ゼルファー夫人物語

 ここは聖王国シーハーツの王都、シランドの街である。 街は湖の中にある巨大な島の上に建設されており、夕暮れになると湖面に反射した夕陽が王城をオレンジ色に染め上げる。 そんな風光明媚な土地だ。
 シランドの一角に大きな屋敷があった。 そこはネル・ゼルファーの自宅で、現在は彼女の母が家を守っている状態。
 少々古めかしいが立派なつくりの門扉の前に二人の人間の姿があった。
「ここがネルさんの家なんだ……大きいなぁ」
「古いだけさ。じっくり見るようなもんじゃないよ」
 最初に発言したのはフェイト・ラインゴッド。グリーテン出身の技師ということになっている。 彼の横に寄り添うように立っているのがネルだった。
「もう日が沈む、早く中へ入ろう」
 家に入るように促しつつもネルの心中は複雑だった。 仕事仲間以外の異性を実家に連れて行くなど初めての行為だから。 あの母親のことだから間違いなくフェイトを質問攻めにするはずだ。 その問いに対して彼がどう答えるのか、それを考えただけでも胸が苦しくなる。

 ネルはフェイトを応接間へ案内するように執事へ頼むと、彼女自身は自分の私室へ戻った。
 久しぶりに入ったこの部屋だが、定期的に掃除されているらしくちり一つ落ちていなかった。 予め家に戻ることは伝えてあったから布団も干してあるのだろう。 どことなく部屋の空気がさっぱりしているように感じた。
 そこで仕事着から普段着へ着替えると応接間へ向かった。 おそらく母も娘の帰宅と来客の知らせを受けてすぐにやってくるだろう。
 応接間に入ると一人で待たされていたフェイトがほっとした表情になった。 理由を聞いてみると、見知らぬ家で所在なげに放り出されるのは少々居心地が悪いとのこと。 「ネルさんの顔を見てほっとしたよ」などと言われると、かぁっと顔が熱くなる。
 彼は何気ない一言で女心を揺れ動かす。 意図的にやっていることではないのだから怒る訳にもいかないが、 相手を選ばず全ての人間に対してこうなのだから随分とヤキモキさせられるものだ。 こんな男とずっと一緒にいたのだからソフィアが彼に惚れ込んでしまうのも無理ないことだと、今なら解る気がした。
 コンコン、と扉がノックされた。ネルが「どうぞ」と声をかけると彼女の母であるリーゼルが入ってきた。 ネルとは違った雰囲気の小柄な女性はしずしずと彼らの座っている長椅子の方へやってきたのだが――。
「……っと、あら、あららっ」
 長いスカートの裾を踏みつけてしまったらしく、そのまま前に転倒。 とっさにフェイトが支えなければ絨毯じゅうたんと顔が激しくお近づきになっていたはずだ。
母様かあさま、危ないから気を付けてくださいといつも言っているでしょう」
 生まれて以来の付き合いになる娘は母の失態に容赦というものがない。 それどころかフェイトの手をしっかり握っている様子が気に入らないみたいだった。
「あらあらまあまあ、助かりましたわ〜」
「あ……いえ」
 事故とはいえ、女性の手をしっかり握り締めていることに気がついたフェイトは慌てて手を離した。 それとなくネルからの冷たい視線が感じられ、心の中で全力で言い訳をしておいた。
 そんなネルとフェイトの仮想愛憎劇バーチャル・ラブバトルに気付いているのかいないのか、 ネルの母親はにこにこと微笑んで一礼。
「初めましてラインゴッドさん。ネルの母のリーゼルと申しますわ」
「あ、初めまして。フェイト・ラインゴッドです」
 フェイトは途端に緊張した。彼はネルに「両親に紹介したいの」などと言われたつもりになっている ――正確にネルの言葉を再現すると「休暇をもらったんだけど、一緒に来るかい?」だったのだが。 ここで自分が粗忽な振る舞いをしようものなら――そう考えただけでも動作がぎこちなくなってしまうのだ。
 そんな彼の口から飛び出した言葉はというと。
「あ、あの。お義母さまとお呼びしてもいいでしょうかっ?」
「なっ、何を言ってるんだいフェイト! か、母様っ、これはその」
 突然のフェイトの暴走発言に思わずネルは声を上げてしまう。
「あら、わたくしは構いませんよ。ネルちゃんが男の方をお連れするなんて初めてですもの。 これってそういうことなのでしょう?」
 にこにこにっこり。おっとりとした態度でリーゼルは娘の狼狽っぷりを楽しんでいた。
「うちはネルちゃん一人しか子どもができなかったから、男の子ができたみたいで嬉しいわ。 早く孫の顔を見せて頂戴ね」
「はい、頑張ってたくさん産みます!」
「フェイト、あんたは産めないだろうっ!」
 母親とフェイト、この二人に囲まれていると封魔師団の隊長も形無しである。
「ネルちゃんとラインゴッドさんの間の子どもだったら紫色の髪の子が生まれてくるのかしら……ねぇ?」
「僕としてはネルさん似の女の子が欲しいですね〜」
「あら、わたくしはラインゴッドさんみたいな男の子がいいわ〜」
「あ、あんたたち……」
 避けて通ることのできない道だが、フェイトと母を対面させたことは失敗だったのではないだろうかと思えた。 何だって二人して子どもの話で盛り上がっているというのだ。 普通はその前の結婚式やお披露目のことが話題に上るものではないのだろうか?
 甘い新婚時代を過ごすためにも結婚後すぐは母親と同居するのは止めよう、そう堅く誓ったネルであった。

 ぱちぱちと暖炉の炎がはぜる。
 自分の髪のように紅い火をぼんやりと眺めながら、ネルは居間でくつろいでいた。 蜂蜜を少々垂らした温牛乳を口に含むと心が落ち着く気がする。 使ってある蜂蜜の種類――蜂蜜というものは蜂が蜜を採集する花の種類によって色々と味に変化があるのだ――と、 牛乳との配分。これを飲むと家に帰ってきたという実感が湧いてくる。
(こればっかりは家じゃないと味わえないものだね……)
 夜も遅い時間であり、フェイトは今頃、彼のために用意された客間で休んでいるはずだ。 彼のいる客間のある方向を見つめると、いつものネルからは滅多に見ることができない優しい笑顔になった。
 すると突然、目の前が真っ暗になった――いや、誰かが彼女の目を手で覆ったのだ。
「母様……」
「ネ〜ル〜ちゃんっ、母様と一緒にお喋りしましょ」
 いつの間に忍び寄ってきたのやら。振り返るとネルよりも頭一つ小さい母の子どものような笑顔があった。 普段は何も無い所で転んだり、高い所にある物を取ろうとして背伸びをしているうちにひっくり返ったりする人なのだが、 こういう時ばかりはありえない動きをするのである。
「お菓子もたっぷり持ってきたのよ、それもネルちゃんの好きなものばっかり」
「よく覚えてるね……母様は」
 いい歳をして少女のようにふわふわとした母を見て、盛大な溜息をもらした。 それでも見事に自分の好みの品が盛られている菓子鉢を見ると悪い気はしない。
「ふふふ、母様はネルちゃんのことなら何でも知ってるのよ〜。 それの味付けの好みだって小さい頃から変わってないでしょう?」
 リーゼルはネルが手にしていた磁器の碗を指さした。 ネルのお気に入りである温牛乳は母の作ってくれるものなのである。
「まぁね。こればっかりは家のが一番だよ」
「クレアちゃんも家に遊びに来た時はよく飲んでいたわよねぇ……」
 リーゼルはネルの背後から彼女の座っている長椅子へとやってきて、ちょこんと腰掛けた。 幸いなことに途中でつまづいたりしなかったので菓子類は無事にテーブルの上に到着。
 ネルはその中からレモンの風味を利かせた焼き菓子をつまむと、さっそく口の中に放り込む。 サクサクとした歯ざわりと程好い甘味が何とも言えない。 これもネルにとってはかけがえのない我が家の味である。
「それでぇ、ネルちゃんとラインゴッドさんはどこまでいってるのかしら〜?」
「けほっ」
 母からの先制攻撃にネルは思い切りむせた。何度か咳き込んで飲み物を口にし、やっとのことで焼き菓子を飲み下した。
「母様、私とフェイトは――」
 そう口にして、彼女は自分とフェイトの関係について上手く言えないことに気がついた。
 お互いに気持ちを打ち明け、好意を寄せ合っているのは間違いない――急に心変わりでもされない限り。 付き合っている、という状態であるのも確かだ。周りからもそんな風に見られている。 頼ったり、頼られたり。お互いが支えになっていて……いや、自分の心の大半を占める存在であるとしか言えない。 好きだとか、凛々しいとか、ひと言で言い表せるような単純なものではないのだから。
 だが、そこから先はどうなのだろう? 自分から結婚を申し込んだり、逆に申し込まれたりはしていない。 まだ早い――という感覚は自分にもあるが、自分よりも若いフェイトはどう考えているのだろう。 昼間は母とあんな会話を繰り広げていたが、それは母の雰囲気に巻き込まれてのことかもしれない。
 まさか、まさか……。
(まだ結婚なんて全然考えてなくて、それに至るまでの間で付き合う女の一人としてしか見られていないとか?)
 嫌なことを考えてしまった。
「ねえ、ネルちゃん」
「……何?」
 悪い想像をし過ぎたあまり、すっかり顔色が悪くなったネルは母の顔を見た。
「母様とネーベルさんの馴れ初めについて教えてあげる」
「え……?」
 父と母の結婚に至るまでの話。
 軽く想像してみて――全然思い描くことができなかった。
 あの寡黙な――悪く言えば無愛想な――父と、子どもがそのまま大きくなったような母。 どこをどう弄れば結婚するに至ったと言うのだ!
 そんな娘の様子を察したのか、リーゼルはくすくすと笑いながら語り始めた。

*  *  *  *  *

 そう……あれはもう何年も昔のことね。まだお城でお勤めをしていた頃のことよ。
 わたくしに結婚話が持ち上がったの。 お相手は母様の実家の遠縁にあたるお家の息子さん。――ええ、もちろんネーベルさんではありませんよ。 母様がまだ若い頃は今よりもずっと結婚や男女の交際に関してはうるさく言われていたわ。 だから当人同士が知らぬ間に話が進むなんてことは当たり前にあったの。 ネルちゃんたちの世代では信じられない話でしょうね。 まあ、それでもさすがに結婚当日に知らされるなんてことはありませんでしたけど。
 でもね、ある日突然、母上――ネルちゃんのお祖母様ね――に、 「明日、結婚を前提としたお見合いをするから」と言われたの。
 それで実際にお会いして……良さそうな方だなぁって感じました。 うーん、そうね……少なくとも悪い人には見えなかったわ。 母様、昔からくじ運だけは良かったみたいなの。 親が用意したお見合い相手でも素敵な人に巡り会えたようね。
 そしてその後も数回お会いして、次の春がやってきたらお式をあげましょうってことになったわ。
 ふふっ。……あら、ごめんなさいね。昔のことを思い出したら可笑しくなっちゃって。
 今のネルちゃんはネーベルさんみたいにあちこちを駆け回っているけれど、お城の女官たちの様子だって知っているでしょう?  女の子って噂話が大好きなのよね。ま、わたくしも人のことはあまり言えないけれど。
 当然、わたくしの婚約話も噂になったわ。お仕事中は同僚の皆によくからかわれましたっけ……。 皆ね、こう言うの。リーゼルがいるから絶対に大丈夫だと思っていたのにぃ〜って。 ひどい話でしょう? 母様は結婚が一番遅いって思われていたみたい。 それでも皆、好意的な見方をしてくれていて、ちゃんと祝辞を言ってくれたわ。
 ネーベルさんにお会いしたのは、そんな風に祝福されたり冷やかされたりしていた時のこと。 例年よりもぐっと冷え込んだ冬の……。

 わたくしは図書室から借りた資料を戻しに行った帰りでした。 廊下を歩いていたら急に男の人に呼び止められたの。ええ、その男の人がネーベルさんですよ。
 ちゃんとお言葉を交わしたのはその時が初めてでしたけれど、 ネーベルさんはすでに女官たちの間では名が知れ渡っていましたもの。 わたくしもネルちゃんと同じ赤毛を拝見した時、この方がネーベル・ゼルファーさんなのね――とすぐに気が付いたわ。
 そのネーベルさんが何のご用かしらって思ったわね。 お城勤めのわたくしと隠密に所属しているネーベルさんには接点なんてまるでなかったんですもの。 だからまた何か知らないうちにとんでもない失敗でもして、 あちこちの人々に迷惑でもかけたのかしらってドキドキしてしまったわ。 遅い時間で辺りに人は居ないでしょう、それにネーベルさんったらむすっとした怖い表情しているし。 これは絶対に怒られるなぁって。
 そうやってわたくしがうつむいていると、ネーベルさんがいきなり話し出したのよ。
「……おい、俺はネーベル・ゼルファーだ」
「それは存じておりますけれど……」
「む、そうか……」
 何の脈絡もなく自己紹介をするものだから、ネーベルさんが何をしたいのかさっぱり判らなくなった。 でも、怒られる訳ではないみたい……と気が付くと随分と安心したわ。
 そうしたらね、安心したらしたで急に笑いがこみ上げてきてしまって。 ほら、ネーベルさんって見た目はすごく端正な感じで、 冷静クールな雰囲気をまとっているでしょう?  それなのにお話する方は全然ですし、突飛な行動が子どものようで本当に可笑しかったんですもの。
 わたしくしが急に笑い出すものだから、ネーベルさんは思い切り困惑したみたいね。 とっても困った顔になって……でもそれが良かったみたい。 かえって緊張が解けた様子だったわ。表情がいくらか柔らかくなって、ちゃんとお話してくれるようになったの。
「こんなところでは風邪をひいてしまいますから、お話があるのなら場所を移しましょうか?」
「いや、ここでいい」
 ネーベルさんは廊下の一角にある長椅子にわたくしを座らせると、ご自身もそこに座りました。
「あー、その、何だ。知り合いに聞いたんだがな、お前……結婚するのか?」
「まあ……そんなにあちこちに知れ渡っているのですか?」
「いや、王城に勤めている知り合いが――そんなことはどうでもいいんだ。結婚、するんだな?」
「年が明けて春になったらお式をしましょう、ということになっていますわ」
 その時はネーベルさんがどうしてわたくしの結婚話を気にするのか解らなかったよねぇ……。 変な人、とばかり思っていたわ。
「相手とは見合いで知り合ったとか」
「ええ。よくご存知ですのね」
 わたくしがそう尋ねるとネーベルさんは少しむっとした顔になりました。 そして小声で「知らないとでも思っているのか?」と呟いた……。
「そいつのことは気に入っているのか?」
「そうですわね……正直、あまりよく存じ上げておりませんの。何度かお会いしただけですから。 でも優しい笑顔の方でしたのよ」
「その程度の縁で結婚を決めるのか、お前は?」
 ネーベルさんは声を少し荒げました。
「もう、ゼルファー様ったら先程から質問ばかりです。 わたくし、子どもの頃からくじ運は良い方でしたの。だから大丈夫ですわ、きっと素敵な家庭が築け――」
「ならばその引きの強さを信じて俺に賭けてみろ。そやつの許へ嫁ぐより幸せにするぞ」
「え……? ――んんっ」
 人間、驚くと頭の中が真っ白になるものなのね。 ネーベルさんに突然、接吻キスされた時は何が何やら……ただただ驚いているだけだったわ。
 でも初めての接吻があんな風に終わってしまうなんて、少し残念。 心の準備も一切なしで雰囲気なんて全然感じられなかったんですもの。

*  *  *  *  *

「その後、ぼーっとしている間にネーベルさんに運ばれちゃったの」
 何処に――とは言わない。
「うふふ、その時の成果がネルちゃん」
「――――かはっ!」
 ブハ――ッとネルはお茶を噴いた。なお、このお茶は話しながらリーゼルが淹れてくれたものである。
「何で、そんな、手の早い」
 衝撃的な事実を聞かされたネルは上手く言葉を繋げることができない。 ぜぇぜぇと呼吸を乱れさせながらも指摘すべきを指摘した。
「だってね、体格に腕力、それから武術の腕前、どれもネーベルさんの方が上でしょう?  母様としてはあれよあれよとことが進むのに身を任せるしかないじゃない」
「いや、だけど――」
 声を上げるとか、涙ながらに訴えるとか。何かしらの抗議行動があってもよいのではなかろうか。 それとも父が無理やり――?
(いや、まさかそんな……)
 ネルは頭をぶんぶんと振って悪い想像を追い出した。 夫婦仲は良かったはずだから結果的には問題なかったのかもしれないが、 いくらなんでも自分の父親がそういう人間であるというのは勘弁してもらいたい。
「母様はあの時、ネーベルさんに一目惚れしちゃったのかもしれないわね。 ほら、あの人って言葉少なだけど目ですごく訴えてくるでしょう?  じっと見つめられて、あの人の中に引き込まれてしまったのかも――後々になってそう考えたわ」
「……まあ、それならそれでいいんだけど」
 ネルはこめかみの辺りを揉みほぐした。
「それからネーベルさんは母様の実家にかけあってくださってね、わたくしとネーベルさんは結婚することになったのよ。 母様の婚約者だった方には本当に申し訳ないことになってしまったけれど……。 しばらくしてからその方も良い方を見つけて結婚なさっと、風の噂で聞いたわ。 それでも疎遠なままね、あちらのお家とは」
 ほとんどまとまっていた話を蹴ったのだから、それはそうだろう。
「ネルちゃんが可愛く生い立ってくれなかったら、実家とも疎遠なままだったかもしれないわ。 わたくしの母様も孫可愛さの感情だけは抑えられなかったようね」
 だからネルちゃんには感謝してる――とリーゼルは付け加えた。
「それにしても意外だったよ、父様と母様がそんな出会い方だったなんてさ」
「そうねぇ……母様とネーベルさんが結婚することを聞いた人も皆そう言ったわ。 先に別の話がまとまっていただけに余計に」
 ほわっとした子どもみたいなリーゼルが二股をかけるようなことをするとは思えないだろうし、 周りの人々としてはかなり意外に思ったことだろう。
(父様は前もって母様のことを知っていたみたいだったけど、一方的に見てるだけの段階でどこに惚れたんだろ?  何にもない所で転びまくる様が憐れに思えたとか――まさか、ねぇ?)
 気になって仕方がない。こんなことなら父の生前に無理にでも聞き出しておけば良かったと、ネルは後悔した。
 顔を上げて母の方を見ると、いつになく真面目な表情で彼女の方を見ていた。
「だからね、ネルちゃん。どうしようもなくこうしたい、ああしたいって時―― 好きな人への想いが抑えられない時は思ったままに行動してみると良いんじゃないかしら?  きっとラインゴッドさんはそれを受け止めてくれると思うわ」
「母様……」
 ふわっと微笑む母に何て答えれば良いのか解らない。
 母の身体は自分よりもずっと小さい。でも、今の自分はそれよりも小さくなったように感じられた。
 膝を抱えて顔を俯けると、不思議と涙がこぼれてくる。 小さく震える彼女の背中をリーゼルはいつまでも撫でていてくれた――。

 コンコン――とフェイトが使っている客間の扉をノック。入るよ、と声をかけて中に入った。
「やぁ……ネルさん。ごめん、何か寝ちゃってたみたいで」
 寝台の中からフェイトが這い出してきた。本人の自己申告通り寝ていたのだろう、髪が少々乱れている。 照明ランプをつけたまま寝ていたらしく、火が弱々しく部屋の中を照らしていた。
「フェイト、その……隣、いいかい?」
「? いいよ」
 ネルは緊張しながらフェイトの傍らにやってきた。 いつもならヘンに意識することもなく隣に立つことができるのに、今日ばかりは動作がぎこちなくなってしまう。 波間に浮かぶ小船のような不安定さを押し殺して、何とか彼の隣に座った。
「ネルさん、どうかしたの?」
 さすがに身近にいるフェイトはそれによく気が付く。 呼吸や足運びももちろんだが、彼女の纏う施力オーラが乱れていた。 それに何よりも――
「泣いていたの? 目許めもとが腫れてる……」
 フェイトは顔を近づけてネルの顔を覗き込む。そして躊躇ためらうことなく指で触れた。
 撫でられるように優しく触れられてネルの鼓動が一瞬で速さをました。
 そして彼女は思う。
 フェイトはいつもこうだ――と。 容易たやすく彼女の領域テリトリーに入り込み、 心の湖面に波紋を生じさせる。 その度に自分の心は激しく揺れる。
 好きな相手なのだから当然だと言われればそれまでだが、彼は独特の雰囲気を持っているように思える。 誰の心の中にでもするりと入り込んでしまう。だから自分に限らず、彼に想いを寄せる女は多い。 自分が彼に一番近しい人間であるという自覚はあるが、誰にでも優しい彼に嫉妬の感情を生じさせられることもしばしだ。
「フェイト――あんたは、あんたは一体何なんだい……」
「……えっ?」
「私はこんなにも――」
 そこから先が続けられず、ネルは黙り込んでしまう。
「僕はネルさんのお婿さん。ネルさんさえよければ、だけれど」
 ネルが抱いてしまった疑問への答えはとてもあっさりと与えられた。 いっそ腹立たしいぐらいにあっさりと。
「昼間の続きはもういいさ。私はあんたの本心が聞きたい」
「冗談とか、いい加減なセリフだとか、そんなつもりはないんだけどなぁ」
 ひどいよネルさん、とフェイトは憮然とした表情になった。
 冗談ではないと聞かされたネルはかあっと顔が赤くなるのを感じた。そしてついついトゲトゲした物言いになってしまう。 こんなのではいけないと考えてはいるのだけど。
「…………もうっ。ちゃんと言ってくれなきゃ判んないに決まってるだろう」
「そんなの恥ずかしくて何度も言えないよぉ」
「――バカ」
 それでも暗に愛してると言われたネルの気持ちに灯った炎は消えない。 このままではどうにも胸中の想いが出口を求めて暴れ出してしまいそうだ。
 ちゃんとした言葉で示してくれないのなら、態度で示してもらうしかないね――彼女はそう考えた。
 普段と明らかに違うネルの様子にフェイトはどうしたものかと困ってしまった。 昼間のように緊張した状態ならいざ知らず、普段の自分の精神状態でいる時にクサいセリフなどなかなか言えはしない。
 黙りこくってしまったネルを心配そうに見つめた。
「ネルさん……その〜、怒ってる?」
「…………」
「ネルさ――うわっ、んっ」
 フェイトはネルに押し倒され、そのまま唇を塞がれた。 ネルの体重が自分にかかり、部屋着を身に付けているために彼女のメリハリの利いた身体つきを全身で感じる。 それに触発されたという訳ではないが、今夜のネルが無性に愛らしく感じられていたので彼女の身体を離しがたく思った。
「今日のネルさんはいつもと違うね。何だか可愛い」
「――それはいつもは可愛くないってことかい?」
「そうじゃなくって、違う面を見つけたかな〜ってこと」
「もう、あんたはいつも口が上手いんだから」
 ネルはうっすらと頬を赤く染めてそう言った。
 口で上手く伝えられないのなら、他の方法でだっていいはずだ――そう感じた。 そして自分はとことん父親似であるようだと苦笑い。
 髪の色や雰囲気のせいで昔から父親似だとはよく言われた。 仕事も同じだし、そんなものだと思っていた。だけど、まさか行動まで同じ傾向をたどることになろうとは。
「フェイト」
「うん?」
「浮気したらきつーいお仕置きするからね」
 ネルはにこりと笑うと再びフェイトに口付けた。


− Fin −



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