Stabat Mater

「トリス先生っ! マリアの……妻の容態はどうなっているんですかっ?」
 青い髪をした壮年の男性は部屋に入るやいなや、奥にいる医師に詰め寄った。 彼の内心の焦りは表情にもはっきりと表れており、落ち着かない様子で来室者用の丸椅子に腰掛ける。
「ラインゴッドさん、とにかく落ち着いてください。これから診断の結果についてご説明いたしますから」
「あ、ああ……失礼しました」
 妻の担当医であるジェーン・トリス医師になだめられ、 フェイトは完全にとまではいかないものの平時の半分くらいは落ち着きを取り戻した。 そして改めて彼女に向き直り、神妙な顔で再び妻の病態について訊ねる。
「先生、マリアは――」
 その声はすがるようでいて、正答を知りたくないと逃げるようでもあった。

 ここはヴィエナ・シティにあるヴィエナ総合病院である。
 この病院はフェイトとマリア、そして彼らの子どもたちが暮らしている場所から一番近く ――と言っても歩いていける距離ではない――にある設備の整った病院であった。 その大きな建物の中の一室、トリス医師の部屋をフェイトは訪ねていた。
「――といった御様子なのです。ただただ身体が弱っているとしか……。 三人目のお子様を妊娠出産なさったことが契機となっての膠原病こうげんびょうのようにも考えられます。 原因不明の身体の衰弱と膠原病のような症状を併せ持っているとしか申し上げられません。 もちろん何らかのウィルスや毒物の反応もなくて……」
 トリス医師は中年女性特有の優しげな声音で、患者の様子をその夫に説明した。
 膠原病とは、身体の外部から異物に対しての防衛機能が狂ってしまい、自身の身体を異物として攻撃してしまう病気である。 内臓を含む全身に症状のでる自己免疫疾患の総称でもある。 つまり、マリア自身の身体が彼女を傷つけている、そういことなのだ。 そして身体衰弱が合わさることで本来の膠原病よりも進行が圧倒的に早くなっていた。
 いや、どちらが先にきたものなのかは判然としない。身体が弱っていたがために膠原病を招いたのか、 己の身体が傷ついているところに何らかの要因が加わって加速度的に身体を弱らせていったのか……。
「それで……治療はできるのですか?」
 眼前の医師が一縷の希望であるかのように、縋る瞳で答えを求めた。
「投薬治療と安静にすることで進行を遅らせることはできますが、原因が判らない以上、どうしようもなくて……」
 トリス医師は辛そうにしながらも正直に治る見込みがないことを告げた。
「……そうですか」
 彼はその答えを受け止め黙考すると、先程までとはうって変わって静かになる。 そして全ての感情を押し殺した顔でトリスに爆弾を投げつけた。
「先生、妻はあとどれくらい生きられますか?」
「……! ラインゴッドさん、あなた……」
 彼女は務めて冷静な表情を保とうとするが、その顔を見ればいかに彼女が動揺しているかが伝わってくる。 つまり、それ程までにマリアに残された時間は短いということだ。
「言うのを躊躇ちゅうちょするくらいに危険な状況なのですね?」
 フェイトにじっと見つめられ、まるで彼女自身が患者になったかのように苦しそうな顔つきになる。 それでも医師としてのモラルに忠実であるべく、家族からの質問に答えた。
「急激な症状の進行速度から判断すると、おそらくあと数ヶ月……長くて半年程が残された時間になります」
「数ヶ月……! そんな、短すぎるじゃないか!!」
 マリアが倒れ、この病院へ担ぎ込まれたとの急報を受けて病院へと駆けつけた。 その時寝台に伏せっていた彼女の儚げな様子を見て、避けようのない死が間近に忍び寄っているのを感じていた。
 フェイトには医学の心得は無い、だが幾多の死線をくぐり抜けてきた身である。その経験は彼を死に対して敏感にした。 もうすぐ命の炎が消えようとしている者が放つ独特のオーラのようなものを感じ取れるようになってしまったのだ。
 それ故に覚悟はできていたが、いざ現実を突き付けられるとあまりにも辛い。 どうしてこんなに辛いことばかりが自分の人生に訪れるのか――、運命というものはとことん僕を苦しめたがるようだ。 まるで運命に踊らされる主人公になったかのような考えが頭に浮かぶ。
「……ゴッドさん、ラインゴッドさん?」
 ふと気が付くと、トリスが心配そうにフェイトの様子を伺っていた。
「あ……失礼。どうにも、その」
 いいえ、とばかりに彼女は軽く首を振った。落ち着いて話を聞こうとしたものの、 愛しい家族のこととてそうもしていられないのだろう、彼女はフェイトの内心をそう推測したようだ。
 医師として長い間働いてきた彼女は、患者の家族や親しい人々に幾度となく死の宣告をしてきた。 今日もいつもと同じなのだ、しかし……。
 手の施しようのない患者に相対した時、患者が死へと旅立ってしまった時。 職務上、日常的に死に接してきた。死そのものも辛いが、残されゆく人たちを見るのも同じくらいに辛いのだ。 人の命を救うため医学を志したが、その結果はどうなのだろう?  愚にもつかないことと思いながらも、自分が死神にでもなったのかのような気分になることもある。
 目の前にいるこの男性に対してもそう。 彼の様子を見ればどれだけマリアという女性を愛しているのかが一滴も漏らすことなく伝わってくる。 それなのに間近に迫った死を伝えなければならない――。
 トリスは際限のない自問自答の無限ループを振り払い、思考を仕事上のものへと切り替えた。
「どうかお心を強くもってください。奥様に一番必要なものは心身の安静ですわ」
 医師の言葉にフェイトは力強く頷く。
「ええ、解っています。こんな時だからこそ僕がしっかり支えなければ……あいつが一番辛いんだから、それを少しでも和らげる。 それは僕の役目です」
 ただの気休めともとれなくもないが、それが真実必要なことであるとフェイトもトリスも理解していた。
「これからの治療に関しては先生におまかせします。 身体的な苦痛を少しでも減らして、可能な限り長く時間を作ってやってください、マリアの……僕たち家族の時間を」
「はい、確かに承りましたわ。……このことは奥様に?」
 フェイトの切実な願いに彼女はしっかりと頷きを返したが、一転して落ち着かない表情になる。
「私は奥様にご容態のことはお話したのですが、今のことについてはまだ……」
「僕はこれから彼女の会いに行く……構いませんよね? その時に様子を見て僕が言う……言います、彼女は隠し事が嫌いだから」
 彼は過去の出来事を思い出したのだろうか、懐かしさと寂しさを同居させた笑みを浮かべた。
「マリアが自分の容態について訊ねてきたら、先生も遠慮なく説明してください。大丈夫、僕たち夫婦はそういうのは慣れていますから」
 今日はここで失礼します、と挨拶をするとそのままフェイトは退室した。
 フェイトの後姿を見送りながら彼の言葉を反芻はんすうする。
 この人たちは何か重荷を背負って生きてきた――。 トリスは彼らの過去を知らないながらも、退出際の彼の言葉からそんな印象を受けた。
 退室する際にみせたフェイトの表情は自然すぎるくらいに自然なもの。 それは一見、死が迫っているという事実を受け止めているかのように見える。だが、決してそうではないと彼女は思う。
『あの男性の心は強く固い、でもそれはもろく弱いことの裏返し。 残された者が負わねばならない痛みに耐えられるかどうか……何故かしら、とても不安を感じるわ』
 トリスは患者の夫の安寧あんねいと、その時がくるのが少しでも遅くなることを心から願った。

 バシャバシャと水音が洗面室に響く。キュッと蛇口を捻り水を止めると、濡れたままの顔をあげて鏡で自分の顔を検分した。
「ちょっとはマシな顔になったか?」
 顔色はいつもより悪いと思うが目立つほどではない、フェイトは自分でそう結論づけた。
 これから病院内に併設されている託児室に子どもを迎えにいく。 もうすぐ六つになる男の子たちに無用な不安を与えてはいけないのは彼でなくとも気が付くことだ。
 トリス医師の前では落ち着いた風を装っていたが、その実かなり精神の揺れ動きが発生している。 そのまま子どもたちに会いに行ったら、聡い子どもたちは父親の常ならぬ様子を敏感に感じ取るだろう。 突然母親が倒れてひどく混乱しているだろうから余計に。 そんな子どもたちを少しでも安心させるために、冷水をひっかけて少しでも心を静め、顔だけでもしゃっきりとしていかねばならない。
 手持ちのタオルで顔を拭き、前髪についた水をはらうと、そこにはいつもの父親の顔があった。
「よし、迎えにいくとするか……大丈夫だよな?」
 自分を制御しきれている自信はない。昔から感情のコントロールは苦手な方だ。 だが今はそんなことを言っていられない。一抹いちまつの不安を振り払い、彼は洗面室を後にした。

 柔らかいけれどほこりがたたないように工夫された絨毯じゅうたん、 愛くるしい動物のぬいぐるみに絵本、子供向けの玩具や内装で統一された部屋。 そこには何人かの子どもたちがそれぞれに遊んでいた。奥まった部分にはガラス戸で仕切られた乳児のための区画がある。 このヴィエナ総合病院は近在の病院の中でも随一の託児室が併設されているのだ。
 フェイトは受付の女性スタッフに名前を告げ、我が子に会うために中へと入った。
 すると。
「おやじ――っ!」
「お父さん!」
 彼が託児室に姿を見せるやいなや突撃してきたのは彼と同じ髪の色をした男の子。 それから少し遅れてやってきたのは一人目とよく似た顔をした男の子である。
 一人目の勢いがある方はトルシュといい、二人目の落ち着いた挙措きょその方はクレールという名前。 二人が似ているのも道理で、彼らは双子の兄弟なのである。
「待たせたな。突然のことで二人ともびっくりしたろう。ごめんな、そんな時にそばにいてやれなくて」
 両方の腕を使い、しがまりついてくる子どもたちの肩を抱く。 この幼い子どもたちが母親のいない不安と恐怖で怯えていたと思うと、身を切られるような痛みを覚える。
「お母さんはどうしているの? 元気になったの?」
 大きな瞳をぱっちりと開いて訊ねてきたのはクレール。不安そうに目が潤んでいた。
「今ね、お医者さんとお話をしてきたんだ。もう落ち着いたようだから、これからみんなでお母さんに会いに行こう」
 父の言葉と力強い大きな手に安堵あんどしたのか、子どもたちの顔に笑顔が戻る。 双子は互いに顔を見合わせると、はきはきした声で父に返事をした。
「「うん!」」
「よし。それじゃあ父さんはフォルサを迎えに行くから、二人とも支度を済ませておきなさい。ここの人たちにちゃんとお礼を言うんだぞ」
「はーい」
 返ってきた声は一人分だけ。思いついたら即行動の傾向がある双子の弟は、すでに荷物があるロッカーの方へと走り出していた。 それを苦笑しながら見送ると、奥の乳児室にいる彼の三人目の子ども、長女のフォルサを迎えに行った。

 病院の廊下は普通の家のそれより幅が広い。そこを子ども連れて静かに歩いていった。 テレビや新聞が置いてある談話コーナーを通り過ぎて、さらにまっすぐに進むと目的の場所である。
 暖かみのあるアイボリーカラーの扉の脇には『マリア・ラインゴッド様』と書かれたプレートがついている。 この部屋で間違いないだろう。フェイトは遠慮がちにドアをノックすると、室内に声をかけてから扉を開けた。
「お母さん、大丈夫? 苦しくない?」
「おれたちずっーと心配してたんだぜ」
 部屋の中央に配置されたベッドの上に母親の姿を見つけると、双子は母を案ずる言葉を口にしながらそばに駆け寄っていった。
「ごめんなさいね、心配をかけちゃって。お医者さんに診てもらったからもう大丈夫よ」
 マリアは半身を起こし、二人の子どもたちの頭をでる。 その顔は幼い人たちを安心させるように微笑していたが、フェイトには彼女の胸の内に別の思いがきたしていることを見て取った。
 それも当然だろうと思う。トリス医師からは原因不明の病魔がその身に潜んでいると聞かされているのだから。 自分から望んだ事とはいえ、それにさらに追い打ちをかけることを言わねばならない。
「ふきゃあ」
 両親の心の内を感じ取ったのか、唐突にフェイトの腕の中でフォルサが身じろぎした。
(やれやれ、やはり女の子は鋭いもんだな。こういうトコは母親似かもしれない)
 母親似なら将来はすこぶる美人になるだろう、そんなことを考えながら娘を抱き直すと、自分も妻のいるベッドに近寄った。
「こらこら、お前たちだけでお母さんを独占するんじゃない。フォルサだって母さんにだっこしてもらいたかったよなぁ」
 そう娘に語りかけると、壊れ物を扱うかのように丁重な手つきでフォルサを母親の手に託そうとする。 先ほどから母親にぴったり寄り添っていた双子も、心得た風に動いて父と妹のために場所を空けた。
「おぎゃあおぎゃあ」
 母親の手に渡されたとたん、フォルサは泣き始めた。 だが、マリアはそれには動じずに慈しみの込められた優しい声で我が子に語りかける。
 そう、これは母を厭う泣き声ではないのだ。それとは正反対の母を求める意思表示である。
「あらあら、お腹がすいちゃったのね」
 以心伝心、母と子は会話も無しに意思疎通ができるようだ。
 彼ら夫婦の最初の子育ては二人分だったので、世間の父親以上にフェイトは子育てに参加したものである。 だが男親の辛いところなのか、どうしても妻のように赤ん坊の泣き声を上手く判別できなかった。そんな思い出があった――。
(ああ、どうにも何かにつけて感傷的になってるぞ。自分がしっかりすると、さっきそう決めたばかりじゃないか……)
 授乳するために襟元えりもとをくつろげ、赤ん坊を抱いている姿は絵に描いたように美しい母子である。 それをぼんやりと眺めながら、フェイトは自分の心の弱さを省みて情けない気持ちなっていった。 マリアに彼女の余命について嘘偽りなく伝える、先程の決心も容易たやすく崩れ去ってしまいそうな気がした。

 ――くいくい。
 フェイトは不意に服のすそを引かれて、ぐるぐると回るマイナス思考の渦から現実へと引き上げられた。
 引っ張られた方を見やると、何かを言いたげに口を開いたり閉じたりしているトルシュと目が合う。
「すまん、父さんぼんやりとしてた。どうしたトルシュ?」
 父に問われたトルシュはそれでも迷っているようだが、ややあって口を開いた。
「あのね……おれたちもお腹すいた」
 いつもは元気のよい――むしろ元気が有り余っていると言っていい――彼も、状況が状況だけに気を使っているらしい。 遠慮するような小声で自分の腹具合を父に訴えた。
「あ、そうか……もうこんな時間だ」
 窓の外はすっかり夕暮れ時で、彼らが家にいたらもうすぐ夕飯が始まる頃である。 トルシュの隣にいるクレールも同様にお腹がすいているようだ。
 フェイトはあごに手を当てて思案すると、ポケットから財布を取り出した。 双子を招き寄せると、財布の中から札を数枚抜き取って手渡すと、こう言った。
「この病室に来る途中に食堂があったのを覚えているか?」
「10階にあるやつ?」
 トルシュが首をかしげながら問う。 ――それはフェイトの言っている食堂ではなく、お値段が高めの展望レストランである。
「うーん……そっちでもいい。そこに行って二人で好きなものを食べてきなさい」
「わぁい!」
 上階のレストランだと先程渡した金額だと足りないかもしれない。 トルシュから現金を返してもらうと、一つのカードを取り出してクレールに手渡した。
「お金を払うときはこのカードを使うんだ。使い方は知ってるよな?」
「うん……この間、お父さんが使うのを見ていたから」
「よし、なら大丈夫だな。無駄使いしないで帰って来るんだぞ」
 ちょっぴり力のこもった声で長男によろしく頼んだ。幼いながらもしっかりした双子の兄は、弟の動向にも気を配ってくれている。 この子にならカードを預けても安心できた。
「じゃあいってきます」
「わーい、ごっはん〜」
 それぞれに言葉を残して双子たちは部屋を後にした。
 とたんに部屋の中に静寂せいじゃくが戻ってくる。 フェイトは部屋のすみにあった椅子を持ってくるとマリアと向かい合って座った。
 気持ちがぐらぐらと揺らぎっぱなしである。しかし言わねばならない、あの残酷な事実を……。

 ひっそりとした病院の廊下に小柄な人影が二つあった。その鮮やかな身ごなしは足音を立てずに軽やかである。
 彼らの様子は部屋から出てきた時と違って、両親が見れば驚くくらいに静かなものだった。
「ねえ、どうして食堂じゃなくてレストランにしたの? お母さんの病室に行く途中に食堂って見たじゃない」
 不思議そうな表情でクレールは弟に尋ねた。
「食堂だと食べ物が出てくるのも早いし、食べるのだってすぐに終わっちゃうじゃん」
「早く戻った方がいいんじゃないの?」
「わかってないなぁ、親父と母さんは万年らぶらぶ夫婦だって隣のおばさんが言ってたろ。 二人っきりにしてあげようという、ふしょーの息子が考えたおやこーこーさっ!」
 トルシュは、えっへんと胸をはって宣言した。
「そ、そうなんだ……」
 テレビアニメに手を出し始めた弟の言語は理解し難いことが多々ある。 もやもや感が残るもののクレールは一応納得した風を装っておいた。親孝行は良い事だって聞いたし……。
 気が付けば弟が彼の方をじっと見ていた。
「な、何っ?」
 クレールは弟の奇行に気色悪さを感じて、さっと距離をとる。
「それってさぁ、お金の代わりに使えるカードなんだよねぇ」
「そうだけど……あっ、ご飯のお金以外はダメなんだからっ」
 猫撫で声でカードに興味を示したトルシュから、カードを隠すようにする。
「ちぇっ。まーいっか、レストランがおれを待ってるぜー」
 するとトルシュはさすがに本気で悪用しようとは思っていなかったらしく、 さっさと興味を目前にまでやってきた夕食へと移していった。彼の頭の中は色んな食べ物が行進を繰り広げているに違いない。
 そんな弟の後姿を見ながらクレールは独り考えた。
(お父さんはぼくにカード預けてくれたけど……ぼくにはトルシュみたいな考えはできなかった。ぼくは――)
「何してんだよ〜、早く来いってばよ!」
 廊下の曲がり角でトルシュが手を振っている――いつもと変わらぬ姿で待ってくれている。
「今、追いつくよ。待ってて」
「おう!」
 クレールの口元が自然に綻んでいた、自分でも気付かないくらいにゆっくりと。 ほっとしたような和やかな笑顔がそこにはあった。
 弟は先に行ってしまったら戻ってきたりはしない、でも必ずそこで待っていてくれる。だから追いつけばいいのだ、自分の足で。 逆に弟が遅れることがあれば、自分はどんなに時間がかかろうともそこで待とう、彼は幼い心でそう誓った――。

「見て、可愛い寝顔」
 マリアは自分の手の中にあるぬくもりをそっと撫でた。
 お腹がいっぱいになると眠くなるのは大人も子どもも同じらしい。 母乳をたっぷり飲んだフォルサは母の腕の中で気持ち良さそうに眠っている。
 フェイトは娘をマリアから受け取ると、病院が用意してくれたベビーベッドに運んだ。 眠っている人間を起こさないようにするのは気遣いさせられるもので、無事に寝かしつけると思わず溜息を漏らしてしまった。 再び妻のそばに戻ると複雑な面持ちで椅子に腰掛けた。
「二人がいないと静かなもんだな」
「そうね、本当に元気な子に育ったものだわ。わたしとあなた、どっちに似たのかしら……」
「あのくらいの頃か……僕も騒がしかった気がするよ。良く言えば元気があったってことになるけど」
 苦笑しながらそういうフェイトをマリアは可笑おかしそうな表情で見ている。 そしてそのまま表情を変えずに、彼に核心に迫る問いかけをした。
「フェイト、正直に答えて頂戴ちょうだい。 わたしはもう長生きできないみたいだけれど、具体的にはあとどれくらい生きられるのかしら?」
「――マリア!? ……やはり気がついていたんだね」
 やはり、という気持ちが大きい。フェイト自身がそうであるように、彼女も共に死線を潜り抜けてきた仲間の一人だ。 クォークにいたことを考えれば、危険と隣り合わせだった時間は彼よりもずっと長いだろう。 だから彼女も漠然ばくぜんと自分にまとわりつく死の臭いを感じ取ってしまったのだろうか。
「君の担当の先生から話は少し聞いているんだよね?」
「少し、ね。病院で気がついて話を伺ったのだけど、ふらふらしていたからちゃんと理解してないのよ」
「そうか……そうだな。急に倒れたのだから無理もないさ」
 フェイトは病身の妻を気遣うように穏やかに微笑んだ。
「先生が言うには膠原病みたいな症状と身体衰弱だそうだ。 ええと、上手く言えないんだが……自分の身体が自分を傷つけている状態らしい。うん、まあ、そんな感じでアレがナニな」
「よく解らない症状で、さらに原因も判らないから手の施しようがない……と。そういうことね?」
 結論を先延ばしにしたがっているせいなのか、 もごもごと口中で呟くフェイトに苛立いらだちを感じたマリアは確認するように迫った。
「えーっと」
「そうなのね?」
「……仰る通りです、はい」
 観念したフェイトはようやく彼女の推論を肯定した。
「変わらないわねぇ、そういうところ。誤魔化そうとするときはあからさまな態度をとる癖、自分で気がついてる?」
「あんまりいじめないでくれよ。まあ、嘘が不得手なのは自覚してるけどさ」
 フェイトは自分が情けない状態だと思ったが、ここに来てから初めていつものように笑う彼女を見て嬉しくなった。 この笑顔を守るためならどんなことでもしてやる、それが自分を道化にすることであっても……。
「愛があるからよ、苛めてしまうのは……ってこれじゃあ小学生みたいね。 ま、それはさて置き、わたしの残り時間は具体的に後どれくらいなのかしら?」
「言うつもりでいたけれど……正直迷ってる。言わないとダメか?」
「わたしは知りたいわ、自分の身体のことなのだから余計に」
「だけど――」
 マリアのほっそりとした手がフェイトの両頬を包む。そして子どもをあやすかのように、ゆくっりと優しく語りかけていった。
「原因不明の病気ならわたしにもあなたにも落ち度はないわ。運が悪かった、そう言うしかないことなのよ。 だから泣いたりしないで……ね?」
 その細い指はいつのまにか涙が滲んでいたフェイトの目元に触れ、そっと涙をぬぐう。
 フェイトはいたたまれなくなり、ベッドに身を乗り出すとマリアの身体を強く抱きしめた。 この宇宙せかいにたった一人の女性、マリアという一人の人間を失いたくない――。
「フェイト……」
 彼女は腕を夫の背に回し、彼が落ち着くまでずっと背中をさすっていた。
(倒れた今でさえこんな様子なんだもの、これじゃあわたしが泣きわめいたりするわけにはいかないわね。 ほんと、気合一つで治せればどんなにいいかしら……)
 だがそうならないであろうことは彼女自身が一番良く解っていた。自分にはあまり時間が残されていないのだ。
「少しは落ち着いた?」
 あれからしばらく互いに黙ったままだった。 フェイトが落ち着きを取り戻したのを感じたので、マリアは彼を椅子に座るように促したのだ。そして話を戻す。
「ああ……すまない。辛いのは君の方なのに僕の方が取り乱してしまって」
「いいのよ。それだけわたしたちの心が近しいってことなんだわ。……でもね、やっぱりわたしは知っておきたい」
「うん……」
「カウントダウンをしたいってわけじゃないのよ、そういう意味では知ってしまった方が怖いと思う。 でもね、知らないままだと漠然とした不安がいつもついてまわるわ。今、目を閉じたらそのままなのかもしれないって考えちゃう。 そうすると寝ることさえできなくなってしまう」
 そうなったら療養どころじゃないでしょう? とマリアは笑ってみせた。
「……それは解る気がする」
「心の準備なんてできるかどうか判らないけれど、それでもやっておけるだけのことはしたいの。 それにフェイトはわたしを支えてくれるでしょう。だから受け止める……受け止められるようにするわ」
 答えを得ようとする彼女のはっきりとした意思。
 不安と恐怖を誰よりも感じているのは彼女自身なのだ。理不尽な理由で命を奪われようとしているのは彼女であって己ではない。 今さらながらにそれが思い出されて、フェイトは取り乱している自分に恥じ入った。 そして、彼女の望む事であれば何でもしようと改めて誓った。
 フェイトは辛そうな顔をして、だけど今度は彼女とちゃんと向き合ってトリス医師に言われたことを説明していった――。

 日付が今日から明日へと移り変わろうとしている頃、マリアは一人で病室にいた。
「うっ……うう。……ああっ」
 薄暗い病室に嗚咽おえつまじりに叫ぶ声が響く。 いや、声自体は大きなものではない、そこに込められた痛切な想いが世界を震わせるかのようにこだまするのだ。
 マリアはしばらくの間様子を見るために入院を余儀なくされた。彼女のを除く家族はここにはいない。 身の回りの物を取りに帰る必要があったし、何よりも幼い子どもたちをいつまでも病院に留め置くわけにはいかないからだ。
 病院の個室という環境だから当然なのだが、夜間は人の気配も感じられず静かだ。 結婚して子どもができてからというもの、一人になることなんてほとんどなかったので新鮮ではある。 だが、そうなるとどうしても自分のことを考えてしまう。
 フェイトの前ではあちらが先に取り乱してくれたせいもあり、なだめ役に徹することができた。 もちろんあの時の気持ちに偽りがあるというのではない、だけど――。
「……どうしてわたしなのっ! 嫌よ、まだ死にたくない、ずっとあの人と子どもたちのそばにいたいのにっ」
 体中の水分が涙となって流れ出ていくようだ。 顔を覆う手の隙間から透明な雫が頬をつたい、止めどなくしたたり落ちていった。
 死ぬのが嫌なのも、医師の見立てでは後数ヶ月に来るというその瞬間が怖いのも、また彼女の本心であった。 ひたひたと忍び寄るようにやってくる死がいとわしい。可能ならどこかに投げ出してしまいたいくらいだ。
 それに気がかりなことは沢山ある。数ヶ月という時間は短すぎるのだ。
「子どもたちもまだあんなに幼い。そんな頃の子どもに死別の悲しみと苦しみを体験させるのも嫌……」
 一度目の両親との別離べつりは記憶にはない。 だが二度目の両親との永久とわの別れは今でもまざまざと脳裏に焼きついている。 支えを失って自分の身体がばらばらに砕け散ってしまうような、そんな感じだった。 あの時に出会った相手がクリフとミラージュでなかったら、 暖かい愛情で彼女を包んでくれた人たちがいなかったら、12歳の少女は心を壊してしまっていただろう。
 永遠に拭い去られることのない痛み、そんなものを自分の子どもにだけは体験させたくなかった。
(わたしだってあの子たちと別れるなんて耐えられない。 フォルサはまだ生まれたばかりじゃない、可愛い娘の成長した姿を見たいのにっ)
 自分が死を迎えるということは、彼女にとっては子をうしなうのと同じものだ。 残された方が辛いと世の人々は言うのかもしれない、それでもどうしたって自分も辛い。
 そして何よりも彼女の心を占めるのはフェイト・ラインゴッド。
 彼女が愛して、彼女を愛している男。
 この世界に生まれた落ちた時に出会い、そして別れ、あの騒乱の中で再び出会った。 長い時間を共有してきた彼女のパートナーである。いや、もはや切り離すことのできない彼女自身かもしれない。 それほどまでに二人の心は寄り添っているのだ。
「ずっと、ずっとフェイトのそばにいたい。あの瞳に映っていたい――」
 自分の身体をぎゅっと抱きしめ、悲しみに震えながら彼女は呟いた。
 彼が別の相手に心を移してしまうのを危惧しているのではない。 自分が彼のそばにいられないことが何よりも嫌なのだ。生きるのも死ぬのも二人一緒、どちらが欠けるのも許せない。 彼が生きているのと等しい時間をその傍らで過ごしたい――。 彼女は彼と共に人生を歩むと決めた時からずっとそうあることを願っていた。
 その願いが壊れようとしている今、マリアは世界が憎いと思った。 自分がいなくなるのなら、他の全ても無くなってしまえばいいのに、と。
 しかし、それと同時に家族や大切な人たちが思い返されて、彼らがいるこの世界が哀しいくらいに愛しい。 自分ができない分、その人たちには幸せな時間を少しでも長く過ごしてもらいたいと思うのだ。
(フェイト、あなたは――)
 そこから先は考えることができない。答えを出したいと思えなかった。
 彼女の青緑色の瞳は、今は暗い病室を映し夜空と同じ色をしていた。そして再び透明な雫がこぼれ落ちていった。


− Fin −



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