非日常-01
執筆者:白鳳院さん

 馬鹿みたいに晴れた空。 陽の光は容赦なく地面を焼き、夏なら火傷してもおかしくはないアスファルトの上、二人は肩を並べてマラソンコースを走っていた。 運動靴が四つ、半分ずつ同時に地面を踏みつけ、見る者の視力が低ければ全力疾走の二人三脚に見えたことだろう。
 ……遙か背後には集団で走る白服の集団。 百メートルは離れているだろうか、暴走機関車のように駆ける二人に付いてこれる者は誰もいなかった。
「はっ……!」
 二つ目の曲がり角を過ぎた時、一際大きな呼吸をしたのはクレールだった。
「どうした……! もうバテたか!」
 馬鹿にしたように息を出すトルシュ。 あまりに速く駆けているせいか、進行方向とは逆に吹き付ける風はさらに強まり、彼の髪を逆立たせる。
「ぬかせ!」
 吐き捨てるような声と共に、クレールの腕を振る速度がさらに上がる。 一瞬だけ二人の動作が乱れ――数秒後には再び合わせ鏡のような動き。
「真似をするな!」
「はっ! どっちが!」
 三つ目のコーナー。コースは長方形の形をしているため、残すは最終コーナーのみだ。 インコースにはクレール。アウトにはトルシュ。 アスファルトを砕かんばかりの勢いのコーナーリングは、銃声にも似た音と共に二人の角度を九十度変える。
「……っ!」
「くっ!」
 両者の足にかかるとてつもない負担。 バスケットをする二人には致命的な物をも引き起こす可能性がある強制コーナーリングは、 しかし彼等の競争においては日常茶飯事であった。
 街は寒く、冬の厳しさを彼等の肌に伝える。しかし二人の体温は上昇しっぱなしで丁度よかった。 夏の日、炎天下の中でこのような勝負をすれば、間違いなくどちらも倒れていただろうから。
 ――そう、これは二人の勝負である。方法は単純、どちらが速く学校の回りを走りきるか。 距離は一キロ半程度だろうか。あまりに短くも、あまりに長くもない。 ペース配分をしっかりと決めて走らなければならないコースを、しかし二人はほとんど全力で疾走していた。
 灰色がかったコースの第四コーナー。視界の先には正門の所で仁王立ちしている体育教師。 ゴールが見えた瞬間、二人の瞳にさらなる力が宿った。
 体を多少前倒しに、腕を振る速度を意識的に速め、あとは相手に勝る足の動き。 やがて頭は足の動くに付いていけなくなり、バランスを崩して転倒するだろう。 ……だがその前に走りきってしまえばよい。転ぶなど、ゴールをした後でいくらでもすればいい……!
 まだ年の若い体育教師の手には一個のストップウォッチ。今か今かと二人の到着を待ちわびている。
 獣じみた二人は、そのまま校舎の門をくぐり、そこでようやく体に休息を許可した。 両者の頭の中では、幻のゴールテープを破る自分と、それに一歩届かず悔しそうな顔で通り過ぎる弟が浮かんでいた。
「どっちかが勝った!?」
「どちらが勝ちましたか!?」
 荒い息を整えることすら忘れ、体育教師に詰め寄る青二つ。
 ……彼等よりも運動神経の劣るその教師は、一度しか押さなかったストップウォッチを二人に投げ渡す。
「お前等陸上部入れ。推薦するから」
「……っち、また同着かよ。これじゃあどっちが兄かの勝負はまたお預けだな」
「何度も言うが僕が兄だ。……お前、どうしてその年になってまで些末さまつな事柄にこだわるんだ」
「そう言うお前だって、『自分はこだわらない』とか言いながら俺に対抗してくるじゃねぇか」
「う……し、しかし事実を曲げるわけにはいかん。法律上、僕が兄だ」
「法律の問題じゃない! 魂の問題だ」
 はっ! とランニング中のお返しをするように、馬鹿にしたような息を出すクレール。
「ワケがわからんな……何故僕がこいつと同じ高校なのか、非情に疑問だ」
 まあ彼の場合はスポーツ推薦なのだが。
 ちなみにクレールの方は普通に筆記試験を受けての入学で、 推薦枠も取れたのだが「学校は勉強をする所。スポーツだけをするために来ているわけではない」という理由で却下している。
 未だ他の生徒は視界にすら入っていない。 ようやく第三コーナーを抜けた辺りだろうか。 基本的に進学校なこの学校は、体育が苦手な生徒、もしくは得意でも本気でやらない生徒が多いのである。 この二人は数少ない例外といえるだろう。
 言い争いでさらに激しくなった呼吸を整えて、それが二人の口争いの終わりとなった。
「……次はサッカーか」
「俺とお前は別チームな。勝った方が兄だ」
「馬鹿」
「お馬鹿結構。俺は赤点になってもバスケで喰っていくからいいんだ」
「百歩譲ってなれたとして……お前のような人間が将来テレビに出て、その常識の無さを世間に知らしめるんだ」
 お互いにののしりあいながら、二人はグラウンドへと足を進める。
「相変わらず仲がいいのか悪いのか……」
 体育教師は苦笑しながら、今日もランニングの校内新記録を変えねばならんなと考えた。

 中間テスト前ともなると、各クラスとも授業の進行速度に変化が見られる。 それぞれの足並みをそろえるために、進んでいるクラスは自習が多くなり、そうでなければその逆だ。 ソナーレは前者で、窓側の席から体育の授業をぽかんと眺めていた。 校庭にはだるそうに歩く男子生徒の集団。ランニングが終わって、サッカーの準備を始めている。
 ふわ、と小さなあくび。
 彼女は別に珍プレー好プレーを期待しているわけでも、体育をしたいと思っているわけでもない。 窓側の席に座る生徒の宿命というヤツだ。
 外は寒いだろうが、教室内は人の熱で暖められており、日差しも閉められた窓を軽く通り越しているので、 窓側の生徒は夏の入りくらいの温度を体感している。自然と額に汗が浮かび、ソナーレはあぶらとり紙を取り出してぺたぺたやる。
「暇……」
 変化のない外を見ているのも飽きて、ソナーレは机に頬をつけて眠る体勢に入った。
 先生はさっさとテスト作りに引っ込んでしまい――まだ作ってないらしい―― このまとまりのないクラスが静かに自習をしているはずもなかった。 一度隣のクラスで授業をしていた先生が怒鳴って静かになったが、そんな物もって五分である。 それ以降は言っても無駄だと、誰もこのクラスに乱入してこなかった。 ただ、赤っぽいもやのような物が壁を通り越しているような気がするだけで……。
「――――?」
 目をごしごし擦ると。そこには先程と同じ白い壁。 眠気のせいで幻覚でも見たのだろうか。まばたきを何度しても、同じ物は見えない。
 ――眠気が飛んでしまった。先程見えたもやもやが頭の中に移ったみたいにむず痒い。
 舌打ち一つして、ソナーレは体を起こす。教科書を読んでもおもしろくないし、どうしようか。
 つん。
「わきゃっ!?」
 頓狂とんきょうな声が漏れた。
 脇腹を突かれたのだ。自分はここが弱い。 電気を通されたみたいに体を飛び上がらせ、膝を机の下にぶつける。
 くすぐったさと痛さでもだえた。
「おぉぉ……う」
「ね、ね、ソナーレ。ちょっとここ教えて」
 珍しく真面目にやっている横の悪友の顔はいっぱいいっぱい。赤点ピンチなのだ。 このままでは進学できんよ〜というオーラを全身から噴出している彼女は、 ソナーレとはエレメンタリースクールからのつきあいである。
「……人を苦しませておいてそれはないと思うなぁ」
 ちょっとばかり友人の首を絞めて復讐を完了すると、ソナーレはその問題を見る。 そんなに難しい問題でもなく、ささっと教えてまた暇になった。 横では炎が燃え上がっているけど、ソナーレはどこまでもドライだ。ふわぁと、口元を隠しながらまたあくびをした。
 ……周囲がお喋りに興じているのに、ソナーレに話しかけてくるのはせっぱ詰まった横の生徒と、 同じく真っ赤な未来を予期した生徒ばかり。 彼等も用を済ませるとすぐに席へと戻り、それきりだ。
「もうちょっと愛想よくしたら?」
「愛想はいいの。世話見もいいの。単に距離を置かれているだけ」
 悪友の横目をさらりと受け流しながら、ソナーレは居心地悪そうに体を揺らす。
 ……家族とか交友関係とか、その他諸々において普通の女子高生とソナーレは少し違っていた。
 母がよく家を留守にするために家事を受け持つのは自分で、放課後すぐに家に帰らなければいけない。 ……男はどうだか知らないが、基本的に女同士の友情とは放課後の方が育まれやすいのだ。 その時間を綺麗さっぱり炊事洗濯掃除で消してしまうソナーレは、家庭科の成績こそトップになったが、 入学してからこっち、なかなか友人を作れないでいた。
 高校になれば、中学の頃からの知り合いもぐんと減る。 周囲からは「誘っても一緒に遊びに行かない真面目さん」のレッテルを貼られてしまった今、 それをがすのはなかなか容易ではない。 必然的に、クラスでは孤島に位置する彼女だった。
 傍目はためから見るとあまり悩み無さそうに見えるソナーレの唯一の悩みである。
 性格がきついわけでも、友人なんかいらないと思っているわけでもない。 だが周囲の人間がこうならこうで仕方ないではないかと、半分あきらめの姿勢で彼女は毎日を過ごしていた。
 自分の時間をとことん削る家事を押しつける家族や、 裏でこの街の闇組織と繋がっているとか噂されるお隣兄弟妹きょうだいを非難する気はさらさらない。 まあ後数年辛抱すればいいやと、かなりのんきに考えている彼女であった。
 ……いや、一度だけクレールとトルシュに相談したか。その時は不覚にも泣いてしまった記憶があるが……。
 その時のことを思い出していると、いつの間にか顔が緩んでしまったみたいで――
「なに、暇だから妄想モード?」
 勉強してるかと思ったら、カンペ作りに熱中している隣が悪意半分からかい半分の視線をビームのように発射してきた。
「……バカ」
「バカで結構。あたし赤点とっても、いざとなったら学校のパソコンに忍び込んでデータ書き換えるから」
 と、コンピューターにはめっきり強いこの犯罪者は、妙に悟りきった表情でペンを動かし続ける。
 ピンポンパンポーン……。
「……? 授業終了?」
 そんなわけがない。まだ授業開始から三十分程度だ。 これだけの短縮授業だったら午前中に授業が終わる――ではなくて、これは校内放送のチャイムだ。
『授業中失礼します。ソナーレ・ミセッドさん。ソナーレ・ミセッドさん。お電話が入っておりますので事務室までお越しください。 繰り返します。ソナーレ・ミセッドさんは至急事務室までお越しください……』
 落ち着いた女性の声が自分を呼んでいた。
 先程と音程が真逆のチャイムが流れ、視線が窓側の一席に集中する。
「…………トルシュが犯罪でもやらかしたか」
 それだったら自分に連絡が行くことはないか。いや、この学校では彼の保護者は事実上双子の兄の方と、自分だ。 警察から任意同行を求められる可能性はなきにしもあらず。
 ……とにかくクラス中がこちらを見る中、神経質そうに髪の毛をいじりつつすぐ近くの階段を下り、 普段は滅多に顔を出さない事務室へと顔を出した。
 事務室のお姉さんは、背が高いブロンドの女性で、モデルでもやってるんじゃないかと思うほど綺麗だ。 柔らかな笑みで受話器を渡してくれる。
 誰からだろうか。「はい、お電話替わりました」と言った瞬間、
『ソナーレかっ! ソナーレだなっ!?』
 聞こえた声は聞き慣れた、しかし鼓膜を破る矢のような声だった。
「……っ! お父さん? そんな大声出さなくても聞こえてるよ……声割れちゃってる」
 脊髄せきずい反射で受話器を離し、少し離れたところから文句を言う。
 す、すまないと父は声を控えたが、その息はマラソン直後のように荒く、震えていた。 ヘタをすれば母以上にのんびりとしている人物だというのに。
 こんな父は初めてだ。
 ……何かあったのだと、ソナーレは身を引き締めた。
「深呼吸して、落ち着いて……」
『あ、ああ……』
 随分ずいぶんとペースの速い呼吸が続いていたが、やがて少しずつ落ち着いてきた。 その頃を見計らって、ソナーレは訪ねた。
「なにが、あったの? お父さん」
『……母さんが、ソフィアが行方不明なんだ』
 ――ほんの一瞬だけ、父が母の出張を知らないのかと思った。
 だがそんなはずはない。母は必ず出張のことは二人に伝えるし、父が黒こげの状態で朝ご飯を食べている時、 母はそのむねを伝えていたことを覚えている。
 自分の記憶が改変されてでもない限り、父が慌てる理由はない。
「な、何言ってるのよ。母さんは出張でしょ? 未開惑星の調査だとか何とか」
 それでも、記憶力のいい自分の記憶違いという本当に小さな可能性を信じて、ソナーレは努めて明るく電話に声を飛ばす。 自分でも震えているのがわかったし、背筋は凍っていた。 しかしあわてふためいている父の声を聞いている今、せめて自分だけは冷静でなければならないと、強く自分を律した。
 何度も詰まりながら、父は事情を説明する。
『そうなんだが、妙に胸騒ぎがして組合の方に電話を入れてみたんだ。 そ……そうしたら、ソフィアに仕事は依頼してないと、答えられた……空港に問い合わせたら、ソフィアはもう出た後だった。 でもそれは公共の艦じゃなくて、私有の艦なんだ。足取りはそこで消えている』
 ……あの電話。電話に出た母の様子は何の変化もなかった。だけど、それが演技だったとしたら……。
「私有艦って言っても、目撃者とかいるんじゃないかな。 空港のデータベースにだって艦のタイプくらい乗ってると思うし……そうすれば、少しは手がかりになると思う」
『あ、ああ! そうだなっ! ソナーレの言う通りそうしてみる! じゃ、じゃあ一度切るから……!』
「待って、お父さん」
『どうした?』
「お母さん、無事だよね……?」
 しばらくの沈黙の後、見えていないはずの父が、確かに頷いたのを彼女は感じた。
『ああ、あいつがどうこうなるわけないじゃないか。もうとっくに異変に気付いて行動を起こしているさ。 ただ、きっとどこかでポカやって帰るに帰れなくなってるだけだよ。……迎えに行ってやらないとな』
「……うん」
 電話の奧から父を呼ぶ声がして、それじゃと電話が切られる。 単調な言葉しか話さなくなった受話器を置いて、ソナーレは事務員のお姉さんにお礼を言うと、廊下を駆けだした。
 向かうのは教室――ではなく学校の下駄箱。ともすれば流れてきそうな涙を必死に我慢して、ソナーレは駆けだした。
 だが――どこに向かえばいいのだろうか。
 靴に履き替え、外に出た瞬間その事に気付く。
「私も落ち着きなくしてるな……深呼吸しなきゃいけないのは私だね」
 すう、はぁ、すぅ、はあ……。
 自分の呼吸もなかなか安定していなかった。 電話を切る直前父の発した優しい言葉が、震える自分を安心させるための物だったことにようやく気付いた。
 落ち着きを取り戻したソナーレは腕を組んで頭を回転させた。
「……お母さんは、多分犯罪組織とか、まっとうじゃない人たちにさらわれたんだよね。 組合の眼をあざむいて母さんに接触できるなんてちょっとやそっとの事じゃできないことだし」
 ソフィアについている監視の眼を誤魔化す方法など、自分には思いつかない。
「とにかく、犯罪組織が絡んでいることは確定だね」
 となれば、その組織を突き当てて洗いざらい吐かせる……というのが映画なんかでは常套じょうとう手段である。
「そんなところに私一人で侵入しても返り討ちは当たり前だし……ちょっと待ってよ、お母さんを狙ってるって事は、 次は私やお父さんだって危ないんじゃ……」
 母に付いている監視員の様に、自分もそういう組織に監視されているのではないだろうか。
「うぅ、やな事考えちゃった」
 ぶるりと体が震えた。外は自分の不安が具現したみたいに寒い。
 思考がネガティブになっていく。そうなれば疑心暗鬼の状態におちいってしまうのは当然の成り行きで、 冷たい風がソナーレの首を撫でただけでも、叫びだしたい衝動に駆られた。
「後ろには……誰もいないよね」
 きょろきょろと振り返っても、枯れた葉が風に舞うだけだ。禿げる寸前の樹がざわざわと音を出す。
 ここからだとグラウンドは遠く、静かな活気が伝わってくる以外授業中の校舎はひっそりとしていた。
 この学校は校庭側が見えるような位置にクラスの窓があり、その反対側に位置する正門は、 これだけ人がいる学校においても完全な死角だった。
 つまりは……この場で殺人事件が起こっても、授業が終わるまで発見される可能性はないのだ。 声を上げても、どこかのクラスがバカ騒ぎやってるとか思われて、無視されるのが今の世の中なのだし。
 ドクドクと心臓が脈打つ。
 がさりっ!
「……………………っ!」
 背後にどこか違和感がないか探っていたソナーレは、正門側から聞こえた落ち葉を踏む音に体を震わせた。 背後を気にしすぎていて、前がおろそかだった。 ……振り返った瞬間ナイフが首筋に突きつけられていたりして――
「あっれ先輩? どうかしたんすか〜?」
 やたらとボーイッシュな姿の娘が、目の前に立っていた。 姿も男っぽければ口調も男っぽい。ただ高い声だけが彼女の女性である証だ。
「ス、スフィアちゃん?」
 安堵あんどから、ソナーレは腰が抜けそうになっていた。
「こんにちは、先輩」
 茜色の長い髪が尻尾のように揺れる。後ろで束ねた長い髪は、ポニーテールと言うよりも猿の尻尾みたいだった。
 彼女の名はスフィア・アーキエンス。ぱっちりとした碧眼とちょっとばかり尖った耳が特徴的な中学生である。 ソナーレとは先輩後輩の間柄だ。
 現在中学三年生。そろそろ受験シーズン到来中なのだが、まるで勉強して無さそうな彼女。 もちろんこの高校に進学が決定しているわけがなく、こんな所に来る理由が思い浮かばなかった。
「どうして高校に?」
「兄貴が弁当忘れてたから来たの」
 印籠いんろうでも見せるみたいに突き出されたのは青色の弁当袋。 真ん中に奇妙に曲がったな「レ」の字が刺繍ししゅうされたお手製の物だ。 「レ」というより「し」の字に似ているのはご愛敬あいきょうだ。
 あまり会うことはないが、彼女の兄はこの学校だった。トルシュと同じスポーツ推薦。 トルシュに言わせれば「生涯のライバル」とのこと。
「スフィアちゃん。学校は?」
「サボった。……っていうかさ、毎朝兄貴に弁当作ってもらってる身としては、 自分だけ食べて兄貴が食べないとかありえないから、うん。居心地悪いって言うか、あたしの魂が許さんぜーみたいな」
 よく見るまでもなく、制服でなく私服な彼女。とはいえいつものラフな格好ではない。
 一見不良のように見えるスフィアだが、いじめとか卑怯なことには黙ってられない性質をしていて、 中学校では正義の味方というか風紀委員というか、そういう役割を勝手に担わされている。 人気も上々。教師も成績と口調が悪いことを除いては彼女を悪く思ってはいない。
 天性の素質なのだろう。ある意味正反対な場所に位置するソナーレも、そんなスフィアは好ましいと思っていた。
「……で、先輩はどしたの? あたしみたいにサボるような事ってまずないと思うけど」
 すっと大きな目が細められる。
「う、うん……えっと」
 とっさに何かごまかしを考えて――その事に思い至る。
 そうだ。スフィアなら――いや、スフィアの兄ならば今回のことについて何か知っているかもしれない。 おそらくこの学校の中で最もそういうことに近しい存在なのだし、確かその手の組織と殴り合いをしたこともあるそうだ。
 トルシュやクレールも、もしかしたら協力してくれるかもしれない。いや、絶対協力してくれるだろう。
「……スフィアちゃん。この授業が終わったら、お兄さんにお願いして欲しいことがあるんだけど、いいかな」
「構わないけど、兄貴に用事?」
「うん。今用事が出来た」
 何を感じ取ったか、スフィアは真剣な表情で頷いた。
「なるほど、兄貴に関係することか。先輩はそう言うのに縁が無さそうな顔なのになぁ」
「無いことを一生望んだけど、ほら、人生って波瀾万丈はらんばんじょうだし」
「さもありなん……で」
 ――しゅ、と。
「そこにいるあんた誰?」
 ソナーレの頬を鋭い風がかすめた。
「――え?」
 とん。
 軽い音を立てて背後の樹に突き刺さったのは、やたらごつごつとした大型のダガーだった。 もちろん投げたスフィアが持ち主である。
 その柄を、男の手が握る。
「え、う、うそっ……」
 無意識に、ソナーレは後ろに下がっていた。
 想像が現実になった。背後に潜むその男は小さく舌打ちをしてその全身を現した。
 全身黒ずくめ。彫りの深い顔にはサングラスがかけられ、オールバックにまとめられた髪も黒色。 年齢は二十代半ばだろうか。ソナーレやスフィアよりも頭二つ分ほど身長がある。
「…………!」
 サングラスの奧から見つめられたような気がした瞬間、全身に冷たい痺れが走った。 ――もしもソナーレが戦いに慣れた人間だとしたら、それが殺気という物であったと気付いただろう。
「先輩狙いだね。何のつもりか知らないけど、先輩をどうにかするって言うなら相手になるよ」
 一方的に宣言している間、スフィアはさりげなく自分をを背後に庇ってくれた。 体勢を低くして何かの構えを取る姿は、獰猛どうもうな獣の姿を連想させる。
 ソナーレは腰の後ろ――普段は制服に隠れ、脱ぎでもしない限り絶対に見えない位置に手を回した。
 硬い感触。そこに護身用のための武器がある。
 だけど、足が震えたこの状態で一体何ができるのだろうか。 歯はカチカチ音を立てているし、足は十キロマラソンしたあとのようだし。
 寒いというのに発汗した。知らずに涙が浮かんでくる。
「…………」
 何も語らず、背後に隠れていたことに対する弁解もなく――男はダガーを投げ返す。 空中で半回転したダガーは、柄の部分をスフィアに向け、彼女はそれをキャッチする。
「紳士的じゃん。……でも、手加減とかしないんでヨロシク」
 冷たい風が再び舞う。木の葉が舞い上がるその瞬間、戦いは始まっていた。





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