恋する蝶々

 自分の心臓が耳のすぐそばにまで来てしまったんじゃないかと思った。 鼓動が早くなるし、頬もちょっぴり熱い。顔は真っ赤になっているのだろうか?  もしあの人に酔っ払っていると勘違いされたらたまらないな、少し落ち着かないと……。
 こんなときは深呼吸よね、そうと決まればさっそく。
「すぅ――、はぁ――」
 ……どうなのだろう、自分ではあまりよく判らないや。 でも他のことに意識を向けたせいで落ち着いてきたような気がする……かも。

 あ、失礼しました。皆さんにはわたしがどうしてこんな状況になっているのか、ちっとも解りませんよね?
 わたし、ソフィア・エスティードと申します。今はティエーラ大学に通っている大学生なんですよ。 でもただの大学生とは少し違うみたい。 色々な事情があって紋章術士としての才能を開花させた上に、あれやこれやと危険な呪文まで使えるようになってしまったものでして……。 ですから、大学生稼業と紋章術士としてと二足の草鞋わらじを履いています。 バークタイン高校に通っていた頃とはうって変わった忙しさ。
 まあ、あの頃と違って今は世話を焼く相手がいなくなったからいいんですけどね……。
 あの2人、ちゃんと生活しているかしら? しっかりしているようで抜けているトコもあるしなぁ。 あ、またまた失礼しました。あの2人っていうのはわたしの兄のような存在の人と、彼の最愛の女性です。 フェイト・ラインゴッドとマリア・トレイターと紹介した方が判りやすいでしょうか?  あの2人は今では一緒に生活しているんですよ。 どこに住んでいるかっていうと……ごめんなさい、詳しく教えることはできないの。 お兄ちゃんたちの平穏な生活を守るため。でもでも、幸せに生活しているのは確かですから、どうぞ安心してくださいね。
 お兄ちゃんのディストラクション、マリアさんのアルティネイション。 どちらもとてつもない威力を秘めた力。 それだけにFD世界の人たちとやりあった後に、2人に接触しようとする人や勢力にはことかなかったんです。 平和利用にしろ悪用するにしろ、何かと使いみちが多そうですものね。
 もっとも2人と行動を共にしたわたしとしては、本人たちの深い葛藤かっとうも知らずによくそんなことが言えるなって考えちゃう。 強大な力を持つって、当人にしてみればすごく怖いことなんですよ。 しかもそれを彼らに与えたのがごく親しい人間であるとすれば余計に辛い。 理不尽りふじんな行いに対していきどおりを感じても、 それをぶつける相手のことを心の底から憎むことなんてできないから……。
 えっ? わたしはどうなのか、ですか? わたしは普通に生活が送れていますよ。 わたしの場合は2人とは力を得た時期が違いますし、目に見えるような質のものではなかったですから。 コネクションの力については居合わせた人間ぐらいしか気付いていないんですよ。 その当時はわたし自身も、自分が力を有しているなんて判っていなかったですしね。
 その後の日常に影響を与えたといえば、むしろコネクションよりも紋章術の方が……。
 道具も使わずに印と韻で色々とできてしまう紋章術士は何かとやっかいな存在。 だから事態が落ち着いて、わたしが主に紋章術でみんなを支援していたのが明るみに出ると、 わたしはなかば強制的に紋章術士の組合に登録させられました。 この組合は紋章術士の保護組織的な意味合いもあるし、紋章術士の友達なんかもできたので悪いことばっかりじゃないんだけど……。 どうにも釈然しゃくぜんとしないものがあったり。
 わたしたちの近況は大体こんな感じです。劇的な人生を送っているっていうのじゃなくてがっかりしましたか?  あんな体験をしてしまうと普通の生活っていいものだなって心底思うものですよ。
 この辺で冒頭に戻りましょう。わたし、これから重大な用事を控えているんです。
 上手くいくか、それともいかないか。勝率は8割以上あると思うんだけど……人生には絶対なんてないし。 ああっ、もう。こうなったら行動あるのみ!

 人気のない廊下を歩くと、コツコツと自分の足音が響く。
 今は3限目が行われている時間だから、ほとんどの人は講義棟の各教室にいて、 暇を持て余している人たちはこんな所でなく、過ごしやすいラウンジやカフェにいるだろうな。 教授の私室というか控え室である研究室が集まっているこのエリアをうろつくような酔狂すいきょうな人間はいない。 部屋によっては中に人の気配が感じられるけれど、それが外に出てくることはないんだ。
 わたしはこの時間は授業がないし、これから会いに行こうとしている人も同様。 目的の部屋の前までくると、この大学に通い始めてから幾度もなくノックした扉を叩いた。
 扉の横には「215号室 ウィリアム・ミセッド助教授」と書かれた表札が掛けられている。
 ――コンコン。
「はぁーい、在室してますから面倒な用事のない人だけお入りくださーい」
 いつものように覇気はきが感じられないのほほんとした声が返って来て、自然と口元がほころぶ。
 わたしはこの声が好き。誰が戸を叩いても同じ内容の型どおりの応答なのだけれど、毎回じっくりと耳で味わってしまう。
 声だけじゃなくて、直接対面するために中へと入る。
「失礼します♪」
「こんにちは、ソフィアさん。丁度いいところに来てくれました、今日は渡したいものがあって――」
 窓からの陽射しで部屋の中はぽかぽかと暖かい。 だけどこの部屋の雰囲気が暖かい理由はそれだけじゃない、絶対に部屋の主によるものだと思うんだ。 その人の放つオーラとでもいうのかな、とにかく側にいるとこちらまで朗らかな気分になるの。 どーして友人たちはこれを解ってくれないかなぁ……。
 あ、訂正。わたしだけが解っていればいいや。
「――って聞いてます? どうしたんですかソフィアさん? あ、ひょっとしてヘンなものでも食べちゃいました?  料理が達者なあなたにしては珍しいですねぇ。それなら研究室より医務室の方が……」
「……違いますっ!」
 ぼーっと黙っていたわたしがいけないのかなぁ。一応、見惚みとれていたりするのだけど。 そうやって観察していたら、今日はいつもより気を使った服装をしてるなって思った。 仕事用じゃなくて外出用の洒落しゃれたネクタイをしているし。
 あぁっ、それにしてもこんなおマヌケなやり取りをしに来たんじゃなくて、わたしはここに――。
 どきどきどきどき。
 目的を思い出したとたん、脈が激しくなるのがぶり返してしまった。 ウィリアムさん――ミセッド先生のことね――が心配そうにこちらを見ている。わたしの方を、じっと。
「あ……その、えっと」
 言いたいことがあるのに言葉にならない。口の中が渇いて、舌が張り付いてしまったかのような。 わたし、昔から緊張するのってニガテなのよー。
「本当に大丈夫ですか? 顔も赤いし呼吸も苦しそう、熱でもあるのかもしれません……」
 ――うきゃあ。
 心配してくれた先生が、いつになく真面目な表情でわたしの額に手を当ててくれた。 嬉しいんだけど、ますますどきどきしてしまう。 うっ、わたしったらこんな状況下でも、たまに見せる真剣な顔もいいなぁって考える余裕があるのね。 それを喜ぶべきなのか、それとも恥じるべきなのか……。
 このままじゃいつまでも進展しないよね。ここらでキメないとっ。
 わたしはうつむいていた顔を上げ、ウィリアムさんの方を見る。そして覚悟を決めると口を開いた。
「先生――いいえ、ウィリアムさん言いたいことがあります」
「はい。何でしょう?」
「け、結婚してくださいっ!!」
 言ったよ、言っちゃったよ――っ。学内で“動じない男ナンバーワン”の評判をもつこの人でもさすがに驚いているみたい。
「ダメです」
「――え」
「あなたは今、大学生。その本分は学業にあるのですよ。 私はこれでも学者の端くれ、学問から外れるような行為は感心できません」
 …………。
 ――がつん、と何かで殴られたような感覚。足元が急に不安定になって世界がぐらりと傾いたような気がしました。
 ははっ、そうだよね。先生から見ればわたしは学生なんだよね……。 特別に親しい間柄あいだがらにはなれても、結婚とかの対象にはなれないんだ。
 最初は大学の講義で関わるだけの関係だった。 それからフェイトお兄ちゃんの一件に協力してもらって、ただの大学生と助教授以上の仲になったんだと思う。 その頃はまだ親しい友人って感じだったけど。
 ウィリアムさんはいつものほほんとした感じだけど、そのほんわかした雰囲気はとても居心地が良かった。 学内で会った時も今までは軽く会釈をする程度だったのに、いつしかわたしの態度は変わっていった。 会えば言葉を交わし、歩いている彼の姿を目で追うようになっていたの。
 用もないのに先生の研究室に出入りしたり、学校の外で会うようになったり。 共に過ごした時間を重ねるにつれ、わたしの想いは募っていったのかな……それも愛情という形で。
 そう、わたしはウィリアムさんのことを好きになっていた。 それは嘘偽りのない本当の気持ち。出会った当初こそはお兄ちゃんとマリアさんを見ているのが辛くて、 そこから安心できる場所へ逃げてる自分がいたと思う。 でも今は彼のことを考えているだけで幸せになれて、逆に苦しくて切なくてたまらない気持ちにもなるの。 これって愛してるって感情の表れだよね?
 先生はのんびりしていてもよく気のつく人。だからわたしの想いにだって気がついていてくれてるって考えていた。 そしてそれでもわたしと一緒に居てくれるってことは、先生もわたしのことを好きでいてくれてる、 愛してくれているからだって解釈してた。
 でも、それはわたしの勝手な思い込みだったみたい。あはは、あまりにも自分が情けなくて笑っちゃうよね。
 前に何かの本で読んだっけ、 「他人の心は変えられない、自分が変わるか、あきらめるかのどちらかしかない」って。 例えこっちがどんなに想っていても、わたしにはこの人の心は変えられない。そっか、そういうことなんだ――。
 ここしばらくずっと溜め込んでいたモヤモヤを全て吐き出したから、今はとてもすっきりした気分になれた――そのはずなのに。 自分でも制御できないままに熱いものがこみ上げてきて、視界がぼやける。
 泣いちゃダメだ。ここで泣いたら余計にこの人を困らせてしまうんだもの。 そう言い聞かせても身体はこっちの都合を理解してくれない。さっきまでそうしていたみたいに、ただただ俯いてしまった。
「あぁぁぁぁっ、ソフィアさんッ。泣くのはだめです、いけませんよ〜」
「うっく……そんなこと言われたってぇ」
 そりゃー誰だってイキナリ泣かれたりしたら慌てるよね。わたしだってそうだもの。
「あなた、少し誤解していらっしゃいます」
「……ほえ?」
「私はあなたに渡したいものがあるって言ったのを覚えていますか?」
 そういえばそんなことを言われたような気もする。でも今日はそれどころじゃなかったし、覚えてないのも無理ないって。
 何のことかと思わずウィリアムさんの方を見てしまうと、彼はデスクの脇に置いてあった鞄をごそごそと探っている。 やがて目的のものが見つかったらしく、それを手にしてわたしと向き合う。
「これなんですけどね……」
 それは手の平に載るくらいの小さな箱。白い紙でできていて、細くて赤いリボンが綺麗なラインを描ながら巻かれている。 リボンに印字された店名を見ればどこで買ったものなのか見当がつく。 おそらく街の中央通りに面した百貨店デパートに入っているショップのもの。
「これ……?」
「はい、どうぞ」
 いつもののほほんとした表情で手渡されたそれを受け取ると、わたしはおそるおそる包装を解いていく。 買った店の名前と箱の大きさで中身の予測はついているけれど、それを目の当たりにするまでは期待と不安が半々。 う、またどきどきしてきたよぉ。
 開かれた箱にはベルベットで装飾された小さな箱が入っていた。うん、ここまでは予想通り。 さらにそれを開けると――中には銀色の輝きが一つ。
 さっきまでの涙とは質の違う涙が溢れてきた。喜びのあまり泣くなんていつ以来だろう?  今度は嬉しさで胸がいっぱいになって言葉が出ない。シルバーリングと先生の顔を行ったり来たりする感じで見てしまう。 すると彼は私の手から指輪の入った箱を取ると、指輪をわたしの指にそっとめてくれた。
「ふぇぇぇん、うれひぃよぉ。でもどうして? さっき結婚はダメだって言ったのに」
 左手の輝きを、至宝を見るかのように眺めながら問う。
「結婚と婚約は全く別の言葉じゃないですか。 今のあなたとの結婚はダメだと言いましたが、約束をしないと言った覚えはありませんよ」
 いたずらっぽくにこやかに微笑みながら、当然のことを語るかのように言われてしまった。
「ものごとのわずかな違いを些細ささいなものとして見落とさないように気をつける、 前に講義でちゃんと言ったはずなんですがねぇ……嘆かわしい」
 彼は天をあおぎ、大げさな身振りで泣き真似なぞを披露ひろうしてくれた。 抗議のひとつでもしたい気もするけれど、今回ばかりは許しておくことにしてあげよう。 今はそれよりもこの幸せを存分に味わいたいからね。
「ウィリアムさん大好き〜っ」
 そう叫びながらわたしは思いっきり彼に抱きついた。
「はぁ……ホントはもうちょっと渡す場所と時間を考慮してあったんですけどねぇ」
 彼はわたしの頭をポンポンと撫でながら、盛大な溜息をもらした――。

 えーっと、これは後で聞いた話。 ウィリアムさんはわたしをホテルの最上階にあるレストランに食事に誘ってくれて、 そこで指輪を渡してくれる予定だったとか。あはは……、どうにもせっかくの演出をぶち壊しにしてしまったみたい。 いつもと違って洒落た服装をしていたのはこのためだったのね。
 一生の思い出になるのに惜しいことしたなぁ。
 ま、思い出はこれからいくらでも作れるからよし!


― Fin ―


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