私の一番大切なものはリディア。 あの子を幸せにするためだったら、どんなことでもするつもり。 嫌なことだって、辛いことだって我慢できる。 それに……あの子にはお父さんがいないから、私が二倍頑張らないとね。
 あなたが生まれた時、家族が出来て本当に嬉しかった。 小さなあなたが大きくなっていく過程は、私には驚きと喜びの連続だった。
 初めて「おかあさん」って言ってくれた日。
 熱を出してとっても、とっても心配した日。
 あなたにとっては何てことの無い毎日だったかもしれないけれど、 リディアが生まれてからの七年間は、とても素晴らしい毎日だったのよ。 二人で一緒に笑って、時には泣いて。 いつも一緒で、二人で寄り添うように生きてきたよね。
 可愛いリディア。私の大切な娘。
 世界中の幸せがあの子のもとに集まりますように――。





第二章 消えゆくもの 伝えるもの



 村長むらおさの館に入ると、そこには村長の他にもアーシアや数名の村人が集まっていた。 全員、穏やかならぬ表情をしていた。フオリの予想していた通り、楽しくない話がなされるのだろう。
「フオリ、待っておった」
 ミストの村の最高齢の人物でもある村長が口を開いた。
 その隣には先刻、フオリを呼び出した妖精の姿もあった。 村長の召喚する対象は小型のものが多かったが、どれも知能が高く、複雑な指令を難なくこなしていた。 また、日常の話し相手や相談役としても優秀だそうだ。 その反面、単純な攻撃力という意味では、大型の幻獣たちに比べると劣るらしい。 争い事を好まない、この村長の性格を良く表している――と、フオリは思う。
「夜更けに呼び出して済まなんだ。既に察しておろうが、お前にやってもらわねばならぬことがある」
「守護竜を呼ぶのですね」
「左様。今日の夕刻、嫌な胸騒ぎがしおってのう。 水盤を使って気を見てみたのじゃが、西の洞窟にバロン王国の人間が入り込んだことが判った」
 村長は傍らに置いてある銀製の水盤を指した。 これは彼が長年使い込んだ水読みのための品であり、気を読み違えるなどということはない。
「バロン王は立派な王だと聞いていたけれど、近年は悪い噂ばかり流れてきているわね。 様子を探ろうにも、うちの子も近寄りたがらない……」
 アーシアがぽつりと呟いた。
 彼女は村の中で、外部の情報を集める役割を持っているのだ。 彼女が使役する幻獣はエリンという名で、幼い少女のような姿をしていたが、 なかなかに好奇心が旺盛で、変わったことや珍しいものを見つけるのが得意だった。 アーシアとは長い付き合いで、少々お喋りなのが珠に瑕だが、彼女の命とあらばどこへでも飛んでいく性格の持ち主である。 それだけにエリンが行きたがらないというのは異常な事態だと言えた。
「エリンは何て?」
 フオリは親友でもある女性に尋ねた。
「城には近寄れない、すごく嫌な気配がする――と」
「……そう」
「普段はでしゃばりなのに、いざという時は臆病なのよ、あの子は」
 アーシアは苦笑した。
「幻獣の秘密を探り、戦いの道具にしようというのではないか?」
 フオリとアーシアの会話を遮るように、誰かが声高に口にした。
「飛空艇に魔法……あの国は戦力増強に余念がないからな!」
「だが、幻獣は容易く扱えるものではないぞ」
 人々が口々に意見を言う。
「まあ、彼の国の王についてここで論じても始まるまい。今は招かれざる客人の対処を決めねばならぬ」
 村長の声が逸れかけた話を元に戻した。
「客人は大人が二名、おそらく男じゃろう。今は洞窟の入口辺りで動きを止めておる―― 夜に歩き回るほど愚かではないということじゃな」
「彼らをいつもの手はずで追い返せば良いのですね」
 フオリは長に確認した。
「そうじゃ。どうにもこの二人からは良くない気を感じてのう……ただの旅人であれば気にはせんのだが、 こいつらを村に入れてはいけない。そう思うのじゃ」
「承知いたしました。皆様もそれでよろしいかしら?」
 彼女は一同を見回し、反対が無いのを確かめた。
「では、明日の朝から行動に入りますわ」
 フオリはそう告げると、くるりと身を翻して村長の家を辞去した。


 今、フオリとアーシアは二人で並んで夜の村を歩いていた。
 逃げるように去っていったフオリを、アーシアが追いかけたのだ。 フオリは追いかけてきた相手が村長の取り巻きではなく、親友であることに安堵し、ようやく緊張を解いた。
「村長もあなたも相変わらずね」
 微苦笑する親友に、フオリはぷうっと頬を膨らませた。
「私、あの人たちが嫌いなのよ。人のことを都合のいい時だけ持ち上げて、言うこと聞かせて、ありがたいフリして……」
 守護竜を使役できるフオリは村人たちに敬われもし、恐れられもした。 幼い頃のフオリ――多感な少女であった頃にはとてもじゃないが、耐えられる環境ではなかったのだ。 大人になり、守護竜の持つ力の強大さが理解できるようになる頃に、ようやく仕方なしと割り切れるようになった。 しかし、それでも心に深く根を下ろした感情というのは容易に消えはしない。
「フオリ、無理だけはしないで頂戴ね」
「大丈夫よ、いつものことだもの」
 この村の西にある洞窟は“ミストの洞窟”とも呼ばれ、常に霧が渦巻いているという不思議な場所だった。
 他所の国では太古の呪いだの異常気象だのと言われているが、彼女達、ミストの住人は霧が渦巻く理由を知っている。 洞窟は村の守護竜であるミストドラゴンに縁がある場所なのだ。 霧をもたらしているのは竜の持つ魔力であり、霧自体が竜の一部でもあると言われている。
 守護竜と契りを結んだフオリは、それが真実であると何とはなしに考えていた。 というのも、ミストドラゴンと感覚を共有していると洞窟の様子が手に取るように判るのだ。 霧そのものが感覚器であるかのように、望んだ場所が見れて、音を聞くことができた。 また、こちらから声を飛ばすこともできた。
「それにしても相手が良い子で助かったわ」
 フオリはくすっと笑った。
「良い子? 悪い大人ではなくて?」
「夜に動きが無いってことは寝ているんでしょう? 夜更かししないんだから、良い子よ」
「……まあ、フオリったら。確かにその判断基準なら、うちのカイよりは良い子かもしれないわね」
 悪戯っぽく笑う親友に対し、アーシアは苦笑いするだけだった。
 二人とも家に子どもを残してきているが、不思議と早く帰る気にはなれなかった。 こうして二人で並んでいると、お互いに少女であった頃を思い出すからかもしれない。
「昔は夜に家を抜け出して、魔法の見せ合いをしたものだわね」
「そうそう。どっちがたくさん唱え続けられるか勝負とか、遠くまでブリザドの氷塊を飛ばせるか勝負とか」
〈ファイアを唱えて、うっかりチョコボ用の飼い葉を燃やしたこともあったわよね〉
 ふわりと宙に浮かび出た少女がきゃらきゃらと笑い声を立てた。 少女の額には小さな角が生えており、紫色の長い髪が大層美しかった。アーシアの友であるエリンだ。
「そういうことは思い出さなくていいの」
 すかさずアーシアがポカリとやった。 この三人のやり取りも昔のままだった。 あの頃とは、何が変わったというのだろうか。
 二人とも大人になり、それぞれ子ども持った。 召喚の腕前も、魔法の腕前も上がった。 アーシアは料理と裁縫が上手になったし、フオリは外の世界を旅して色んなことを知った。
 きっと、そういうのはオマケみたいなものなんだろうなとフオリは思った。 たぶん、自分達は何も変わっていないのだろう。 きっと世界――時代が変わったのかもしれないし、世界に対する見方が変わっただけなのかもしれない。
「あなたが村を飛び出した夜もこんな日だったわね」
「そうだったっけ? あんまり覚えてないなぁ」
「まったく〜。うちに泊まることにしておいてねって言い捨てて、そのままいなくなったのは誰よ?」
 おかげで翌朝、フオリの両親にさんざん問い詰められたのだ。 知らないと真実を告げても信用されず、しばらくは自分の両親からも怒られ続けたのだ。
「あー、そんなこともあったかなぁ〜」
「ようやく帰って来たと思えば、お腹の中には赤ちゃんがいて、しかも一人で産むって聞かなかったし」
 その頃、フオリの両親は他界しており、家はあれども家族は無しという状況だった。 やむなく自身も乳飲み子を抱えたアーシアがお産の世話をしたものである。
「感謝してるって、本当よ……ねっ、だからそんなに怖い顔しないでよ〜」
「まったく。あなたと親友になってしまったことって、本当に不本意だわ」
 アーシアはぷんぷんと怒ってみせたが、昔の出来事は今となっては良い思い出である。 何せ数少ない同世代、同性の友達。生まれた頃から顔を合わせ続けているのだから、嫌いになる方が無理だった。 子どもの頃にはたくさん喧嘩をしたが、次の日には仲直りをしていた。 そうしてずっとずっと一緒に遊んで、勉強をして大きくなったのだ。
「さ、お互いそろそろ母親に戻りましょ」
「そうね。リディアが寂しくしていないか心配だし……」
「そこは羨ましいわ。うちの子は男の子だから、そういう所をあまり見せてくれないんだもの」
「カイ君の方がリディアよりお兄さんってことよ。褒めてあげなきゃ」
「そうだと良いんだけどね」
 もうすぐ自宅だという所まで来たので、二人は足を止めた。
「くどいようだけど、明日は無理だけはしないで頂戴ね」
「わかってるって」
「本当に?」
 アーシアはフオリの眼をじっと見つめた。
「あなたは何にも無いフリをして、とんでもないことをやらかすのだけは得意だったんだから。 あなたの守護竜の召喚は接続が強い分、消耗が激しいし、気をつけてやるのよ」
「ええ、もちろんよ……ありがとう、いつも心配してくれて」
「もう、そんな顔されたらこれ以上言えないじゃない。じゃ、お休みなさい」
「はーい。また明日」
 二人はお互いの家の中間地点で別れると、それぞれの家に向かって歩き出した。


 母親のフオリは、「お役目があるから、出かけてくるわ」そう言って、朝から家を開けていた。 太陽が一番高いところまで昇っても帰ってくる様子はない。
 リディアは寂しさと退屈さから、不機嫌だった。
「美味しくない……」
 一人で食べる昼食は味気なかった。
 リディアはぶつぶつと文句を言いながら、食べかけの食事を中断した。 フオリが用意してくれていたのはサンドイッチだったので、手付かずのいくつかを残すことに躊躇はなかった。 残り物が載っている皿に布巾をかけると、そのまま戸棚にしまう。
「後で食べればいいよね」
 食べ物を粗末にしてはいけないと躾けられてきたため、誰が聞いているわけでもないのにリディアは呟いた。
 外に遊びに行く気にもならなかったので、自分の部屋で呪文の勉強をすることにした。
 子ども向けの教本には、基本的な呪文ばかりが書いてあるのだが、リディアが使える呪文はまだその中の一部。 ファイア、ブリザド、サンダー……本を後ろの方までめくっていくと、トードという呪文があった。 どうやら蛙に変身できる呪文らしい。
(池で遊ぶときに便利かなぁ? いちいち着替えなくても良いみたいだし)
 邪心の無い子どもには、誰かにかけるという発想は微塵ほども無いらしい。 トードの呪文本来の目的からは外れつつも、平和な解釈をした。
 まだまだ難しくて自分には使えない呪文ばかりが書いてあったが、挿絵と合わせて読んでいるだけでもなかなかに楽しい。 リディアは先程までの不機嫌さをすっかり忘れ、本の世界に夢中になっていた。

「おーい、リディア〜! いるか〜?」
 玄関の方から扉を叩く音と一緒に、彼女を呼ぶ声がした。
 声の主が誰なのか、リディアにはもちろん判っている。隣家の子どもにして、数少ない同年代の友達のカイだ。
「待って〜、今行くから!」
 リディアは本を棚にしまうと、玄関まで走っていった。 窓の外はいつの間にか陽が傾いて、空が淡いオレンジ色に染まっていた。
 がちゃがちゃと鍵を外して表に出ると、カイが籠と鍋を両手にぶら下げて立っていた。
「どうしたの?」
「かーちゃんがさ、これお前んに届けて、そのまま二人で夕飯として食べろって」
「おばさんは?」
 リディアは首を傾げた。たまにフオリが泊りがけで家を空けることがある。 その時はいつもリディアはアーシアの家に泊めてもらい、三人でご飯を食べていた。
「昼頃から急に変な顔して、しばらく一人でぶつぶつ言ってたんだよな。 それからこれを用意して出かけてった。帰りは遅くなりそうだから、リディアんトコで飯食って、そのまま居てやれってさ」
「ふーん。おばさんもなんだ……」
「オレが察するに、また村長ジジイに難癖付けられるか何かしたんだぜ」
 カイはフンと鼻を鳴らした。
「とりあえず、入れてくれよ。これ結構重い」
「うん。美味しそうな匂いがするね」
 リディアは籠を受け取ると、くんくんと鼻を動かした。 甘い芳香も混ざっているから、料理の他にお菓子も入っているのだろう。 丁度お腹が空き始めた健康児にとって、何ともいえない幸せな匂いだった。

「かーちゃんたち、遅いなぁ」
 食事の片付けが終わっても、彼らの母親たちはどちらも帰ってこない。
「ねえねえ、“おやくめ”って何なのかなぁ。おかーさん、“おやくめ”をする時って、いつも長い間出かけるの」
「うーん、何だろ? フオリおばさんは守護竜の“よりしろ”ってやつらしいし、特別な仕事なんじゃないか?」
「ミストドラゴン……あたし、一回だけ見たことある!」
「オレだって! この前の祭の時だよな。白くてすっげえカッコイイやつ」
 昨年は十年に一度の大祭があるとかで、その時に彼ら子ども達も村の守護者を見たのだ。 村の一角にある祠の前でフオリによって召喚された竜は、壮麗な姿と尋常でない迫力を備えていたと記憶している。
「お祭用の服を着たおかーさん、すごくきれいだったなぁ……」
 普段は着ないような布をたっぷり使った、裾やら袖やらがひらひらした服を着ていた。 花を編んで作った髪飾りもとても似合っていたと思う。
「なあなあ、おばさんのお役目って何なの? お前は知ってるんじゃないか?」
 カイは足元に向かって呼びかけた。
 すると、彼の影から漆黒の毛並みを持つ大きな犬が飛び出してきた。 もちろん、ただの犬ではない。カイの幻獣ハーシュだ。
 カイが楽に背に乗れるくらいの大柄な犬の形をしているが、恐ろしい印象は与えない。 金色の瞳は知的な光を放っており、挙措も穏やかだった。
〈そう何でもすぐに他人に答えを求めるものではないよ〉
 ハーシュはくつくつと笑うと、床に伏せ、眠たそうに瞳を閉じた。
「ちえっ。ホントは知らないだけなんじゃねーか?」
 カイはわざと聞こえるくらいの大きさで呟いた。
〈……知らない、だと?〉
 ハーシュの耳がぴくっと動いた。
 彼にとって、自分よりも遥かに幼いカイにこう言われるのは断じて許せないことだった。 もちろん、カイはそんなハーシュの性格を知っているからこそ、「知らないのでは?」と言ってみたのだ。
「知らないから、知っているのに答えないフリ」
〈お前のような小僧に侮られるとは非常に不本意だ〉
「じゃあさ、証拠」
 カイだけでなく、リディアも興味深そうにこちらを見ている。 フオリの役目について説明しないかぎり、この子ども達は納得しないだろう。 ハーシュ自身はカイのためを思い、自ら調べ学習することを進めたのだが、このままでは自分が無知と思われてしまうではないか。
(まあ、断片的に話してやるくらいなら良いか……)
 子どもにのせられてしまったことは非常に口惜しいが、元来説明好きな性質である。 表面上だけ重々しい態度をとり、口を開いた。
〈彼女――フオリと、ミストドラゴンは関係性が少々特殊でな。私とカイ、エリンとアーシアのような繋がり方とは違うのだ。 むろん、お前たちがチョコボを呼ぶのとも違う〉
 リディアはこくりと頷いた。
〈お前達のような召喚士と、我々幻獣の繋がり方には大雑把に分けて三種類ある。言ってみろ、カイ〉
「えーっと、その場限りの繋がり。長い繋がり。一心同体の繋がり」
〈言葉遣いは何とも言えんが、まあ良いだろう。チョコボを呼び出すのは、基本的にその場限りだな。 呼び出して、用が済むとチョコボを還す。 そして、次に呼び出す時に同じチョコボが来るとは限らない――同じ固体を呼べなくも無いがな〉
「そうなんだよね……」
 最初に召喚したちびチョコボにあれから会えていないリディアはちょっぴり寂しそうだ。
「二つ目の長い繋がりというのが俺たちだよな」
〈ああ。私は普段は幻界に身を置いているが、その間もカイとの間に糸が張ってあるように繋がっている。 お前はいつでも私に声を届けることが出来る。また、私もお前の居場所がいつでも判り、そこへ行くことができる〉
「じゃあ、三つ目は?」
〈それがフオリの場合だ。彼らは特に繋がりが強い。 フオリとミストドラゴンは一体となり、感覚を共有することができる〉
「へぇ〜」
「すごい!」
〈良いことばかりではないがな。確かにその繋がり方であれば、我々は一番強く人界で力を振るえるだろう。 召喚士も我らの力を使うことができる。まさに一心同体だ。 しかし、感覚を共有している故、痛みも苦しみも一緒。また、人間にとっては消耗も激しかろう……〉
「そんな!」
 リディアの表情が曇った。
「バカ、リディアを心配させるなよ。……リディアのかーちゃんは村一番の召喚士なんだし、絶対大丈夫だって」
 バカと言われたハーシュは眼を背けると、カイの影に沈んだ。
「おかーさん、大丈夫かな……」
「心配すんなって、きっとすぐ帰ってくるさ」
 カイが彼なりにリディアを励ましていると、リディアはようやく落ち着いた。
「そろそろ良い子は寝るじか――うわっ」
「きゃあっ」
 百の雷を一つに合わせた様なドーンという大きな音が聞こえてきた。 そして音にあわせて家が大きく揺れたのだ。
 二人の子どもは突如襲った振動に、激しく転んだ。 したたかに頭を打ち付けたようで、その痛みで眼の端に涙がにじんだ。
「な、何だ今の!?」
 零れ落ちそうな涙を振り払い、カイは立ち上がった。
 お祭の太鼓を何百倍も激しくしたような音と振動だった。それも一回きりではない、今も揺れている。 特大のファイアの呪文を使ったみたいな爆発音も聞こえてくる。
「カイ〜っ」
 リディアはすっかり怯えてしまい、ともとりあえず、カイにしがみついた。
「…………誰かが魔法を失敗した、とか?」
〈違うこれは……〉
 影の中から声が聞こえた。
「カ、カイ、煙が……」
 ドアの隙間からどす黒い煙が室内に入り込んできている。 視線を転じれば、窓の外は夜だというのに篝火をたくさん用意したかのように明るい。 さらに言うならば、この時期のこの時間にしては空気が熱い。
「に、逃げるぞ。火事だっ!」
「う、うん」
 二人は慌てて窓から部屋を飛び出した。
 外に出て判ったが、幸いなことにこの家はまだ片隅が燃え始めたところだった。 しかし外の様子は大層酷い。空を見上げれば召喚獣として使役されることもあるというボムが何体もいた。 彼らが動く度に炎の塊が撒き散らされ、新たに家や木が燃えていく。そして激しい爆発が起きる。
 これは意思のある大火だった。人の住む家、人の利用する森や村の設備ばかりが狙われているのだ。 カイは思わず見てしまったものから眼をそむけたが、おそらく人も火によって命を落としている。
「あ……リディア、逃げるぞっ!」
「で、でもどこに」
「とにかく逃げるっ。目が合っちゃったんだよっ!」
 無数にいるボムのうちの数体が、彼らめがけて一直線にやってきていた。 二人ともブリザドの呪文を使う余裕は全く無かった。 凶悪な笑みを浮かべて寄ってくる滅びの炎に怯え、喋ることにさえ不自由しそうなくらいだった。 もつれそうになる足を必死に動かして、逃げるのが精一杯。


「……はぁ、はぁ」
 振り切れただろうか? リディアは付近を確認した。
(カイ、どこ……?)
 逃げ回っているうちに分断されてしまったのだ。 さすがにこの状況では大きな声を出して呼ぶわけにはいかない。
(きっと、カイにはハーシュがいるから大丈夫だよね……)
「……うっ、く」
 走り回ったこともあるが、煙や炎のせいで喉が痛みを覚えていた。 息苦しくて、体の中に空気を取り込むことがとても大変な作業のように感じられた。
(ここ、どこだろう)
 いつも遊んでいる村のはずなのに、今夜は全く様相が違っていた。 ここがどこなのかよく判らない。人家が集中している場所からは離れたと思うが、そう遠くへも行っていないはずだ。
(誰か居てくれたらいいんだけど……あ!)
 リディアは木々の間に、祭の祠を見出したのだ。 ぐるぐる走り回ったせいで場所が判らなくなったが、ここなら大丈夫だ。祠の前まで行けば道に出る。
(早く村に帰ってカイを見つけなきゃ)
 彼女の中には火事が収まるまで待つ、という発想はなかった。まずはカイや母親のことが第一だったのだ。
 かさかさと木の間を通り抜け、祠の前に出た。 そこからは村に向かって小道が伸びている。長い間に踏み均されてできた道なので、幅はそれほど広くない。 いつまたボムが現れるかと心配しながらリディアは歩いていった。
 小道は途中で別の道と合流している。村と村の西にある洞窟とを繋ぐ道だ。 山の向こうの国から来る旅人や、商人が使う道だと聞いている。 もっとも、幼いリディアにとってはミストの村が世界の全てだったので、この道の先は現実味の無いものだった。
「…………あれ?」
 小道が合流している場所まで来たリディは、ふと行き先とは反対側に目を向けた。
 そこには一人の女性が横たわっていた。彼女にはそれが誰であるかすぐに判った。 髪の色も肌の色も、閉じられた瞼の下にある瞳の色も、全部良く知っている。 その人は今朝だって、柔らかい手で自分の頭を撫でてくれたではないか。
「――おかあさん!?」
 リディアは村に戻ろうとすることも忘れ、そちらに向かって駆け出した。

 彼女が走ったのはほんの僅かな距離。すぐにそこへ着いた。
(何? どうして!?)
 目の前に母親が倒れていた。そして母の側には二人の大人。 黒い鎧を着た男と、長い槍を持った男。
 お母さんの所に行きたいのに、行けなかった。 お母さんは顔色がすごく悪くて、ぐったりしていて動かない。 近くに行って声をかけてあげたいのに!
 リディアの存在に気が付いたのだろう、男達の一人がこちらを見た。
 男達は小声で何事かを確認しあうと、リディアの方へ近寄ってくる。
「さあ、ここは危険だ。僕等と一緒に……」
「いや!」
 男は彼女を怯えさせないようにと目線を下げ、極力穏やかな声を作っているようだったが、この状況においては全くの無駄だった。 リディアは恐怖に染まった瞳で彼らを見た。
「已むを得ん、無理矢理でも!」
「相手は子どもだぞ、カイン」
 黒づくめの方が槍を持った男を制し、改めて彼女の方に歩み寄ろうとする。
「近寄らないで!」
 リディアは震える足で後ずさる。きっとこの二人の大人は悪い人間なのだ。 ボムをたくさん連れてきて、村を無茶苦茶にした。それどころかお母さんを……
「待ってくれ! 僕達は決して君を――」
「もういやあ! みんな、みんな、大っきらい!!」
 伸ばされた手から逃げるようにすると、リディアは大きく頭を振った。 ぽろぽろと大きな瞳から涙がこぼれていく。それは炎に照らされて、血の色をしていた。
 お母さん、お母さん、お母さん。
 誰か助けて!
「――――っ!」
 リディアは声にならない叫びを迸らせる。
 途端、自分の中に何かが溢れてくるのを感じた。
(…………な、に?)
 体の中でサンダーの呪文をたくさん唱えたみたいだと思った。何かが突然、身体の中で弾けたようだ。
 幼いリディアが考えられたのはそこまでだった。 次の瞬間には激しい奔流に飲み込まれるかのように、心と体が激しく揺さぶられる感覚に襲われる。 そして、彼女の意識は闇の中へと落ちていった……。




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