兎の川流れ

 それは遠い遠い記憶の彼方の出来事。時というフィルター越しに見る思い出はにじんだインクのように曖昧。 だけど、その存在は確かなもの……。

 ソナーレ・ミセッドは自室にあるベッドで横になっていた。
 ベッドのかたわらにはウサギのぬいぐるみ――ミッピーちゃん――がどっかりと腰を下ろしている。 白い肌はふかふかの手触りで、黒いつぶらな瞳はなんとも言えず愛らしい。 ソナーレとは結構な長さの付き合いになるウサギさんである。
「うぅん……」
 もぞもぞと布団の中で寝返りをうつ。
 先日からどうにも体調が優れず、今朝になっても回復する様子が見られない。 なので熱を計ってみれば37.8度という数字が出た。 これでは倦怠けんたい感はもとより、頭痛も食欲低下もするはずである。
 ――彼女は久しぶりに本格的な風邪をひいたのだ。
「うぅ〜、寝てるだけって退屈だわ……」
 いくら熱があるとはいえ一日寝ていれば、終いには寝ようにも寝られなくなってしまうものである。 しかし何かをする程に体力はなく、かといって音楽でもかけようものなら頭痛が増しそうだ。 無為に布団の中で唸っていることしかできない。
 朦朧もうろうとする意識の中、ミッピーちゃんと目が合った。 自然とソナーレの口元がほころぶ。
(そういえば……あの時はあっちが風邪をひいたんだっけ……? 何で嫌うかなぁ、こんなに可愛いのに)

*  *  *  *  *

 そこは河川敷にある公園でした。 雨が降り川が増水した時は水没してしまいますが、そうでない時は広い芝生は格好の遊び場になります。 ジョギングコースを利用するもよし、土手の斜面に寝そべり日光浴をするもよし、 草地でボール遊びをするもよし……そんな空間なのです。
 冬の初めとはいえお日さまが出ている今日は随分と暖かい。 今も家族連れや少年たちのグループがそれぞれに楽しいひと時を満喫していました。 東屋でくつろいでいる老夫婦の話し声、年下の子どもたちに混ざって遊んでいる少女の声。 楽しみに満ちた声が空に響きます。そこにいる人々の顔には笑顔がある、そのはずなのですが――。
「やぁ……放してよぉ」
 半泣き状態の女の子が一人。まだ5歳くらいでしょうか? 緑葉のような瞳が印象的です。
「こんなので遊ぶなよ! ウサギはよくないんだぞっ」
 少しばかり理解に苦しむ発言をしたのは天を映したかのような蒼い髪をした男の子でした。 こちらは小学校にあがったばかり、小さな身体から元気が溢れんばかりのお年頃。
 女の子は腕の中にあるウサギのメロティちゃんを迫り来る魔の手から必死に守っていました。
「これはお母さんがソナーレの誕生日にくれたんだもん。大事なんだもんっ」
 もはや女の子――10年前のソナーレ――は泣き顔である。それでも大事なメロティちゃんを守るために一生懸命なのです。
「どーしてトルシュはいじわるするの……?」
「いじわるなんかじゃねぇってば。ウサギは悪いヤツだからよくないんだよ!」
「そんなの知らないもん。メロティちゃんは悪くないもん」
「だまされてるんだよ、ソナーレは。こいつらはかわいい顔してキョーアクなんだぞ」
「メロティちゃんは怖くないぃぃ〜」
 二人の戦いは一向に収まる気配がありません。
 哀れなのは当のメロティちゃんでした。頭をソナーレにつかまれ、両足はトルシュに引っ張られています。 どこかからお奉行さまでも連れてきて、大岡裁きでも始めた方がいいんじゃないかという状態です。 しかしメロティちゃんはぬいぐるみゆえ助けを呼ぶことも二人の子どもを制止することもできません。 ああ、なんて無力なのでしょう。
「んぐぐぐぐ……」
「放してぇぇ〜」
 痛い――メロティちゃんはそう叫びたかったに違いない。幸いなことに次の瞬間その苦痛から解放された……のですが。
「「あっ!」」
 メロティちゃんは空を飛びました。火を噴いてはいませんが、どこぞの亀の進化系のようにくるくると回転しながら。
「あぁ〜!」
「空飛ぶウサギ!」
 二人の子どもはあんぐりと口を開けて緩やかな弧を描いて飛ぶウサギを見送ります。 そしてメロティちゃんの最初にして最後のフライトは10秒もしないうちに終わりを告げるのでした。 着地ではなくて着水という形で……。
 ぽちゃり――と軽いものが水に落ちる音がしました。
 抗菌加工がしてあっても所詮は綿のかたまり、みるみる水を吸収して半分くらい沈んでしまいます。
「メロティちゃん!」
 ソナーレが川べりに駆け寄るのですが目の前の川は大きく、5歳の彼女が入っていけるような場所ではありません。 彼女の目の前で無惨にもメロティちゃんは下流へと流れ始めています。 このままではメロティちゃんが危ない! そう悟った彼女は……。
「うえっ……うっく、うわぁぁぁああん」
 ところ構わず泣き出してしまいました。
「うっ……な、泣くなよ!」
 女の子を泣かしたという事実がトルシュの良心をズキズキと痛めつけます。
「む、むむむむむ……」
 彼はひとしきり思案すると、だっと駆け出しました。もちろん川に向かって。
(くっそ〜、寒そうだなぁ)
 初冬の今、外の川は寒いに決まっています。だけど彼は意を決すると水中に飛び込んだのでした。
 冷たい川に準備体操もせずに飛び込むのは危険だから絶対にやってはいけません……その一般的な警告を思い切り無視したのですが、 トルシュは心臓マヒを起こすこともなく、派手な水音を立てず巧みに泳ぎ始めました。 ――彼だからこそそんな風に行ったのです、良い子も悪い子もまねをしないようにしましょう。
(冷てっ。やっぱ冬に水泳するもんじゃないよなぁ)
 トルシュは水に冷やされて段々と感覚が無くなってくる手足を何とか動かしています。 彼が一生懸命泳いでいる間にもメロティちゃんはどんどん流されていき、今は川幅の真ん中のあたりに行ってしまっています。
(こら、待ちやがれぇぇぇ)
 えい、えい……と水を蹴り、手を伸ばして水を掻いていきます。だけど思うように身体が動きません。 冷たい水と身体にまとわりつく服がこんなにも身体の自由を奪うなんて!
(こりゃあ、ちょいとヤバいかな?)
 彼が子ども心にそんなことを考えた時。
「もういいよぅ、トルシュまで流されていっちゃう方がヤだよぉぉっ」
 川岸をトルシュが流されるのに――下流に向かって泳いでいるので――合わせて走っているソナーレが叫びました。 横を見ながら走っているので今にも転びそうな様子です。
(泣くなって言ったのに……)
 そう不敵に笑ってみせようと思ったその時、許しを与えられたことによる安堵が彼の僅かに残っていた力を奪いました。
(あ、ヤバっ)
 トルシュの姿が静かに川の中へと消えていきました。
 水中に没した途端、鼻と口から水が入り耳の奥がキーンと痛みます。 音があるような、ないようなそんな世界。どっちが上でどっちが下なのかもわからなくなり、明るい方が上なんだっけ?  そう思ったあたりで彼の意識はプツリと途切れてしまいました。

「かーさん、俺……まだ……って、あれ?」
 トルシュは自分の声で目覚めました。
 白い壁、白いベッド。見慣れぬ白一色の世界に彼はいます。 ぼんやりとしながらあたりを見回すと、心配そうな顔をした彼の祖母がいました。
「お祖母ばあさま……?」
「良かった、気がついたのね……」
 ずっと眠りっぱなしだった孫が目を覚ましたのでほっとしたのだろう。 トルシュの祖母――リョウコ・ラインゴッド女史はいくらか表情を緩めました。
「ここ……どこ?」
「ここは病院。おまえは川で溺れてしまったの。たまたま近くで見ていた人に助けられて病院に運んでもらったのよ」
「ふぅん……」
「それが今日のお昼。今はもう夜中よ」
 あの時、トルシュは見事に川へ沈んだのです。 近くでランニングをしていた“趣味はトライアスロンです”の男性がソナーレの悲鳴を聞きつけ、 筋肉を光らせながら救助してくれたのでした。 幸いなことにトルシュは呼吸も止まっておらず、水も大して飲んでいませんでした。その後、すぐに病院へと搬送。
 命に別状はなく大事に至らなかったのですが、 冷たい川の水は確実に幼い子どもから体温と体力を奪っていました。 冷え切ったはずなのに高熱が出て、ガクガクと震えが止まりません。 自業自得というか何というか、トルシュはすっかり風邪をひいていたのでした。
「本当にもう、冬に川へ飛び込むなんて誰に似たのかしら……」
「男にはそういう時があるんだよ、お祖母さま」
 無茶苦茶な言い訳です。
「ソナーレちゃんから話はみんな聞きましたよ。ウサギのぬいぐるみを追いかけて川に飛び込んだんだって?」
「……えっと、ソナーレは悪くないんだ」
「当たり前です。どうしてぬいぐるみまで嫌いになるの」
「ウサギはダメなんだよ、どうしても」
「噛まれた傷を放っておいて悪くさせたのはおまえのせいでしょうに……でもまあ、肺炎にならなくて良かったわ」
 さすがにリョウコとしても具合を悪くしている孫に延々とお説教をする気はないようです。 彼女にとってはかけがえのない家族、可愛くて仕方がない存在なのですから。
「今日はもう寝なさい。明日になればみんなお見舞いにくるから」
「……はぁい」
 リョウコは孫の布団をかけ直すと病室の明りを消しました。

*  *  *  *  *

「ふわぁ……ん、寝ちゃったのかしら?」
 ソナーレはふと目を覚ました。ぼんやりとしながら半身を起こすとここは自分のベッドであり、 子どもの頃の自分もメロティちゃんもいない。
 ――あれから何年たっただろうか。結局メロティちゃんは流れていってしまい、あれ以来お目にかかってはいなかった。
(あの時は大変だったよね。トルシュが死んじゃう〜って大泣きしたし、メロティちゃん恋しさにもいっぱい泣いて)
 両親が二代目ウサギを買ってきてくれたのだが、それが可愛いウサギのぬいぐるみであってもメロティちゃんではない訳で……。 小さな子どもが新しいウサギを受けて入れるまで随分と時間がかかったのである。 その後も彼女の部屋に生息するウサギの数は増加し続け、現在では大小様々なウサギ―― ぬいぐるみ以外のものもある――があちこちから顔を覗かせていた。
 ――コンコン、ガチャ。
「いよう。見舞いに来たぜ〜」
 突然やってきたのはトルシュだった。見舞いと言っているように小さな花カゴを抱えているのだが、 思春期の女の子としては寝巻き姿や熱のために汗ばんだ顔は見られたくないものであり……。
「な……ちょっと、勝手に入ってこないでよっ!」
「まーまー、気にするなって。ソフィアさんの許可は頂いてるぜ、暇つぶしの相手でもしてやって頂戴ってさ」
「はぁ……お母さんってば何考えてるんだか。――ってそこ、隙間から覗かないっ!」
 びしっとソナーレが指さしたのはドアの隙間。そこから怪しげな視線を送ってくる母の姿である。
「うふふ。楽しそうだったんですもの〜、ルン♪」
「いい歳して、ルンとか言わないでっ」
「まあ酷いわ、お母さんそんな娘に育てた覚えはなくってよ」
 スキップでもしそうな足取りで入ってきたソフィアは口では無茶苦茶なことを言いつつも、 手にしたトレイには飲み物の入ったグラスが置かれている。一つをトルシュに渡すと、もう一つをソナーレに持たせた。
「さ、ソナーレも少し水分取りなさい」
「……ありがと」
 ちょうど喉が渇いていたこともあり、母の奇態にぷんぷんと怒りながらもグラスを受け取った。 冷たすぎない温度にしてあるスポーツドリンクは風邪で弱った身体には丁度良い。 こういった細かい点まで気が利くことに関してはかなわないよなぁ……とソナーレは思う。 普段のおちゃらけなところさえなければ素直に尊敬できるのだが。
「じゃあ、後は若い人同士でよろしくやっちゃって頂戴」
 トドメとばかりに謎のセリフを残してソフィアは部屋から出て行った。
「相変わらずウサギばっかりだな、ソナーレの部屋って」
 部屋の中を眺めながらトルシュが呟いた。心なしか顔が引きつっている。
「投げたりしないでよ?」
「解ってるって」
「ねえねえ、昔から疑問だったんだけどトルシュって何でウサギが嫌いなの?」
「あー、それはだな……」
「うん」
 眉間に皺を寄せて深く考え込むトルシュ。それを見たソナーレは興味津々といった様子で身を乗り出した。 そして重々しく口を開いたトルシュが発した言葉は――。
「今は言えん」
「何それ。それじゃ判んないでしょ!」
「だから言えないって」
「メロティちゃんを流されたわたしには聞く権利があると思うんだけどなー」
「ダメ。絶対に言わない。あの時だってウサギを流すつもりはなかったんだぜ」
 それは彼女の気を逸らすための苦しまぎれの発言。トルシュにだって隠したい過去の一つや二つはあるのだ。
「じゃあどうするつもりだったのよ〜」
「箱に詰めて封印しようかと」
 小首をかしげて、てへっと笑ってみた。
「もぉぉぉっ、それじゃあ大して変わんないじゃないのよォ!」
 ソナーレは彼の首に手をかけるとぐいぐいと絞め上げた。
「うげげ……首絞めんなって。あんまりはしゃぐと熱上がるぞー。 ついでに言うとパジャマの一番上のボタンが外れてて良い眺め?」
「――ほえっ?」
 自分の胸元を見下ろすと言われた通りの状態である。体温計を使った後にちゃんと留めなかったらしい。 事実を認めた瞬間、彼女の体温と脈が一気に上昇した。
「きゃー、バカバカ。何で今まで黙ってたのよう」
「んー、俺も男の端くれだしなー。それにボタンは外れかかっていたけど、ソナーレが動かなきゃ完全に外れなかっただろうし」
 慌ててボタンを留め直すが焦っていると単純な動作も上手くいかない。彼女が一人でパニックに陥っていると――
「ほれ」
 ひょいと伸ばされたトルシュの手がボタンを留めてくれた。
「ソナーレも結構迂闊うかつだなぁ」
 にやりと笑われた。ソナーレとしても自分に落ち度がある以上、強く彼を責めるわけにもいかない。 しかし胸の中にモヤモヤは残るわけで……。
「もう知らないっ」
 布団をかぶって不貞寝ふてねである。
 ――布団のなかでじっとしていると妙に顔が熱い。
(ね、熱があるせいだもん。トルシュがバカなことを言ってからかうからいけないのっ)
「じゃあ俺、帰るぞ。早く良くなれよ、フォルサも寂しがってるからさ」
 カチャカチャとグラスを片付ける音、それから戸を閉める音が聞こえた。
 部屋の中に静寂が戻ると、ソナーレはゆっくり10数えてから布団から這い出してきた。 トルシュが明りを消していってくれたらしく、カーテンの隙間からわずかに夕陽が差し込むだけで部屋の中は薄暗かった。
「まったくもう、トルシュは絶対にうちのお母さんの悪影響を受けているわよね」
 はぁーっと溜息をつき、再びごろんと横になった。
 トルシュといると面白い体験を色々とできるの。 だが、その代償というか何というか……何かと世話を焼くハメになるのだ。どっちが年上なのか判らなくなるくらいに。 無茶苦茶な楽しさと年齢を感じさせない行動、どちらも母と共通している気がする。 フェイトおじさまとマリアおばさま、この二人がいなくなったばかりにとんでもない悲劇が起きたのではなかろうか――。
「ま、いいんだけどね」
 ソナーレにとって母親もトルシュも大切な存在だ。文句が出てくるのはそれだけ近しい人間である証拠なのである。 それは子どもの頃のあの日も今も変わらない。そしてこれからも永遠に変わらないだろう。
(メロティちゃん、どうしてるのかなぁ……)
 そんなことを考えながら、彼女は妙に晴れ晴れとした気持ちで再び眠りについた。


− Fin −



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