感染スパイラル

 ――暑い。
 じめじめとした湿度が増す6月の体育館、しかも40人弱の野郎どもがドタバタと走りまわっているとなれば、 気候の暑さ以上に暑苦しい光景だ。 幸いなことに我が高校の体育館は広いので、その利点を活かすべく入り口の鉄扉も窓も開け放って可能な限り涼を求めている。 が、暑苦しい雰囲気ばかりはどうしようもないらしい。
 なぜ体育館にいるのかというと……、それは至極単純な理由だ。 今が体育の授業中でバスケをやるように命じられているから、ということなのである。 体育の教官はまだここにはおらず、オレたちは授業が始まる前の準備体操兼遊びに興じていた。 準備体操を終えた後はボールを持ち出してパス練習と称して遊んだり、 ネットで半分に仕切られた体育館の向こう側でバレーボールの支度をしている女子たちを眺めたりと、 かったるい体育の授業を乗り切るための下準備をするのだ。
 ところでこのバスケという競技が曲者なのである。 もちろん、教官が面白半分に変なルールを持ち出してくるとか、紋章力が込められた勝手に動く試合球を使用するとか、 そんなアホらしい理由があるのではない。バスケとなると熱くなる馬鹿が2名ばかりいるからいけないのである。
 奴ら自身はバスケ部に所属しており、ここ何年も華々しい成績とは無縁の我が高校のバスケ部を快進撃させている。 その点においては評価していいだろう。だが奴らは互いをやたらとライバル視しており――もちろん良い意味で ――たかだか体育の授業で必要以上に頑張るのである。
 まったく、迷惑なことこの上ない。今だってほら……。
 ひゅんっと空気を裂く音とともにオレンジ色のボールが投じられる。 それはきれいなアーチを描くとゴールへ吸い込まれていった。
「よっしゃ!」
「くっ、まだだ。1点入れたくらいでいい気になるなよ」
「ヘッ、そういうセリフは自分も得点してからにしろよ、クレール」
 そう言いながらニヤリと挑戦的な笑みを浮かべているのはトルシュ・ラインゴッドと言う。 それに相対しているのがクレール・ラインゴッド。こいつらは双子だ。 故に似たような容貌をしているが性格はというと……似ているような似ていないような。 とりあえず馬鹿で負けず嫌いなのは共通している。
 クレールの方は勉強の成績も良い。そういう意味では馬鹿ではないのだが、いかんせん馬鹿というものは感染するのである。 本人は自分が馬鹿の仲間の一人だと断じて認めないが、周りの目は適切な評価をしていると思う。 ――問題なのはオレ自身にも馬鹿が感染しているかどうかだが、これについて言及するのは止めておく。
 話が逸れたがこいつらの馬鹿を証明するものの一つが現在の状況だ。 授業開始前の軽い運動であそこまで熱くなってやがる。 すでに息が上がっているし、顔も朱をしたように赤い。
 一年次から校内代表選手を務めているだけのことはあって、二人の動きは見事なものだ。 巧みにボールを捌き、くるくると体の位置を変えて牽制けんせいし合っている。
 そんな奴らを仕切り用ネットの向こう側から面白そうに女子たちが眺めていた。
 今のクラスになってから数ヶ月も経過するのに、少しも飽きない連中である。 二人の身体能力はかなりのものだから最初は他の男子だって感心した目つきで眺めていたものだ。 だが体育の授業の度に――バスケ以外の競技でも――毎回繰り広げられれば日常化し、いい加減慣れると思うのだが。 ……ま、異性の寸評をするのはお互い様だったりするのだから、オレ自身がとやかく言う問題ではないのかもしれない。
 ……オレのバスケの腕前? オレだって運動事は得意な方だぜ。 だが諸般の事情によりバイトをしているから時間的な拘束が多い部活動とは無縁だ。 唯一の例外は助っ人として参戦する剣道の試合くらいかな。 もっとも体育の授業ではオレが率いる虎チームがトップの勝率を誇っている。 双子はそれぞれ別のチームに振り分けられているし、戦術を練ったり、チームメンバーの特性を考慮するのはオレの方が得意だからだ。
 ――どうでもいい話だがクレールが所属する班は燕チームで、トルシュがいるのは兎チームだ。 他には星チーム、鯉チーム、鷹チーム……と往時をしのばせるチーム名が取り揃えられている。 なお、このネーミングは体育教官が行ったものであり、オレが関与していないことは明言しておこう。 トルシュは縁起でもないチーム名だとぼやいていたが、その理由がいかなるものなのかオレは知らない。
 現役バスケ部員の二人だって作戦だのチームプレイだのができない訳じゃない。だがここは体育の授業なのである。 バスケ部員でもなければ、運動が不得手な奴だってチーム内にいるのである。 そこまで考慮して確実に遂行できる作戦を立てなければ意味がないのだ。 それなのにラインゴッドの双子ときたら、バスケ部員を基準にして考えるものだからメンバーがついていけないのである。 まったくもって阿呆アホな話だ。
 そろそろ体育の教官も来るだろうし、奴らのじゃれあいを終わらせようと思った――納得がいかないが、 いつのまにかそれがオレの役目になってしまっているのだ。 パス練習と称した遊びをしていた級友に断りを入れて、奴らがいる方へ行こうとしたその時。
「おいっ、避けろ〜」
 誰かが声を上げた。他の連中が使っていたボールが手元が狂ったせいであらぬ方に飛んだらしい。 それはきれいな放物線を描き――
「はぶっ」
「うわっ」
 ――トルシュの頭にヒット。そこから生き物のように器用に動いてクレールの頭にぶつかった。 2人はそのままひっくり返るとぴくりとも動かない。
 当たりどころが悪かったのか? いや、そもそもあの程度のボールを避けられないのがおかしい。 いくら兄貴勝負――どちらが兄なのか決める勝負らしい――に熱中していたとはいえ、 普段ならそれくらい容易たやすく避けるはずだ。
「おーい、レクスぅ、来てくれよ〜。こいつらちょっとヤバいかも」
 他の連中にしてくれ……と思うのだが、そうも言っていられない。オレが世話を焼く相手は妹1人で十分なんだがなぁ。 やれやれと嘆息すると、オレは現場に向かった。
 ……ああ、申し遅れたがオレはレクス・アーキエンスという。適当によろしくな。

 オレはクラスの連中の手を借りて、トルシュとクレールを保健室まで担ぎ込んだ。
 二人は風邪でもひいたかのようにはぁはぁと呼吸が荒く、体も熱い。単に悪ふざけが過ぎたという状況ではなさそうだ。
「あら? あらあら〜ん? これはちょっとマズいのん。保健室じゃ面倒みきれないわぁ」  二人の様子を仔細にチェックした後、じつに頼りなさげな口調でそう宣告してくれたのは校医のマダム・ロシェだ。 どうしてロシェ先生でなく、マダム・ロシェと呼ぶのかは謎だ。 とにかくこう呼ばないと取り合ってくれないのだから仕方がない。 まあ、腕は確かだし、男女問わず生徒の受けも良い先生だから良しとしておく。
 ちなみに性別は女性。さすがにその筋の人間を保健医に雇ったりしないらしい。
「アーキエンス君、キミは体育の先生に言っておいて頂戴なぁ。 クラス担任とぉラインゴッドさんちにはあたしがぁ連絡しとくのねぇん」
 そういうとマダム・ロシェは部屋のすみにあった電話をとり、1・1・9と押した。
 ――きゅ、救急車!? そんなにヤバい状態なのかっ!?
 さすがにオレも二人の様子が気になったが、野良犬でも追い払うようにマダムに保健室から追い出されてしまった。 早く授業に戻れということらしい……。


「あっつーい」
 文句を言いながらパタパタと下敷きを動かして、 襟元えりもとから風を送っているのはクラスメイトのリオちゃん。 ブラウスのボタンをギリギリな位置まで外しているので少々……いや、かなりアブナイ格好。 いくら暑くても、わたしはそこまであられもない格好をする気にはなれないなぁ……。
 わたし――ソナーレ・ミセッドは現在お昼休み中です。 友達数人と教室の一角でお弁当を広げて歓談しているところ。話題は学校の備品のメンテ状況について。 というのも、今日に限って朝から空調設備エアコンの調子が悪いから。 そのおかげで校内全ての部屋でクーラーの恩恵を受けられなくなっているの。 どの教室でも窓を全開にして少しでも涼しくしようとしているみたい。 あーあ、こんなことさえなければ今ごろは快適な空間でランチタイムを楽しめたのになぁ。
 今日の授業は残すところあと一つだけ。 それさえ乗り切れば家に帰って、音楽をかけながら快適にお昼寝をすることだってできる。 先日買ったばかりのシグノさんのCDを聞いて、 ストローで中身をかき回せば氷がカラカラと涼しげな音をたてるアイスティーを用意して、それからそれから……。
 あ、そうそう、今の時代でもちゃんとCDはあるんですよ。 もちろん各自の持っている音楽情報記録用のチップに直接楽曲をダウンロードする方法もあります。 だけど販売促進っていうのかな?  業者はジャケットのデザインに力を入れて販売戦略を繰り広げているんです。 購入者だって味気のない記録チップよりも、好きなアーティストのセンスが反映されたジャケットや歌詞カードがある方を求めるもの。 曲を単品でダウンロードするよりかは値段が張るけれど、ファン心理というのはそういうものですよね。 わたしもその例に漏れず、熱心に応援している人のはCDを買って、少し惹かれた程度のものはダウンロードする方法をとっています。
 午後の授業が終われば楽しい時間が待ってる。 それまでの辛抱……のはずだったんだけど、世の中というのは思うようにいかないのが常なようで……。
「ミセッドさん、呼ばれてるよ〜」
 クラスの男の子にそう言われて教室の入り口を見てみれば、そこにはすらりとした長身に赤毛の目立つレクスさんがいた。
「うわ、ソナーレさんが浮気ですってよ」
 オホホと妙な笑い声でからかってくれたのはリオちゃん。
もぉぉぉ、何で独り者のわたしが浮気をできるっていうのよ。 まったく、レクスさんにも失礼じゃない……あ、レクスさんって彼女いるのかなぁ。
 余計なことが気になってきたけれど、正直なところ何事だろうって疑問に思った。 レクスさんとわたしってあまり接点がないし。 レクスさんの妹のスフィアちゃんとはよく遊んだりしているんだけど……あ、まさかまた誰かさんがトラブルを起こしたんじゃ……。
「ソナーレ、いい加減に待ち人のトコに行ったら? 赤毛の先輩、かなり肩身が狭そうだよ?」
 ……あ。
 レクスさんは一学年先輩なのだからそんなに気にする必要はないと思うんだけど、 どうにも他学年のエリアというのは居づらいものらしい。 わたしは広げていたお弁当を片付けると、そそくさと廊下に向かった。
「食事中に悪かったね」
「いいえ、こちらこそお待たせしちゃったみたいで」
「君にも知らせておいた方が良いと思って……場所を変えようか」
 レクスさんが苦笑しながら言った。最初は何のことだかピンとこなかったのだけど……。 ふと気がつけば、何気ない風を装いつつもクラスメイトたちがちゃっかり耳を澄ましていた。
 …………。
 いくらわたしが積極的に男の子と関わるのが珍しくて、さらに数少ない親しい人間が校内でも異色の連中ばかりだからって、 そんなにも好奇に満ちた目で見なくたってもいいじゃないのよう。 はぁ……と盛大にため息をつくと、レクスさんに促されるままに場所を移した。

「えーっ! それじゃあ二人は救急車で運ばれていっちゃったんですか!?」
「そうだと思う。オレは体育館に戻ったから現場は見てないけれど、救急車のサイレンが聞こえていたから」
 閑散とした廊下までやってきて、それからレクスさんが聞かせてくれた話はわたしを驚かせるには十分なものだった。 何せあの二人が病気で倒れたって言うんだよ? 身体能力はもはや地球人の枠の外、体力も生命力も有り余っていそうなあの人たちが。 彼らの妹と違って風邪をひくのだって珍しいことなのに……。
「これから嵐でもくるのかなぁ……」
「そう考えたくなるのには同意だ」
 お互いに顔を見合わせて、あはは……と力なく笑ったその時。タイミングを計ったかのように校内放送が。
『ソナーレ・ミセッドさん、レクス・アーキエンスさん。至急職員室までお越しください……』
 校内アナウンスはそれを2回繰り返すと、ぷつりと黙り込んだ。
「何で呼ばれたのか見当はつくけど、とりあえず行ってみるか」
「……ですね」
 リョウコおばさま――二人の祖母であり、保護者でもある女性――に連絡がつかないとか、そんな理由だと思う。 家が近いのと家族ぐるみでの長い付き合いのせいで、わたしはすっかりラインゴッドの双子の保護者扱いをされている。 わたしの方が年下なんだけどなぁ……。
 面倒なことになりませんように。口の中でそうつぶやくと、 わたしはレクスさんの背を追いかけるように職員室を目指した。


 ここは病院。消毒用アルコールの臭いが鼻を刺激する場所だ。 白い壁紙や木目を生かしたデザインの内装は利用者を安心させることを目的としているはずだが、 この臭いの前ではどうしたった「病院」というイメージから抜け出せられないとオレは思う。 まあ、幸いなことに入院が必要な程の怪我や病気はガキの頃以後していなかったから、 この臭いに悩まされた記憶はほとんど残っていない。
 オレたちは放送で呼び出された職員室で、午後の授業には出なくてよいから病院に行って欲しいと告げられた。 何でもトルシュとクレールの保護者に連絡がつかないらしい。 やつらの保護者であるラインゴッド女史は孫のいる歳でありながらも現役バリバリの科学者で、 孫たちが手のかからない歳になると早々に現場復帰を遂げたとか。
 治療に際しては説明と同意インフォームド・コンセントが欠かせない。 本人たちがあの様子である以上、代わりに保護者の同意を得る必要があるのだろう。 だが当の保護者とは連絡がとれず、なぜかオレたちが保護者扱いである。 血縁関係にあるのでもなければ、未成年者のオレたちを保護者代わりにしていいのかね。後々、責任問題になっても知らんぞ。
 学校で聞いた断片的な話では厄介な病気らしく、早いうちに治療を開始しないといけないらしい。 さらに厄介な病気には珍しい薬を使うらしく、その薬には副作用があるとか。
 故に同意がいるそうだ。まあ、あいつらに感染する病気なのだからタチの悪い病気というのは納得がいく。 古来より馬鹿がかかる病気は奇病・珍病と相場が決まっているのだから。
 受付で来訪理由を告げると、数字の書かれた札を渡されて待ち合い席で待つように言われた。 仕方がないのでそのまま待っているのだが――どうにも気まずい。
 オレの隣にはソナーレちゃんが座っている。病院という場所に来たことで改めて危機感を覚えたのだろう。 そんな不安そうにしている彼女にどう接したら良いのか解らないのだ。 学校での時のように明確な目的がある時は問題ないのだが、今のようにこれといった何かがない時は……。
 彼女との付き合いはラインゴッドの双子やオレの妹を介しての場合が多い。 知り合ってから結構な年月が経過しているが、二人だけでいるというのは初めてかもしれない。
 彼女は大学教授と優秀な紋章術士を両親にもつ、いわゆる良家のお嬢様だ。 どこから見ても一般庶民に区分されるオレの家とは環境が違い過ぎるというものだ――もっとも、 彼女はお嬢様らしくないというか、ずいぶんと破天荒はてんこうな育てられ方をしたようなのだが。
 そんな彼女の人柄はいたって普通、うちの妹も「先輩〜」と慕っているいい子だ。 が、その“いい子”という属性がオレにとって苦手意識を感じさせるものなのである。 普段、他の友達連中と大勢でいる時は別に気になったりはしない。むしろ何かと控えめな部分がある彼女は目立たない存在だ。
 オレ自身は積極的に社会ルールを破っているつもりはないし、故意に目立とうとしてもいない。 だが、いわゆる不良少年に分類されているのは致し方のないところだ。 バイト先の関係でその筋の人間と関わったり、何かと馬鹿をやっているからだ。 もっとも喧嘩ケンカと言ってもこの歳になれば保護者的な立場になることが多い。 ガキどもがはしゃぎすぎないように、力加減を誤らないように、他所様に迷惑をかけないように……など、 喧嘩のルールというのものを教えるのだ。要は暴走しないようにするための重しみたいなもの。
 それでも……まあ、たまには厄介事が飛び込んできて、愛刀を引っさげて街中を駆けずり回るハメになることもあるのだが。
 とにもかくにもそういう生き方をしてきたオレにとって、典型的な“いい子”というのは縁遠い存在なのである。 別に嫌いだとか疎ましく思っている訳じゃない。 ただ何と言うか……得体の知れない相手であるが故に、どう接したら良いのか解らない。 解らないからますます敬遠しがちになる、と言ったところだろうか。
 今だって隣で不安そうな表情でいるソナーレちゃんに対して何もできないでいる。 かといって年下の女の子を放っておくのも気がひける。
 そこでオレは世間一般の男ならどうするのか考えてみた。
 世間話をする。家事について語るか? しかしあまりにも場違い、却下だ。
 甘い言葉をかける――これはただのタラシだ。
 手を握る……これはアリなのかもしれない。が、かえって彼女を困らせる気がすんな。
 他にも何やかやと考えたがどれも不採用な案ばかりだ。 そこで仕方がないので身近な女――妹がそこにいたらどうするのかを考えてみた。
 外部から入ってくる情報を全てシャットダウンし、そこにいるのが妹だと考える。 オレと同じ茜色の髪にちょっと尖った耳、上背タッパはあるくせにガキっぽい顔だちと体型をした奴。 あいつがこの状況でそこにいるとしたら――。
 オレはひょいと伸ばした手を、撫でるようにぽんと隣にある少女の頭に置いた。 あいつがヘコんでいる時はいつもそうしているじゃないか。 今日はいつもとちょいと髪の色が違うだけで、他は何も変わらな――いや、そうじゃない。 相手が誰であれ、オレ流の励まし方はこうなるというだけなのだ。 そう結論に達すると、先ほどまで自分が何をぐだぐだと考えていたのかと馬鹿らしくなる。
 急に頭を触られたソナーレちゃんがびくっと身を震わせてこちらを見ている――と思う。 思う、というのはオレが目で見て確認したわけじゃないからだ。何と言うか、その……気恥ずかしい。 オレにはこういうのは似合わないとつくづく思ったね。まあ、たまにならこういうのも悪くない……かもな。


 ぽんっ、と頭上に置かれた大きな手。何か言われたのでもない、こちらを見ているのでもない。 ただ唐突にぽんぽんとされただけ。それだけなのに――暖かい。
 そこから不安という名の氷塊がじわじわと溶けていくような気がしました。
 病院に来て……雰囲気にのまれるって言うのかな? やたらと緊張して、心配して。 病院に運ばれた二人がどうしているのか考えるんだけど、それはどんどん悪い方へ悪い方へといってしまう。 そんなことを願っているわけでもないのに、磁石に吸い寄せられるみたいにするするっと。
 悪い考えを頭から追い出そうとしてもダメ。 追い払って一度消し去っても、終わりのないループにはまったかのように繰り返し悪い考えが浮かんできた。
 そんな時にふと頭に触れた手はとても暖かくて大きくて。 レクスさんはこちらを見ていたりはしなかったけれど、わたしのことを案じていてくれているのはとても伝わってきた。 心配させて悪いなって思ったけど、それと同時に素直に嬉しく感じている私がいる。
 人に何かをしてもらって、嬉しく感じた時はお礼を言うんですよ――と幼いわたしに言ってくれたのはお父さんだっけ。 のほほ〜んとしていて、お母さんの紋章術でよくへろへろになってるけど、生きていく上で大切なことを色々教えてくれた。 そう言えばその時にはこうも言っていたっけ。人が一人で生きていくのは存外大変なことだから――と。 やけ神妙な顔をして言っていたような気がするけど、何だったんだろうなぁ……。
 うんっ、今は思い出に浸るよりもレクスさんに――
「81番の札をお持ちのお客様、9番の個室へお入りください」
 ――ああん、わたしの決意は何だったのよう。 じっくり観察していて計ったかのようなタイミングで呼び出しの声が待ち合い室に響き渡りました。
「行くか」
 レクスさんはさっさと立ち上がるとスタスタと歩き出している。
 うう、わたしって不幸? がっくりとしながらも、いつまでもこうしているわけにはいかない。 クレールとトルシュの容態も気になるし、わたしはレクスさんの後を追いかけるようにして指示された個室へと向かいました。

 個室――と言われていたけれど、そこは立派な診察室でした。 ここに入る前の通路にはいくつもの番号が書かれた扉があったから、他にもこんな部屋がたくさんあるんだろうな。 どの扉にも担当の科と、担当医師の名前と曜日が書かれたプレートが貼ってあって、それによるとこの部屋は特別科になるみた……あれ?  特別科ってなの……。わたしの疑問は膨らむ一方だけど、きっと話を聞けば解るはず……解るといいなぁ。
 部屋の奥にある机、それに向かって腰掛けていた白衣の人が一人。 50代ぐらいかな、その男性はわたしたちが入ってくると座っていた椅子をくるんっと回転させて――本当にそ んな勢いで――こちらに向き直りました。
「やーやー、君たちがラインゴッドさんの親御さんかい? ずいぶんと若いご夫婦だねぇ。 赤い髪のパパと茶色の髪のママから青い髪のお子さんが生まれるとは興味深い、実に興味深いよ、君たち」
 ――な、何なのこのお医者さん。レクスさんとわたしが良い雰囲気に見られるというのはまだ理解の範囲内。 わたしは女でレクスさんは男の人だもの、二人で連れ立って歩いていたらそんな風に見られることもあるだろうし。 だ・け・ど、子持ちに見えるってのは聞き捨てならないってばぁぁぁ!
 これは断固訂正を求めるべき発言。それでいざ行動に移ろうとしたら――わたしよりも先にレクスさんが動いていた。
「おっさん、学校から連絡は入ってるんだよな? オレたちが奴らの保護者代理で来ているのも知ってるんだよなァ?」
 こっちからはレクスさんの顔は見えないんだけど、詰問口調だからどんな表情をしているかは何となく見当がつきます。 今もお医者さんの白衣を掴んでガックンガックン揺らしてる。 そして最後に一息つくと、目の前の人物に言うというよりは世界中に宣言するかのように一言。
「――オレはあんな馬鹿を息子に持った覚えはないッッ!」
 うんうん、そうだね。その気持ち、すごーく共感できるよ。 わたしは子持ちだと判断される年齢に見えるという点に抗議したいけど、 レクスさんのあの人たちみたいな子どもの親に思われるという点についての抗議も十分理解できる。
 わたしの心の中ではチアガールの衣装を着た小さなわたしが10人くらいで列を作って、 ポンポンを振りながらレクスさんにエールを送っています。
「ふっふっふ、これは軽いジョークというものだよ。君たちの不安を少しでも和らげようという医者のテクニックの一つさっ♪  さ、だから早くその手を放したまえ」
 ……ホントかなぁ。まあ、緊張感は一気に抜けたのは間違いないけれど、 何か釈然しゃくぜんとしないものがあるような。
 半眼になったままのレクスさんは取りあえず手を離しました。 お医者さんはコホンと咳払いをするとわたしたち椅子を指し示し、そこに座るように促しました。
「単刀直入に言おう。 クレール・ラインゴッド、トルシュ・ラインゴッドの両名がかかった病気はワンニャン病だ!」
 ワンニャン病……。
「この病は世にも珍しいもので双子にしか感染しないのだよ。 ワンニャン病のウイルスはイチ型とニ型という2種類のウイルスのペアでね。二つが合体したままだと全くの無害。 が、極めて近い構造をした人間――すなわち双子という境遇にある者を2人まとめて見つけると、 結合が解けてイチがその片方に、ニが残された方にそれぞれ感染してしまう」
「それで……どんな症状が出るんですか? ちゃんと治るんですよねっ?」
 人をおちょくっているような名前に反して厄介そうな病気の説明を聴いて心配になったわたしは、 たまらず肝心な部分の説明を求めてしまいました。
「うむ、安心したまえ! この病気には治療薬があり、それを使えばもちろん治るとも」
 お医者さんは握りこぶしを作って力強く断言しました。
 ふぅ、良かった。
「で、症状っていうのは?」
 今度はレクスさんが尋ねました。
「ワンニャン病の主な症状は発熱。 それに伴う頭痛、吐き気、目眩めまい、意識混濁こんだく……など。 これを風邪だと判断すると非常によろしくない。放っておくとどんどん体力が低下して死んでしまうのだ。 もし、かろうじて命を取り留めたとしても長期間に渡る高熱のせいで後遺症が残るね」
 あっさりととんでもないことを言われた気がする……。 それにしてもふざけた名前なのに本当はすごく危ない病気だったんだ。早く気が付いてくれた保健室の先生に感謝しなくっちゃ。
「これが治療に使う薬。これには面白い副作用があってだね、患者の中には死ぬギリギリまで治療を拒否した人もいるくらいなのだよ。 幸いにもその時は最終的に同意してくれたから投薬が間に合ったんだが……あれは60代ぐらいの財界人の患者だったかなぁ。 双子の両方とも歳の離れた美人の奥さんがいて、実に羨ましい話だったねぇ。 60過ぎならアッチの方も現役を引退しているだろうし絶対に金で釣ったと思うね……」
 何やら思い出話に没頭し始めたお医者さん。 さらに話を続けようとしたみたいだけど、レクスさんがじろりと睨んだのでそこで中断。
「副作用ってどんなだよ? 危ないのか?」
「いや、命の危険はない。それに副作用も病気が治る頃にはすっかり消えてしまうから、後々の生活にも何ら支障はないんだ」
「ふぅん。ならいいよ、さっさとあいつらに薬を使ってやってくれ」
 いいよな? とレクスさんが目で問いかけてきたのでわたしも頷きました。二人には早 く良くなって欲しいものね。
「ふんふん、了解。じゃ、こっちの同意書にサインしてくれる?」
「ああ。そこのボールペン借りるぜ」
 レクスさんは渡された白い紙に目を通すと、さらさらっとペンを走らせて署名しました。 署名をするのは一人でいいそうで、わたしのサインはいらないみたい。これも年下のわたしに対するレクスさんの気遣いかも。
 ……あれ? 何か大切なことを忘れているような……気のせいかしら?


 オレとソナーレちゃんは同意書にサインをしたら、もう用はないとばかりに追い出された。 これは騙されたってのじゃなくて、さっそく治療に入るからということらしい。 今頃あいつらは漫画みたいにでかい注射でもされているのかね。
 支払いやその他の手続きは後でよいそうだ。何しろそれには保険証がいるし、 こういったことは法律上の保護者が行うべきことだろうしな。
 そこでオレとソナーレちゃんはそのまま各自の家に帰ったのかというと、そうはいかなかった。 学校から病院まで持ちっぱなしだった奴らの制服や鞄をラインゴッド家に持っていかねばならなかったし、 入院のための着替えを届けなければならないからだ。 病院でも寝巻きはレンタルしてくれるらしいが一日いくらと金がかかる。 その他の身の回りの物だって必要だろうからな。
 それらのことをソナーレちゃん一人にやらせるほどオレは薄情な人間ではない。 何が入っているのか判らない鞄はやたらと重いし、夏服とはいえ2人分の制服は結構かさばる。 とてもじゃないが女の子一人に持たせる量ではないだろう。
 ラインゴッド家の鍵はソナーレちゃんも持っているとのことで、 オレたちは病院から出ると無人タクシーを拾って目的地へと向かった。
……どうでもいい話だが、この無人タクシーは“無人くん”という愛称で市民に親しまれている。 内部に取り付けられているパネルを使って目的地を入力すると、そこへと運んでくれる便利な代物だ。 支払いは電子マネーで、無人であることとこれはかつての有人タクシーを狙った強盗への対策による産物らしい。

 病院から10分ちょっとぐらいだろうか、タクシーはラインゴッド家の前でぴたりと止まった。 ソナーレちゃんが鞄からごそごそとケータイを取り出して、パネルにかざすとピピッと電子音が鳴った。 これで利用履歴がケータイにインプットされ、 それにより彼女のケータイと連動した口座からタクシー会社に金が振り込まれるというシステムだ。
『ご利用ありがとうございました。またのご利用をお待ち……』
 型通りのメッセージを最後まで聞く気はなかったのでオレはさっさと車から降りた。
 それにしても「タクシーを使った方が早いから」と言って、 病院のエントランスに何台も停まっていたタクシーを躊躇ためらいもなく利用できるのは羨ましい話だ。 これが一人っ子の経済力というヤツなんだろうか。
 いやいや、経済力というならラインゴッド家の方が上なのだろう。 オレの目の前にある家はそれなりの敷地面積を誇り、建物自体も4人の人間が暮らすには十分過ぎる程の大きさをしている。 家には何度も入ったことがあるが、部屋数だって両手の指の数以上は軽くあったはずだ。 しかもアメリカ地区とムーンベースにも住まいがあり、双子がここに越してくる前に両親と住んでいた家も残っているとか。 広いのはともかく、利用人数に対して家が多すぎじゃねぇか?
これには祖父母が著名な科学者であることと、もともとかなりの資産を持っていたこととに起因するらしい。 それに加えて両親があれやこれやと子どもに残しておいてくれているとか。 もっとも、トルシュとクレールには良家の坊ちゃんらしいところは皆無なのだが。
 そんなことを考えながら門をくぐり、家の玄関を目指して少しばかり歩いた。 広い家ってのはこういうところが不便だよな。忘れ物に気が付いた時とか、いちいち戻るのが面倒臭そうだ。
 ソナーレちゃんが鍵を使って屋内に入ると、家の奥からトタタタタっと可愛らしい足音をさせて女の子が出てきた。 結構な長さのある髪は青繻子しゅすのようにさらさらとしている。 オレたちの姿を確認すると、流れるような髪を揺らしながらその子は突撃を敢行かんこうした。
「ソナーレ!」
 その子はぎゅっとソナーレちゃんに抱きついた。 そのまま首を締め上げて窒息に持ち込むのではなく、 お気に入りのぬいぐるみをだっこするかのように彼女にまつわりついていた。
 何てことはない。 この子はラインゴッド家の末っ子であるフォルサちゃんであり、 彼女はソナーレちゃんにすごくなついているということだ。 いつもは無口と言っていい程に静のイメージを受ける子だが、どういう訳だかソナーレちゃんにだけはべったりなのである。
 彼女たちの友情の深め合いは男なら誰もが羨ましく思う光景ではなかろうか。 ソナーレちゃんは愚妹ぐまいのつるんぺたんな体型とは正反対の体つきをしている。
「フォルサちゃん、学校の先生からお話を聞いていたりするかな? クレールとトルシュのことなんだけど……」
 ……そうだった、阿呆なことを考えている場合じゃないよな。
 ソナーレちゃんの問いに彼女は首をふるふると横に振ったので、オレは説明を補足した。
「あいつら体育の授業の時に倒れてそのまま病院に運ばれたんだ。薬を使ってもらえば良くなるみたいだから心配はいらないよ」
 ボール直撃の件は黙っておいてやる、感謝しろよ。
「これからね、わたしとレクスさんは入院に必要なものを届けに行こうと思うの。フォルサちゃんも一緒に行こうね」
 ソナーレちゃんは本物の妹を気遣うみたいにフォルサちゃんの頭を撫でながら言った。 心配しているのか、それとも関心がないのか。表情の変化が乏しい彼女の心理状態はオレにはさっぱり判らない。 が、ソナーレちゃんはちゃんと把握しているらしい。
「取りあえず……荷造りをしたいから上がっていいかい?」
 オレがそう聞くと、フォルサちゃんはこくりと頷いて玄関脇からスリッパを2組持ってきてくれた。 オレも来客として認識されているらしい、反応があって何よりだ……。

 オレは今、ラインゴッド家の2階にいる。何度も来たことのある家なので奴らの部屋がどこにあるかもすでに承知だ。
 女の子たちは1階でタオルだの洗面道具だのといった細々とした日用品を用意してくれている。 オレは双子の着替え担当。まあ、男のオレが持ってくるのが妥当だとうだよな。
 クレールの部屋は勝手に入ると後がうるさそうなので――最終的には入らないといけないのだが ――先にトルシュの部屋に入らせてもらった。
「入るぞー」
 いないのは確かなのだがつい声をかけてしまう。
 ――ガチャ。ノブを回して戸を開けると、そこは殺風景な部屋だった。 学校で使うものの他はちょっとした身の回りのものしか目に入らない。――ただ、これは物がないというのではない。 クローゼットだのタンスだのに取りあえず放り込んでおけば……的な発想なのである。 一見片付いているように感じられるが見えないところがごちゃごちゃしているという非常にけしからん収納方法をするのだ、 トルシュ・ラインゴッドという男は。
 と、まあ、そんなことはどうでもいい……本音を言うと片付けなおしてやりたいのだが、 今は病院に持っていく着替えを用意する方が先だ。学校から預かりっぱなしだった制服と通学鞄を定位置とおぼしき場所に戻した。 あとは記憶を頼りにクローゼットから大きめのバッグを取り出すと、タンスをあさって寝巻き、Tシャツ、下着などを詰めていく。
 トルシュの荷物を用意し終えたので、今度はクレールの部屋に移動した。 こちらはちゃんと片付いているので作業がしやすいはず……。
 何となく室内を見渡すとトルシュの部屋よりは細々こまごまとしたものが多く置いてあるのが見て取れる。 一番目立つ場所にあるのは一つのフォトフレームだ。 それは大き目のサイズのもので数枚の写真を入れることができるやつだった。
 一つは同じような青い色の髪をした人たちが写っているもの。父親と赤ん坊を抱いた母親、それから幼い男の子が2人。 トルシュとクレールがガキだった頃の写真のようだ。
 もう一枚は茶色の髪をした人が3人と、青い髪の人間が4人。 先ほどの写真より何年か後に撮られたもののようで、赤ん坊は三つくらいの女の子になっていた。 ソナーレちゃん一家とリョウコ・ラインゴッド女史、こいつら三兄妹で擬似家族写真といったところか。
 他人の趣味をとやかく言うものではないんだろうが、オレには家族写真などというものを恭しげに飾る人間の気が知れない。
 ……と、そんなことに気をとられている場合じゃなかったな。 もっとも写真の裏にさらにもう一枚写真が隠してあるっていうんなら話は別だが。 ははっ、昔の漫画じゃあるまいし、いくらなんでもベタすぎるよな。
 ……………………。
 …………まさか、なぁ?
 オレは確かめてみたい気になった。 が、もし写真があった時にその写真を見ずにすませる自信がない。非常に気になるが確かめるのは止めておくことにした。
 ――バレたら後が怖いし。


 わたしとレクスさんは再び病院へとやってきました。 さっきと違うのはフォルサちゃんが一緒だということと、荷物をどっさり抱えているということ。
 荷物はあれやこれやと詰め込んだら結構な量になってしまったのよね。 わたしとフォルサちゃんの2人だったら運ぶのに苦労したはず。レクスさんがいてくれて本当に助かっちゃった。 レクスさんのことだから気を遣ってくれたのかもしれない、感謝しないとねっ。
 病院の受付でこちらの身分証を提示して来訪理由を告げると、受付の女の職員さんが病室を教えてくれました。 告げられた場所は特別病棟……うぅ、やっぱりそういう病棟なのね〜。

 この病院は受付から廊下をまっすぐに行ったところに広いエレベーターホールがあります。 だけどわたしたちが利用するエレベーターはそこから少し離れた、まるで人目を避けるような位置にあるものでした。 特別病棟に行くための専用のものらしくて、今はわたしたちの他に利用者はいないみたい。
 エレベーターに乗ってみると、ボタンが少ないのでびっくりしました。 1階と地下駐車場、それから特別病棟とされている13階のボタンしかありませんでした。 非常用の階段とかあると思うんだけど……なんだかすごい所に入院してるみたい。
 ポーンという電子音と共にエレベーターの扉が開きました。病院だから当たり前なんだろうけれど、廊下はひっそりとしています。
 わたしたちはエレベーターホールにあった案内板をたよりに、クレールとトルシュがいる部屋を目指しました。 通路は広めで病室の配置もゆったりとした感じになっているみたい。 案内板を見ただけだけれど、13階全体のスペースの広さに対して部屋数が少ないの。一つ一つの病室は結構広いのかしら。
 『クレール・ラインゴッド様』『トルシュ・ラインゴッド様』と書かれたプレートが戸の脇に掛かっている……のではなく、 プレートには部屋番号しか書かれていませんでした。
特別病棟ともなればプライバシー保護がかなりうるさいのかも。 “特別”と名の付く病棟に入っていたなんて、あまり人には知られたくないものだろうしね。
 個室に出入りするためにはカードキーが必要で、そこに患者の氏名がプリントされていました。 これだと鍵を所持している部屋以外には入れないのだから、看護士さんが部屋を間違えたりしなくなるのだと思う。
 コンコンと軽く戸を叩いた後、レクスさんがカードキーを使いました。
 がらり、――バンッ。
 開けたと思ったらすごい勢いでレクスさんは扉を閉めました。表情も変だし、どうしたんだろう?
「あの……入らないんですか?」
「あ……ああ。何かさ、目の調子が悪いのかも」
「えっ?」
 急にどうしてしまったんだろう。
 レクスさんはなおも独りでぶつぶつ言った後、何かを覚悟したかのような硬い表情でもう一度カードキーを使いました。
「中に入るけど……何があっても二人とも落ち着いて、な」
「は、はぁ」
 よく解らないけれど、わたしとフォルサちゃんはこくりと頷きました。
 がらりと引き戸を開けて中に入り、私が見たものはというと……。
 ベッドの上には、病院で借りたのであろう寝巻きに身を包んだラインゴッドの双子がいる。 間違いなくあの二人の顔をしている。だけど、だけどっ、アニマルな耳が余計だようっ。
「フェ、フェルプール!? あれ、でも……嘘ぉぉぉっ」
 もう何がなんだかさっぱり解らない。
「ワン、ワンワン(おう、よくきたな!)」
「お、お前らコスプレでも始めたのかっ??」
「ワンワンワン(耳だけじゃなく尻尾もあるんだぞ)」
 トルシュは寝巻きから尻尾を取り出してぶんぶんと振っています。その様子は褒められて喜んでいる犬のような……。
「ニャッ、ニャーニャー(こ、こら。引っ張らないでくれよ)」
 隣のベッドにはいつの間にかフォルサちゃんがよじ登り、クレールの頭からぴょこんと生えたネコ耳をぐいぐい引っ張っていました。 トルシュの犬化に対してこっちは猫化ってこと?  ううむ、つやつやとした毛並みに包まれた長い尻尾はわたしも触りたいかも……。
「ぷっ……、ぶわははははっ」
 トルシュがふざけて耳をぴくぴく、尻尾をぱたぱたさせるものだから、レクスさんは笑いの発作が止まらなくなってしまった様子。
「や、やめろ……腹が痛い」
 お腹を抱えてひーひー言っています。……だ、大丈夫かなぁ。
「ワンワンワワン?(ソナーレ、見舞い用のフルーツかごはないのか?)」
「ないよ、そんなの〜。っていうか何なのこの状態は〜っ」
 うぅ、誰か何とかしてぇぇ。
 と、その時。バ――ンと音を立てて部屋の扉が開きました。病院なのにそんな開け方して良いのかしら?
「うわははははっ。さてさて、皆さんお揃いのところで一席ぶってあげようではないか!」
 つかつかと歩いて来たのは最初に病院に来た時に会ったお医者さん。 先生のあまりの挙動不審っぷりにフォルサちゃんがわたしの後ろに隠れました。 まあ、「うわははははっ」と高笑いをしながらいきなり現れたりされれば、誰だって逃げたくなるわよね。
 それにしても一席ぶってあげるって……落語じゃないんだから。 クレールとトルシュの今の状態について説明してくれるってことなの?
 お医者さんは二人の方へ近寄ると、簡単なバイタルチェックを行いました。
「薬はちゃんと効いたようだねぇ……顔色も良し。気分はどうだい?」
「ニャー(大丈夫です)」
「ワン(同じく)」
「よしよーし、いい子だ」
 そう言ってお医者さんは二人の頭を撫で撫で。 うわ〜、二人とも気持ち良さそうに目を細めてるっ。頭の中まで犬猫になっちゃったの〜?
 わたしは心配になったけれどレクスさんには再び笑いの発作が起きたみたいで……。必死になって笑いを抑えている様子。
「さて、茶色い髪のお嬢さんは理解不能って顔だねぇ。うんうん、そういう顔も可愛いよ〜」
 …………うぉぃ。
「これがさっき説明した治療薬の副作用なのだよ。 薬がウイルスを退治する過程でイチ型に感染した方――この場合はトルシュ君――はわんこ化現象を起こし、 ニ型に感染した方――クレール君――はにゃんこ化現象を起こしてしまうのだ。 だからこの病気は俗に犬猫ワンニャン病と呼ぶのさ」
 さっきから何かを忘れているような気がしていたけれど、それはこれだったのね。 副作用があるとは聞いていたけれど、それがどんなものであるか聞くの忘れてたんだ。
 ふと隣を見ればレクスさんも同じように合点がいったという表情でした。
「ま、こういう副作用だと聞いていても同意書にサインはしていたさ」
「う……そうですよねっ」
 本当にそうしていたと思うんだけど、さすがにあの状態を見ると哀れなような。 死にそうなぎりぎりまで治療を拒否した人たちの気持ちが解らなくもないです……。何でこんな病気にかかっちゃったんだか。
「一週間もすれば耳と尻尾はかき消したようになくなるから安心したまえ」
 それは一安心。
「……つまんない」
 フォルサちゃんがぼそりと呟きました。彼女にとっては面白いという方が先立つみたい。
「ん〜、それまでにもうちょっと精神的な犬猫化は進むかもしれんがね。ま、全ては一週間で見る夢のようなものさ」


 あれから6日が経過した。
 やつらの退院も間近に迫ったその日、オレは病院に見舞いと言う名目でやってきていた。 そう、見舞いというのはあくまでも名目。真の目的はやつらで遊ぶことだ。
 ――はっきり言ってすごく面白いぜ。

「――ほれ」
 部屋のすみに向かってゴムボールを投げる。すると犬、じゃなくてトルシュが拾いに行く。 これを飽きることもなく何度も何度もやるのである。その姿はまさに犬。
 幸いにも人として大切なものは喪失していないらしく、服は着ているし、ボールを口でくわえるようなこともなかった。 さすがにそこまで精神的犬化が進んでいたらオレも閉口したことだろう。
 クレールの方は猫らしく気まぐれに過ごしていた。 オレの妹がゲーセンから獲得してきた巨大なぬいぐるみに向かって猫パンチを繰り出しているかと思えば、 ひょいとベッドの上に乗って丸くなっているのだ。今も身体はじっとしているのに長い尻尾がひょこひょこ動いている。 ベッドの上にいるからといって寝ているわけではなさそうだ。
 オレにも人並みの良心というものがあるので、今回のことは学校の連中には秘密にしてある。 男女問わず多くの生徒に聞かれたが、 変り種のラインゴッド兄弟であってもこんな状況にあるというのを人に知られたくないだろうしな。 オレよりも話を聞きだしやすそうだと周囲に思われているソナーレちゃんは対応に苦慮しているらしい。
 ――コンコン。
 噂をすればなんとやら。ソナーレちゃんたちが来たらしい。
「こんにちは〜」
「……んっ」
「あらあら可愛くなっちゃって」
 やってきた人間は3人、今日はソフィアさんも一緒だ。 忙しくて時間がとれないと今まで見舞いに来ることができなかったのだが、どうしても犬化・猫化が見たかったらしい。 彼女はうふふふっと面白がっているのが明白な笑みを浮かべていた。 そういえばこの人、かなりの猫好きだと聞いた記憶が……。
 ゴムボールを持て余していると不意に服のすそをくいっと引っ張られた。
「これ……」
 フォルサちゃんが大きな弁当箱を差し出している。シナモンの匂いがする、アップルパイでも入っているんだろうか?
「お母さんと一緒に作ったんですよ、皆で食べようと思って」
 そう言ってソナーレちゃんがフタを開けると、中にはオレの予想通りにアップルパイが入っていた。 まだほんのりと温かく、ふわりと香ばしい空気が広がった。
「美味そうだな……ああ、何か飲み物でも買ってくるよ」
「それならわたしも行きますっ!」
「ワンワン(俺も行く〜)」
「じゃあ行こうか――犬は大人しく待ってな」
「ガルルルル(犬って言うな〜っ)」
 ――犬じゃねえか。

 不満そうなトルシュを残してオレとソナーレちゃんは病室の外に出た。 室内の騒々しさは外まで漏れておらず、廊下は病院らしい静かな雰囲気だ。
 自動販売機がある一角までくるとオレたちは商品を物色した。 といってもオレは大抵ブラックコーヒーを買うのでどのメーカーのにするかを迷ったくらいだ。 ソナーレちゃんも母親とフォルサちゃんの好みは把握しているらしく、大して迷わずにボタンを押していった。
 ――で、犬と猫には何を与えればいいんだ? オレとソナーレちゃんは思わず顔を見合わせてしまった。
 妥当なのは牛乳なんだろうがここでは売っていない。 食の好みはあまり変わっていなかったからウーロン茶あたりでいいだろう。
「あいつらはウーロン茶でいいと思うんだけど、どうかな?」
「いいと思います、お茶の類は何でも飲めたはずだし」
「じゃあ決まり」
「はい」
 金を支払いボタンを押すと、ゴトンと音がして缶が出てきた。それをもう一度繰り返すとオレたちは病室へと向かう。
 その道すがらソナーレちゃんは口をもごもごと動かして何か言いたそうだ。
「どうかしたのか?」
「あ、あの……」
「うん?」
「その、この間はありがとうございました」
 いきなり礼を言われてしまった。……この間って何のことだ?
 オレの気持ちをんでくれたのだろう、彼女は言葉を続けた。
「二人が入院した日、病院に一緒に行きましたよね」
「荷物を運んだことか? そんなの気にしなくても」
「いいえ、そうじゃないんです。最初に病院に来た時、わたし不安でいっぱいで…… どうしたらいいのかさっぱりで……パニックになっちゃって」
 そう言えばそんな様子だったな。
「そんな時レクスさんが傍にいてくれて、頭をポンってしてくれて。それですごく安心したんです」
 確かにそんなことをした記憶が……。 今になって考えると、ずいぶんと気障キザったらしいことをしたもんだ。
「あの時はバタバタしていてちゃんとお礼が言えなかったので。 本当にどうもありがとうございました」
 溜め込んでいたものを吐き出すようにそこまで言うと、彼女は軽く頭を下げた。
 面と向かって言われるとこっちも恥ずかしくなってきた。急に顔まで熱くなった気がする。
「ああ……うん、そんな気にするなよ。オレ、一応年上だし」
 いや、そう言いたいんじゃなくてだな。
「オレたちはあんまり接点が無いけどさ、友達みたいなもんだろ。だからまあ、うん、そういうことだ」
「友達……そうですね」
 ソナーレちゃんはほがらかに微笑んだ。どこか見るものをほっとさせる顔だ。 おかげでオレの照れ臭さでいっぱいの気分も多少落ち着いた。
 しかし、オレはあの時と同じことを再び実感したんだ。オレという人間には、こういうのは似合わないってさ。


− Fin −



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