月光は草原を渡る

『身体が――熱い。でも熱いのは私? それともこの人なの?』
 彼女がこんなに他人の身体を意識したのは久しぶりのことだった。
 最後の記憶はずっと昔のもの。幼い日に父親に肩車をしてもらったり、遊び疲れて腕の中で眠ってしまったり。 そんな他愛のない思い出の中でだけ……。
 その父親も五年くらい前に不意に姿を消してしまった。 他に家族はいなかった。 だからまだ子どもの域を抜け出していなかった彼女のことを、抱きしめてくれる人は誰もいなくなってしまったのだ。
 長じた後は同性の友人とは親しくしていたが、彼女には同性愛の趣味はなかった。 特定の男性と付き合ったりすることもなかったから、裸体を密着させるような経験は初めてである。
 窓に掛けられているカーテンはきれいに開かれていた。 そこからは月光が射し込み、室内とそこにしている一対の男女を淡く照らし出していた。

 エルクラティス・キュト・ハゼルの一行がアーウィンの街を出立してから数日が過ぎていた。
 その一行のなかにマリエル・ソワという名の娘がいる。 彼女は名目上は客人の扱いであるから、馬車にゆられて丁重に運ばれていた。
 この一行は全員で15人程度であろうか。 一行の代表格にしてアーウィン候の子息であるエルクラティスは、名実ともに大貴族と呼ばれる地位にいる。 その人が王都へと進むのであるのだから対面の保持と護衛の役を負った騎士たち、世話役である数人の女官。 そして荷物を運ぶ者たちなどで構成されていた。
 馬車に同乗しているのは女官たちばかり。 知り合いもいないマリエルとしては少々気詰まりがする心地である。 だが、数日という時間はとりとめのない会話をする程に親しくなるのには十分であった。 この時代、服は自分で仕立てる場合も結構多い。 だから彼女の生業が布製品の作成だと聞いた女官たちとは衣装談議で大いに盛り上がったのだ。
 そんな調子で、船に乗る予定のある港町ペグを目指して順調に進んでいた。このまま行けば明日には海が見えてくるだろう。
「もうすぐ陽が暮れますわね」
 ガタガタと揺れる馬車の中から、車窓の景色を眺めて一人の女官が言った。
「今日の宿りはセントの町でしょう、もう着くわよ。あの町の名産ってワインよね、今日の夕食が楽しみだわ!」
 もう一人の女官が楽しそうに今夜の晩餐ばんさんを思い描いた。
 彼女の言うとおり、セント周辺には葡萄ぶどう畑が広がっており、彼女たちが今いる道の両側にも葡萄畑が見て取れた。 だが収穫期ではないため、まだ実は小さい。 これがあと数ヶ月もすれば汁気をたっぷり含んだ紫水晶アメジストへと変貌するのだ。
「あの、お二人ともお酒を飲むのですか?」
 マリエルが遠慮がちに二人に尋ねた。
「当ったり前よぉ、宮仕えなんて仕事はお酒ナシじゃやってられないわ」
 ワインを楽しみにしている方の女官がくすりと笑った。
「城付きの女官というのは大変な仕事ようですね」
 興味深げにマリエルが頷くと、もう一人の女官が口を開いた。
「イーディスは女官仲間で一番の酒豪なんですよ、マリエル様」
 すました顔でさらっと同僚の秘密を漏らした。それを聞いたイーディスの顔がたちまち真っ赤になる。
「ちょっとアニー、それじゃあわたしが酒グセの悪いオッサンみたいじゃないの」
「あら、この間あった飲み会のことは忘れたとおっしゃるつもり?」
「……うっ。あれはたまたま、よ」
 快活で賑やかなイーディス、穏やかな雰囲気でありながら鋭いひと言を放つアニー。 これまでの関わりの中で、マリエルは何となく二人の性格を把握してきた。 そして二人の間柄も。この二人は一見仲が悪そうに見えるが、実際はとても仲が良いのだ。 飾らない応酬おうしゅうからもそれがよく感じられる。
 その時、がたんと音を立てて馬車が止まった。お喋りに夢中になっている間にセントの中に入っていたようだ。
「さーて、降りる支度をするとしますか。アニー、準備はいい?」
「ええ、手荷物はまとめてありますから、いつでも降りられますわ」
 二人の女官は仕事をする顔つきになると、颯爽さっそうとした足取りで下車する。 遺漏いろうなく仕事をこなせるだけの力量がなければ、アーウィン候子息の王都行きのメンバーには選ばれたりはしない。
『二人とも良く出来た人たち。わたしも働く女性の一人として見習わないと……』
 マリエルは二人の姿を追いかけるようにして、自分も荷物を掴んで馬車を後にする。
 降りたとたんに目に入ったのはセントの領主館、そしてその門前に立つ一人の男性の姿であった。
 彼女が出立前に見たアーウィン候の居城には劣るが、セントの館の建物自体も中々に立派なものだ。 ワインから得られる富がこの町を支えているのだろう、町の規模の割にはかなりの大きさと造形美を誇っていた。 が、それも彼女の視界に立つ男性――アーウィン候の息子であるエルクラティスの前では、 全てが色せて見えた。
 エルクラティスの母親は森の民たるエルフ族であり、人間の父親であるアーウィン候の間に生まれた彼はハーフエルフであった。 その母親譲りの銀髪は腰まで伸びており、少しももつれたりせずにさらさらと流れている。 瞳は深い海のような氷蒼色アイスブルーで、 見るものを魅了するかのような不思議な輝きをたたえていた。 人間族よりも華奢きゃしゃだが長身の身体と尖った耳はその美しさを補いこそすれ、損なうことはなかった。 それほどまでにこの青年は整った見目形をしていたのである。
 高貴な育ちで培われたのか、上品で優雅な身ごなしはここでも人々――主に女性たち――の熱い視線をたっぷり集めていた。
「やあ、今日の旅はどうだったかい?」
 馬車から降りたマリエルを目にとめたのだろう、人好きのする微笑を作ってエルクラティスがやってきた。
「いや、特にどうということも……ずっと馬車に乗っていただけだし」
 あまり気の利いた答えではない。が、それも仕方ないことである。 彼女にとってエルクラティスとの初の出会い方は、あまり良好なものではなかったのだ。 彼はアーウィン候の令息なのだから本来であればもっと丁寧な言葉で喋られければならないのに、それさえもままならない。
 ここまでの旅の途上で彼に対する印象はいくらか良くなったが、どうにもぎこちなくなってしまう。
「それではセントの領主館へとご案内いたしましょう、マリエル様」
「…………」
 普段はマリエルと呼び捨てにされていた。 それを様付けにするのはからかっている証拠だ。 エルクラティスはフフッと笑い、気取った仕種で一礼するとマリエルの手を取り中へといざなう。 マリエルを伴い王都へと行く、それが彼の役割なのだからこれは自然なことではある。 しかし彼女の口から出てきた言葉は……。
「エルク、その……腰に手をやるのは止めてくれないか。何というか、ぞわぞわする」
「気のせいだよ。こういうところでは女性レディはエスコートされるもの、それらしく振舞うことも大切さ」
 耳元でささやかれ、さらにぞわぞわ感が増す。 エルクラティスの手がある位置は腰というか、お尻というか……なんとも微妙な場所であった。
 しかし、この場で無作法な振る舞いをするのも気が引けたので、身を離したい衝動をかろうじて抑え込んだ。 誤った礼儀作法に関する知識を植え付けられていることも知らずに……。

「ああ……気持ちいい」
 マリエルは彼女に与えられた寝室で、ごろりとベッドに横になった。 馬車の旅は楽ではあるのだが、一日中ずっと座りっぱなしなのである。 ずっと同じ体勢でじっとしているとなると、その日の行程を終える頃には手足の関節が変な感じになってしまう。 ベッドの中で身体を思い切り伸ばすと、心地の良い開放感にひたれた。
 このセント領主館の客間のベッドは彼女の自宅にあるものよりずっと大きくて立派だ。 マットレスはふかふかしているし、手足を存分に伸ばしても落ちる心配は少しもない。
『それにしても……ワインって、すっぱいようなカッとするような、何だか変な味だったな……』
 ぼんやりと天井を見つめながら宴の席で出された飲み物のことを思い返した。
 このセントの町はアーウィン候の部下にあたる人物とその家族が治めていた。 そんな人が主催した歓迎の宴であるだけに、一行はそれは立派なもてなしを受けた。 領主は幼い時分のエルクラティスを知っている人だから、彼の美しく成長した姿を見るのは嬉しいのだろう。 領主夫妻にその息子と嫁、生まれたばかりの孫まで一家揃っての歓待かんたい振りであった。
 そして夕食にはもちろんイーディスの期待通りにワインが振舞ふるまわれた。 誰もが美味しそうに紫色の液体を楽しんでいたが、いかんせんマリエルは本格的に飲酒をするのが初めてであった。 お茶にブランデーを少し混ぜる、その程度は飲んだことがあったけれど、グラスに注がれた本格的なお酒というのは未経験。 失礼のないように最初の一杯を飲み干すのがやっとであった。
 幸いなことに酔っ払ったりはしなかったけれど、疲れたから休みむと言って早々に退席したのだ。 その後は湯殿ゆどのを借りて身体を清め、洗濯した着替えを部屋に干すと、もう何もする気も起きなかった。
 次第にまぶたが落ちようとする力に抗しきれなくなってきた。
 そもそも彼女のような一般庶民は太陽と一緒の生活を送っている。 夜更かしは仕事の納期が迫っている時ぐらいしかしない。ランプや暖炉の燃料代は節約するに越したことはないからだ。
『いけない、だめだ……』
 このままだと本当に眠ってしまいそうだったので、何とか気合を入れて身を起こす。
 小窓を明けておいたから洗濯物は明朝には乾いているだろう。 彼女自身のミストグリーンの髪は風呂上りにしっかり拭いておいたので既に乾いている…… ショートヘアの彼女は乾かさずに寝ると、翌朝大変なことになるのだ。 荷物は寝泊りに使うものしか広げていないので、翌朝になって支度をすれば問題ない。
 一通り点検をしてやり残しがないのを確認した。これで後はもう寝るだけとなる。 一度そう安心し始めると、さっさと寝たくなるのが人情である。 マリエルも今度は睡魔に逆らったりせずに、部屋の明りを消して上等の布団にもぐり込んだ。 お酒を飲んだせいだろうか、彼女の意識はゆるゆると眠りへと落ちていった――。

 深い眠りに落ちる――その瞬間、不意に眠りが妨げられた。 マリエルは誰かがこの部屋に入ってきたの敏感に感じ取る。
 腕利きの職人によって手がけられたのであろうこの部屋の扉は、開く時にほとんど音を立てない。 室内へと入ってくる人の足音も高価な絨毯じゅうたんに吸い込まれてしまっている。
 それでもわずかな衣擦きぬずれの音はするし、 何よりも人の気配がすれば彼女が意識を覚醒かくせいさせるには十分だった。
 寝返りをする風を装って、人の気配がする方へと身体の向きを変えた。 部屋の中はカーテンが閉められているので満月の晩であっても暗い。 しかし彼女は不思議と昔から夜目やめが利く方だった。 侵入者の相貌そうぼうを見て取るには隙間すきま明りがあるだけで足りる。
 それは相手も同様なようで、暗い部屋の中を少しもよろめかずに悠然ゆうぜんと歩いている。 その人は彼女がいる寝台の前を通過すると、窓に掛けられたカーテンを全開にした。
 ――瞬間、さぁっと月光が室内に入り込む。
 月明かりを全身で浴びて立っている人は、まさしく銀月の化身。 清々すがすがしい面輪おもわに豊かな銀髪をなびかせたエルクラティスであった。
「俺は暗くても不自由しないが、それでも月明かりはいものだ。 せいぜい月の光を浴びるといいよ……起きているんだろう?」
 彼は月を背にし、主人然とした落ち着いた声音でマリエルに語りかけてきた。 侵入者の正体を確認した時点で寝たふりが通用する相手ではないと思っていたが、こうもあっさり見抜かれていたとは。 少しばかり悔しい思いがしなくもない。
 彼女は相手の言葉には特に返事をせずに、ただ半身を起こした。 そのまま窓辺にたたずむ人を見る。 声を立てて無作法をなじろう、不思議とそんな気持ちにはならなかった。
 ――もっとも、この町の領主夫妻を含めた全ての人間の中で、一番高い地位にいるのがエルクラティスである。 人を呼んだとしても相手が彼であると判れば、彼の行為をとがめられる人間はそういないだろうが。
 そのエルクラティスは返事がないことに不快感を表すでもなく、 彼女が半臥の姿勢をとっているベッドのそばまでやってくると、そのへりに静かに腰掛けた。 そのまま何もせずに、ただただ窓から顔をのぞかせる月を眺めていた。
『この人は一体何を想っているというの? 何かを捜し求めるような、そんな目――』
 マリエルはそんなことを考えたが、彼がここにいるのが意外でもあった。 てっきり気に入った女性の部屋にでも行っているのかと想像していたからだ。
 というのも、アーウィン候の息子は素敵な女性との逢瀬ロマンスを大切にしている、 その噂はアーウィン候領内では有名なものだったから。 彼の持ち前の美貌も影響し、エルクラティスの異性関係の情報は虚実きょじつ入り乱れてたっぷりとあるのだ……。
 二人はそのまま言葉を発することもなく、エルクラティスは月を眺め、マリエルは月をその身に宿した男をじっと見つめていた。

 ――どれくらいそうしていただろうか。
 不意にマリエルは布団から抜け出てベッドの上にぺたんと座り込むと、エルクラティスの方へ身を寄せて尋ねた。
「どうしてここに?」
「マリエルの顔がどうしても見たくなったから、かな」
 エルクラティスは穏やかな微笑を浮かべて彼女と向き合った。
「それだけじゃわからない」
「自室で休んでいたら、どうにも君の顔がちらつく。なら実物を見た方が手っ取り早い」
 そういうことさ、とばかりに彼は肩をすくめてみせた。
「私は観賞物ではないのだけど」
 彼女が少しむっとして顔をしかめると、彼も頷いた。
「そうだね、俺もだ。では人らしく振舞おう」
 そう言うとエルクラティスはマリエルのおとがいを手で支え、自分の顔の方へと引き寄せた。
 二人の顔が互いの息が感じられるくらいに近づく。
 マリエルは相手の顔にかかる銀髪を払い、その深い氷蒼色の瞳をしっかりと見た。 彼の手で両頬が包まれると瞳を閉じて、僅かに顔を上に向ける。
 互いの顔と顔との距離がなくなり、唇が触れ合った。最初は軽く、二度目は深く長く。
「……変な感じ」
 男の顔が離れると、マリエルは己の唇に軽く触れてつぶやいた。 柔らかくて、熱をもっていて……一連の動作を反芻はんすうして無性に恥ずかしい気持ちになった。 風邪で発熱した時みたいに顔が上気しているよう。
 エルクラティスはそんな彼女の様子をいとおしそうに眺めていた。
「君のそういうところがたまらないな。どうしてこんなに可愛いんだろう?」
 そう言うと、彼女をごく自然な動きで抱き寄せる。 マリエルの寝巻きの紐をゆるめ、襟元えりもとに手をかけると指先へと滑らせていく。
 されるままに衣服を脱がされていった彼女の肌が、月明かりのもとにあらわになった。 人の前で服を脱いでいるという状態が羞恥心しゅうちしんを駆り立てる。 彼女はうつむきかけて、何かに気がついたかのように顔を窓の方へとらした。
 彼女は人前で裸になるも初めてなら、全裸の男性を見ることも初めてである。 顔を真っ赤にして、直視してしまったものから目を背けるのも無理のないことだろう。
 とはいえ、ちらりと見てしまったエルクラティスの身体を綺麗だと感じてしまう、そんな余裕があることに彼女自身が驚いていた。
「は……っくしゅん」
 マリエルの口から小さなくしゃみが出た。 気分が高揚こうようしているせいか今まで気にならなかったが、 寝室には夜気やきが忍び込んでおり、肌寒さを覚えるくらいに室温が低下していたのだ。
「寒い?」
「うん、少し……」
 エルクラティスはベッドのすみの方へ追いやられてしまった掛け布団を手にする。 そしてマントを羽織はおるかのように自分の肩にかけると、 そのままマリエルを抱きしめるようにすっぽりと包み込んだ。
 ふんわりとした布の感触と、直に触れてくる相手の体温が彼女をぬくもらせる。 すると、春の陽射しにさらされた雪のように、みるみる彼女の身体から緊張が解けていった。

 ベッドに横たえられたマリエルのたおやかな肢体したいを、 窓から降り注ぐ月光がほの白く浮かびあがらせる。
 が、それはすぐに遮られた。 エルクラティスの影が彼女を隠したかと思うと、そのまま重みとなって覆い被さってくる。 マリエルはそれを全身で受け止め、彼のハーフエルフらしく人間より細い身体に手をまわし、かすかに力を込めた。
 エルクラティスは彼女の耳元へ軽く口付け、それから首筋、鎖骨……と少しずつ場所をずらしていく。 露出した肩を甘く攻め立てられ、次第にマリエルは陶然とうぜんとした表情になっていった。
 静かな寝室には息遣いと衣擦れの音だけが響く。 しっとりと汗ばんだ肌にエルクラティスの長い銀髪がまとわりつき、まるで二人を縛る鎖のように思われた。
 彼の背にマリエルの爪が軽くあとを残す。 初めて受け入れた男の所作に、彼女の呼気がにわかに荒くなった。
 お互いに己の胸のうちを語った訳ではない。 だが、自分の中にある空白を埋めるかのように、ひたすらに何かを求めた。 今、それが相手によって満たされていっていることを二人は同時に理解した。 身体も心も一体となり、全てが溶けて混ざり合ったかのように。
 胸元を優しく、けれど執拗しつよう愛撫あいぶされ、 彼女は身体が芯から熱くなっていくように感じた。 全身を駆け抜ける激しい衝動に、その唇から声とも吐息ともつかない音を漏らす。
 対するエルクラティスは常に探していたものがやっと手に入った、 そんな安堵あんどと湧き上がるよろこびに浸った。 今までにないくらいに新鮮な感動を覚え、自己という枠が外れてしまいそうだと思った。
 やがて、そんな思考もままならなくなる。彼は考えることを放棄し、 自分の身体が望むままにゆだねた――。


− Fin −



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