始まる前の物語

 今日でもう10日余りになるだろうか。 下された指令に対し、とやかく言うつもりは毛頭ない。 だがこの任務が空振りになりそうな予感がひしひしと感じられ、現状がただの時間の無駄になりかねない状況では……。
 俺はこの任務中、シランド城下の借家に住み、監視対象である人物を見張り続けている。 本当ならばこの程度の仕事はもっと下位のヤツでも問題ないはずなのだが、生憎と監視対象がこの国の高官ときている。 その人物にはある疑惑が持たれているのだが、証拠もなく、無実の可能性もかなりあった。 疑惑が真実であれば由々しき事態、だが客観的にはそうでない可能性の方が大きい。
 しかし、僅かなりとも疑いの可能性があるのなら、隠密組織である『闇』としては捨て置くことができない。
 そして無実であるのに嫌疑をかけられたと本人が気づけば後々しこりが残る。それは国政のために非常に良くない。 ゆえに万が一にも間違いがあってはならないため、俺が駆り出されたという状況だ。
 俺は表向き、最近この町にやってきたばかりの文章書きということにしてある。 そして部下の一人が出版社の人間を装い、情報やら物資を運んできてくれている。 一日中、引きこもっていても怪しまれないための設定なのだが、ずっと閉じこもっていても怪しまれないとは、 作家という連中はいったいどういう人種なのだろうと疑問に思わなくも無い。
 そんな設定であるから、今の俺は普段の装束とは違い一般人が着るような服を身に付けている。 さらさらとしたシャツの肌触りは案外と快いものだ、仕事着を身に付けることが多いものだから、久しく忘れていた感触のように思う。
 さて――、今日もまた陽が沈む。
 白い石を建材として用いたこの町は全体がどこか寂しげな茜色に染まる。 この時間、この色を見ていると何とも言いがたい気持ちになるのは何故だろうか……?  清浄であるべき城、しかしその下に流された血を連想させるこの色を、俺はどこかで嫌悪しているのかもしれない。

 2階の窓からすっかり暗くなった外を見下ろすと、いつものように家路を歩む人々が見えた。
 もう監視を始めて10日以上もたち、歩いているのは決まった顔ぶればかりだったから、すっかり憶えてしまっている。 いつも広場で買った惣菜を大切に抱えている男、黒革でできた値打ちモノらしい鞄を抱えた老紳士、 子どもの手を引いて足早に歩く大柄な体躯の女性……。
 そして一番最後に通るのは一人の宮廷女官だった。 身に付けている衣服からその女がかなりの名家の出であること、 そういった家の子女が勤めにでる時のお決まりの部署である秘書官をやっていることが判る。 ただその女に本当に秘書という役割が勤まっているのか、この上なく怪しい。 というのも……。

 べちゃ。

   何ともまぬけな音。これはその女官がいつものように何も無いところで転んだ証だ。
 ――そう、この女はいつも何も無いところで転ぶ。ありえないくらいに注意散漫・純粋培養なのだ。 ちなみに、純粋培養というのはこの女の“天然系”という気質に由来する。 そのことは直接的な関わりのない俺でも知っているくらいに有名なのである。
〈あら、あらあら? また空気に躓いてしまったみたいですわねぇ……〉
 ――そんな訳あるか!
 唇の動きを読んだ俺はその女のとんでもない解釈に思わず突っ込んでしまう。
 砂がついた服をパタパタとはたきながら女は起き上がった。 立ち上がると少し顔をしかめて、擦り剥いたらしい鼻の具合を確かめる。 そのままもごもごと何かを呟くと、指先に灯った光を鼻に当てた。
〈やっぱり……お鼻が真っ赤というのはいけませんものね♪〉
 たかが擦り傷を治すのに施術……。この女、天然ではなくただの馬鹿かもしれない。 まあ、オトボケな様子に反して容易く治癒の施術を使うというのは意外だったが。
 良い家の人間らしいから、施術の才――血統限界値――がそれなりにあるのは納得いくが、 どうにもよく判らない女である。

 あくる日の事だ。
 本部から通達があり、この監視もあと1巡りで終了することが決定した。 どうやら疑惑の人物は潔白という形で決着しそうなようである。
 自分の今までの行動が無意味であったとなると残念でもあるが、こんなことは隠密を続けていれば日常茶飯事である。 娯楽読み物のように華々しい活躍などとは全く無縁で、大半は地味な仕事か、 そうでなければ表沙汰にできないようなことばかりである。
 とにもかくにも、これでこの単調な日々とお別れできると思うと心が弾む。 楽な仕事であるとも言えるのだが、普段の生活と違いすぎるのはどうしても落ち着かない。 後輩連中に剣の稽古でもしていた方がまだマシというものだ。

 そして夜。
 俺はいつもの習慣でついつい窓から外を眺めていた。 あと1巡りでこの人々ともお別れかと思うと、余計に眺めておきたい気持ちになったのだ。 あの女の口からどんな言い訳が飛び出すかと思うとそれはそれで楽しみであるし……。
 そのまましばらくすると、いつものように“べちゃ”という音が聞こえた。 今日も盛大に転んだようである。
〈あら、今夜はお鼻さんと地面さんがご挨拶をしたがったみたいですわねぇ……〉
 ――そうきたか。
 女は相変わらずのトンデモない言い訳をした後、いつものように鼻を治癒。 そのままふんふんと鼻歌を歌いながら帰っていった……が。
 明らかに素人技だがその後を尾行している数人の人影があった。 まだそんなに寒い時期ではないというのに、裾が長い黒い外套コートをそろって身に付けている。 外套と同じ布でこしらえてある頭巾フードも被っており、顔が見えない。
 ――あからさまに怪しい。他国の間者だろうか?
 宮廷に仕える秘書官ともなれば国内・国外を問わず誰かの手の者に狙われる可能性はあるだろう…… アレから有益な情報が得られるのかはさて置き。
「――愚かな」
 その呟きは果たして誰に対してのものだったのだろう? 自分でもよく判らない。 ただはっきりしていたのは久しぶりに身体を動かせる機会がやってきたということだ。 気が付いてしまった以上、怪しい輩を取り押さえるのは当然のこと、だよな?

 俺は窓を開き、音もなく2階から路地へと着地。衝撃を上手く殺しているから脚を痛めるなんてことはしない。
 道の先を歩いている女は背後にいる胡乱な連中に全くといっていいほど気が付いていない。 今も背後から伸びた手がその肩を捉えようとしているのに。
「騒がれるよりはいっそ楽か」
 俺は奴らの方を見つめると、女の肩に手を触れようとしていた人物に向かって小石を投げた。 それは一直線に飛んでいき、彼らの肩口に吸い込まれる。
「ぐっ……」
「うわぁ」
 そんなうめき声が聞こえた。当然、女の肩を掴もうとしていた動きも止まる。 奴ら――全部で3人――の声に女もさすがに気が付き、後ろを振り返るとこう言った。
「あらあらまあまあ! 大丈夫ですの?」
 おっとりとした動作でおとがいに人差し指を持っていき、ぽわっとした雰囲気で小首をかしげている。 自分が今の今まで狙われていたという自覚は全くないようである。 さらには目の前の明らかに胡散臭い奴らをいぶかしむ様子もない。
 ……天然にも馬鹿にも程度があるだろうに。
 対する男たち――痛みにうずくまった拍子に頭巾がずり落ちた――は、かなり焦った様子である。
「な、何でもありませんよ。ただ持病の肩凝りが酷くなりましてね……」
「そうなんです、こいつの言うとおりで。このところ、書庫に閉じこもっての作業ばかりでしたんで。あははは……」
 明らかに嘘だと判る言い訳にも女は気が付く様子が無い。 藤色の瞳をぱちくりとさせて、穏やかに微笑した。
「ならば良いのですけれど……一応、お手当ていたしますわね」
 躊躇ためらうことなく施文を唱え、癒しの光を振りまいた。 それも3人分ひとまとめに。
 男たちを治癒したらまた襲われかねないということに気が付いていないのだろうか……ああ、少しも気が付いていなかったな。 俺はあまりにも無茶苦茶な展開に呆れてしまった。
「それでは御機嫌よう……月の女神のご加護がありますように」
 育ちの良さを感じさせる優雅な動きで決まりきった挨拶をし、ふわりと微笑むと女は立ち去った。
 男たちはそれを追いかけるどころか、どこからともなく飛んできて邪魔をした小石について考えることすらしない。 ただただ放心状態で女の後姿を見送っているだけである。いったい何だというのだ?

「おい、お前たち何者だ?」
 すっかり毒気を抜かれたが、こればかりは確認しておかなければならない。 俺はそれとなく男たちの外套を踏みつけながら尋ねた。
 明らかに間者には見えない男たちはほうけた顔で俺の方を見る。 敵対的な様子も、反抗する様子も感じられない。
 が、次第に状況を理解したのだろう。瞳の焦点が合うと月明かりしかない夜でもはっきりと判る態度で狼狽し始めた。
「お、俺たちは別に怪しいものでもなんでもありませんっ。な、そうだろ同志よ?」
「もももも、もちろんですとも。ね、会長!」
 若者が作る政治系団体の会長と会員だろうか?
「だ、断じてリーゼル様をおっかけしていた訳では……あ」
 おっかけ? “おっかけ”とはどういう意味の言葉だ。
 俺が疑問を抱いている間にも彼らの会話は続いていた。
「ダ、ダメですよ、会長。この人、きっとリーゼル様の護衛か何かですぜ。バレたら……」
「そうですよ〜。普通っぽい格好してるけど、何かこう、ただ者じゃないって雰囲気してるじゃないッスか」
「むむむむむ……失言だったかー、同志よー!」
 喧々諤々。うるさいことこの上ない。
「おい、お前ら黙れ」
 言葉の力で呪殺したいとばかりの低い声。 アーリグリフの間諜をとっ捕まえた時よりも怖い声をしていたと思う。
「ひっ、す、すみません」
 3人はへへぇとばかりに平伏した。
「おっかけとは何だ、お前らあの女官に何をしようとしていた! はっきり言え!!」
 俺は頭目と思しき男――会長――の頭を掴むと、事態の説明を迫る。
「へっ? またまた〜、知っているんでしょ、俺たちのこと?」
「知るか!」
「あなたはリーゼル様の護衛じゃないんで?」
「何で俺があんなオトボケ女の護衛なんだぁぁぁ!」
 その瞬間、場の空気が変わった。
 見えない炎がごうごうと燃えているような感じである。
「「「貴っ様ァァァァァ! リーゼル様のことを悪くいうんじゃねぇぇぇぇぇ!!」」」
 三人の声が揃い、大絶叫。近所迷惑なことこの上ない。
「あのお可愛くて清らかな宮廷の星、リーゼル様のことを悪く言うヤツや俺たちリーゼル様萌えの会が許さないッ!  太陽に変わって仕置きてくれるわぁぁぁッ」
 俺が押さえつけていた手をもの凄い力で振り払うと、会長は叫んだ。 そのまま拳を振り回してくるのだが、いかんせん俺の前では児戯に等しい。難なく回避した。
「こいつめ、こいつめっ、リーゼル様のことを悪く言いやがって。天然ドジっ娘は萌え属性なんだ。 ツンケンした女官の中であのお人だけ俺たちのような下級役人にも優しく微笑んでくれるんだ。 俺たちにとっての女神さまなんだよっ。 今夜だって、グリーテンから秘密裏に仕入れた“しゃしんき”で同志たちのためにそのお姿を “かんぱん”に留めておこうとしただけなのにぃ。さっき石投げたのお前だろ? 邪魔しやがってこのヤロウ、 自分がイケメンだからって他人ひとの恋路を邪魔するなんてみみっちいぞ!」
 ぜーぜー、はぁはぁ。彼は普段の百倍ぐらい喋ったのだろう、すっかり呼吸が荒くなっている。
 彼の主張を要約すると、今宵の出来事は単なる男女間の交友にすぎないということだ。
 ……つまり、事件でも何でもない……ようだ。それは認めなければならない……とても不本意だが。
 だがしかし、無視できないことが一点ある。俺は威厳を出すためにあえて無表情を装うと彼らに告げた。
「あの女官に危害を加えようとしていないのは判った、その点については詫びる。 だが、お前たちもその怪しげな服装を改めるように。それとは別にお前たちを別件で事情を聞かなければならない。 グリーテンからの輸入を許可なく行うのは禁じられている、後日人員を派遣するのでそのつもりでいるように」
「……あ」
「「会長〜っ!」」
 彼らは互いの肩を抱いて大いに泣いた。 どうせ苦労して見つけた業者に大金を積んで買った程度なのだろうから、 何日か光牙師団の取調べを受け、罰金・奉仕活動を課せられる程度だろうに。 まるで太陽が落ちてきたような嘆きである。  ふと空を見上げると俗世の喧騒とは無縁な様子で月が煌々と輝いていた。

 任務が終了し城に戻った俺は、それから彼らがどうなったのかについて光牙師団の知り合いから聞いた。 仕入れたものが危険物や貴重な鉱石類ではなかったし、初犯ということで俺の予想したとおりに大した咎めはないそうだ。 彼らの意中の女官への行動を邪魔してしまったこともあり、多少はすまなく思っていたので大事にならなくて良かったと思う。
 ただ納得がいかないのは、この話を件の光牙師団の人間にしたら大笑いされたということだ。 俺よりも年上だが、まだまだ若いのに何故か年寄りがかった口調で話す知り合い曰く、 「お前というヤツは男女の機微というモンをまるでわかっとらん」だそうだ。 言っていることは意味不明だし、いくら俺だって男女のあれこれに関して全く無知ということはない……ないはずだ。
 彼が言うには、“しゃしん”とやらを上手く行っていたら、今頃にはそれが高値で売買されていたかもしれないそうだ。 俺には誰もが欲しがる物のようには思えないのだが……。
 相変わらず彼の言うことは意味不明である。これとは関係ないがやたらと肉を食わせようとするし。 肉料理は普通に好きだが彼の勧める量・メニュー構成には辟易させられるのだ。
 それと筋肉見せようとするのは何とかならないものだろうか。何で彼が嫁を見つけられたのか大いに謎である。
「そういえば……件のリーゼルという女官、今日も元気に出仕しているようじゃぞ」
 不満げな俺の顔を愉快そうに見ていた彼が言った。唐突に何を言い出すのだ、彼は。
「何でそんなことを」
「お前さんの顔に“あの女官のことが気になる”と書いてあるからさ」
「気になる? 冗談はよしてくれよ、何だってあんな変わり者の女性のことを気にしなきゃならないんだ」
 むっとした顔で抗議しても彼は柳に風とばかりに受け流してしまう。
「ワシはな、思うんじゃが……お前さんはちいとばかり尖がりすぎておる。 そんなお前さんにはそのトゲが刺さっても気にしないくらい柔らかい気性の娘がぴったりじゃ。 聞けばあの娘、ぽよぽよっとした雰囲気からは想像できんくらいに優秀な秘書官らしいぞ。 家柄も施術の才もお前さんの嫁として申し分なし!」
 何故そういう話になるんだ。
 確かに俺も家の跡取りとして、10代半ばぐらいから縁組の話はやたらと舞い込むようになっていた。 だが、曲がりなりにも人生を共にする相手であるし、婚姻したとなればその…… 夜も共にするのだから妻とすべき人は熟慮して決めたい。そう言って今まではこの手の話は断ってきたのだ。 結婚しないのは相手が見つからなかった訳で、特に他意はない。
「これ、そう怖い顔をして黙りこくるもんじゃないぞ。 何も今すぐ行って結婚を申し込めと言うておるのではないのだから。 まずは今回の件をネタに交際でも始めてこんか?」
「……そういうのは卑怯なやり口って言うんだ」
「お前さんは細かいところで潔癖じゃのう。人生損するぞ」
「知るか!」
 そう彼の髭面に叩きつけると、俺はくるりときびすを返した。
「なんじゃ、来たかと思えばもう帰るのか?」
「新婚夫婦の家に長居するほど無粋じゃないんでね」
「お前さんなら妻も大歓迎じゃぞ、女性使用人たちも色めきたちおるし……」
 ――そんな事情、俺の知ったことではない。
 俺の背後で彼はわざとらしく盛大に溜息をついた。そして故意に聞こえさせる音量で独り言を言う。
「ま、子どもっぽいあいつには男女交際なぞまだ早いかもしれんのう……いやぁ、ワシが悪かった」
「…………何っ?」
 ここで足を止めてはいけない、これは幼稚な挑発に過ぎないのだ。 それは重々承知しているのだが、長い付き合いになる彼がからかうように言うと、必要以上に心が乱される。 俺は反射的にその場で立ち止まっていた。
「これでも読んでちっとは勉強せいっ!」
 振り返った俺の顔めがけて飛んできたもの、それを防衛本能で受け止めてしまった。
 それは一冊の本。
 薄紅色の表紙には可愛らしい書体で『恋の駆け引き、1・2・3!』とある。
 ……………………。
「清らなるは氷のごとく、麗しくは花のごとく……六華となりて消えうせよ!」
 他人の家だというのには頓着せずに、俺は愛刀の力を解放した。刀の力で塵のようになった本は絨毯の上に舞い落ちる。 周辺の家具に霜がついているが、そんなことを俺の知ったことではない。
「失礼させてもらう!」
「頑張るのじゃぞ」
 後ろ手に扉を閉めた俺の背中に、意味不明な期待を寄せる彼の声が突き刺さった。

「まったく、人のことを何も知らない子どものように扱いやがって……」
 久しぶりだからと顔を出したらこの有様である。 彼の屋敷から出ると、俺は腹立たしい気持ちになって足早に通りを突き進んだ。
 まだ日が高いこの時間、連れ立って歩く男女の姿が目に留まる。 喫茶店の中で幸せそうに談笑している者たちもいた……って、何を見ているんだ、俺は。
 お、俺だって良い人を見つけたらこんな風にする事だってあるんだ…………きっと。あ、あるはずだっ。
 本当なら自邸へ戻るはずだったのだが、むかむかした気持ちを抱えたまま歩いていると、いつの間にか城近くの高台まで来ていた。 城下から城まで、土地は徐々に高くなっており――湖上の島という地形を考えれば当然なのだが――ここは城に入る一歩手前。 城門への道沿いであればそれなりに人も多いのだが、そこから外れてしまうと人の数は途端に減ってしまう。 だが、市街地よりは高いところにあるため眺望を楽しむことができる。
 俺はそこに立ち、ぼうっとしながら町を眺めていた。
 どれくらい時間が経っただろうか? いつの間にか高かった陽は傾き、町は俺に複雑な感情を思い起こさせる色になっている。 景色を見ているのか、ただ立ち尽くしているのか判断できなくなったその時。
 はるか下方の路上で、一人の女性が転んだ。
 音なんて聞こえないくらい離れているというのに、俺の耳には“べちゃ”という何ともいえない間抜けな音が聞こえた気がした。
 その後に続くトンデモない言い訳、それから見せる春風のように朗らかな表情。
 ふっと脳裏にナントカの会会長の言葉が蘇る。 彼は俺たちのような下級役人にも優しく微笑んでくれるんだ――と言っていた。
 そんな彼女は俺のような表沙汰にできない仕事をし、血にまみれた手を持つ人間であっても、 変わらぬ笑顔を向けてくれるというのだろうか? あの月明かりの晩に見せたような暖かい微笑を――。
 確かめてみるか? 事件のことを理由にすれば面会の機会は容易に作れるだろう。
 だがもし失敗したら? 俺の仕事について知った人間が見せる、恐れと侮蔑が混じった視線を向けてきたら?
 ――どうする、どうすればいい。
 選択すべき札は用意されていない、考えなければ……。
 と思うものの、考えることさえままならない。結果が判るのが怖いのかもしれない、ゆえに先々のことを考えるのができない。
「やれやれ、どうやら俺は本当に子どものようだな。悔しいがアドレーが言うとおりだ。 こんなにも自分の感情が御し難いものだなんて……」
 俺はふう、と軽く息を吐く。
 ともとりあえず結論を先延ばしにし、 妙に晴れ晴れとした気持ちで空を見上げると、紫がかった空に一番星がチカチカと瞬いていた。


 俺がリーゼルに初めて声をかけ、それどころかその場で……いやここで言うのは止めておこう…… あー、彼女に結婚を申し込むに至るまであの日から数年を要した。 頼むから遅いとか、非常識だとか言わないでもらいたい。
 俺自身はいたって真面目だったし、俺がした結婚の申し込みの仕方がトンデモないものだと知ったのは後になってからなのだから。 関係各所からの苦情は大量に受けたし、それらのゴタゴタを収めるのに多大な労力と時間を要してもいる。
 何が言いたいかというと……出会い方や付き合い方ってのは人それぞれなんじゃないかということ。 周りに流されたり、変に焦ったりというのは良くない……と思う。
 自分がそうだったからというのではないのだが、幼い娘が思慮深く育ってくれることを期待している。 戦場の狂気というか、勢いで青い髪の人間――なんとなく青毛って予感がするんだよなぁ―― とくっつかないといいなぁ……って。


−Fin−


執筆者:くろ☆管理人

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