 二人は同時に――耳を塞いで目を閉じた。
「君の瞳は……サンダーボルトォッ!」
 ビビビビビビッ!
 ワケのわからない前置きを入れながら、雷の初級紋章術が発動した。しかし母の初級紋章術は一般的に中級レベルの威力。 モンスターでもイチコロだ。
 二階の窓から目を潰さんばかりに黄色い光が漏れ出る。そうして次に響いた父親の叫び声。
 あれで死なないうちの父って何だろうとか思いながらも、ソナーレはいつも通りの朝に何となく満足しているのであった――。


− Fin −



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