この手に小さな星光を

 アーリグリフ王国内のとある山中に三名の人間がいた。男が二人に、女が一人である。
「仕方が無い、今日は野宿だね」
 赤い髪の女性――ネルは後ろの二人を振り返った。
「ま、仕方ねぇか。今日はあいつらのせいで時間をくっちまったしな。俺はどこでも寝れる体質だから、別に構わねーぞ」
 そう言うと、クリフは適当な寝床がないかと付近を見回す。
 彼らはカルサアからアリアスを目指す途中であった。 まだ科学文明がそれほど発達していないこの惑星――より正確に考えるのであれば、この大陸――では、 人里を離れてしまえばそこは手付かずの自然である。人の行き来があるため踏み均されているが、歩くのは土がむき出しの道。 路傍には草木が生い茂り、中には触れただけで皮膚がかぶれるような毒草もある。 自然、その歩みはゆっくりとなる。
 さらに悪いことに、道行が捗らない理由として、生き物との遭遇が挙げられる。 彼らは今日の昼頃、怪物の群れと出くわした。幸いなことに小柄な獣であったため、三人が奮闘することで無事に切り抜けることができた。 だが、小柄ながらも俊敏な獣たちを倒すには、予想外に時間がかかったのだ。
 本来なら日暮れ前に小さな村に到着できたのだが、村に近づく前に夜の闇が山道を包んでいた。 疲労の問題もあるし、何より夜の山道は昼の山道以上に危険――ということで、ネルは山中で一泊する判断をした。
「アンタもそれで構わないかい?」
「ああ、僕も平気だ」
 最後の一人――フェイトはこくりと頷いた。

 適当な木陰を見つけ、獣と虫除けのために焚き火を燃やす。 幸いなことに近くに小さな沢を見つけられたので、飲み水の手配は心配なかった。 食事は携帯食料とたまたま見つけた食用の木の実、それから見つけた水だけという簡素なものだった。
 慎ましやかな食事に対し、クリフもフェイトも文句も言わず、大人しくしていた。 何しろイーグルは壊れてしまい、ミラージュと接触できるまでは現金もないままである。 ネルの存在がなければ、身分を保証することさえもできない。 ましてやアーリグリフの牢獄にいた時に比べれば、格段に良い状況なのだから。
 そんな二人を見ながら、ネルは意外さと頼もしさを感じている。
(坊ちゃん育ちに見えるけど、意外と根性すわってるじゃないか――)
 それが勘違いだとは露知らず、ネルは次のことを考える。
「疲れているとは思うけけど、交代で見張りながら寝るよ」
「ああ、そうだな」
 クリフはあっさり頷く。
 こういった経験のないフェイトは、少しばかり驚き、同時に納得する。
 ここは地球でもリゾート地でもない。アーリグリフの領内であり、怪物もいる山中。危険なのだ。
「順番はどうしますか?」
 フェイトはネルに尋ねる。
「そうだね……まずはフェイト、アンタだ。それから中番は体力がありそうなアンタ。最後は私がやるよ」
 フェイトがこういった状況に不慣れであることを見抜いたネルは、その彼を一番目にし、交代した後は翌朝まで寝れるようにしたのだ。 自分を最後に持っていったのは、早めに起きて出立の準備もしておくつもりだったからである。

 小さくなった焚き火を見つめながら、フェイトはともすれば眠りそうになる自分を叱咤していた。 ゲームをするために夜更かしをした経験はいくらでもあるが、 日中にあれだけ身体を動かした後に、周囲を警戒しながらの見張りをするというのは始めてである。 心身の疲弊が著しく、遥か彼方にある自宅のベッドが恋しかった。
(父さんと母さんはどうしているだろう。ソフィアも独りぼっちで泣いたりしてないかな……)
 眠気を追い払うために考え事をしてみるのだが、思い出されるのはハイダで生き別れになった家族のことばかり。 大切な人たちの安否が非常に気にかかる。だが、不思議なことにあの突然の出来事が随分と昔のことのように思えた。 ハイダを脱出し、心優しい兄妹に助けられ、クリフとミラージュに出会い、この国へとやってきた。 牢に捕らわれ、ネルという女性に導かれて脱出し、ゲームの中でしか知らない巨大な生き物と戦い、山野を駆け回っている。 見たこともないものをたくさん見て、マンガの登場人物のような体験をした。 ハイダを離れてまだ一ヵ月も経っていないはずだが、毎日がとても濃密だったと思う。
「交代だぜ」
 よく眠っていた――とフェイトには思えた――クリフがいつの間にか起きていた。
「子どもはちゃんと寝ておけよ? 明日も朝から山道だからな」
「クリフはよく平気だね。これもクラウストロ人の特徴?」
 かなり眠そうにしていたらしい。そうクリフにしてされたフェイトは悔し紛れに言った。
「さあ、どうだかな」
 フフンと笑われた。
 どうやら体力勝負は完全にフェイトの負けのようである。
 フェイトはごろりと横になると、暗がりの中、クリフの横顔を見る。
(こうやって見ると、確かにクリフは大人の顔してるよな……。場慣れしてる感じだし、強いし。ああ、眠い……)
 昼間の登山と戦闘の疲れもあり、フェイトはあっという間に深い眠りへと落ちていった。
 それはとても安らかな眠りであったが、嵐の前の静けさに過ぎないことを彼はまだ知らない――。

 太陽の光を感じてフェイトは起きた。雲ひとつ無い良い天気である。
 傍らを見るとクリフはまだ寝ている。
 太陽は既に高いところにあった。昼も近い頃なのではないだろうか?
(ネルさんは……?)
 寝起きの朦朧とした意識の中、付近を見回す。
(……?)
 横たわる、小さな人影。
 特徴的な赤い髪が風にそよいている。
 フェイトは急に脈が速くなるような感覚の中、その人影を揺り起こした。
(まさかまさかまさか!)
「う……ん……」
 フェイトの腕の中で、小さな人は面を上げる。
 前髪に隠れていた顔があらわになり、瞼の間から緑の瞳が見えた。
「ネ、ネルさんっっっ!?」
 フェイトの叫び声が木々の間に木霊した。

「この惑星の人間は急に縮むモンなのか?」
 フェイトの絶叫に起こされたクリフは、5歳くらいと思われる小さなネルを抱き上げた。慣れた手つきである。
 小さなネルはきょとんとした様子で、つぶらな瞳でクリフを見つめていた。 大人のネルが美人であるだけに、なかなかの美幼女である。
「おじしゃん、だぁれ?」
 小さな唇から、可愛らしい声が紡がれる。
「オレ? オレは“おじしゃん”じゃねぇ。クリフっていうんだ」
「クリフ?」
 小さな子どもに対して満面の笑みで接するクリフ。その様子を見たフェイトは……
「ねえ、まさかアンタ、ロリコン?」
 幼女に頬擦りするマッチョ男の姿を想像し、げんなりした表情である。
「馬鹿、そんなワケあるか。オレん家は下に弟や妹が多かっただけだ。 師匠んトコに出入りしてる時も、クォーク作ってからも子どもガキはその辺をうろちょろしてたしな」
 子どもの扱いに慣れているだけだ――と言った。
「ならいいけどさ……」
 そう言ってフェイトも小さなネルをまじまじと見た。
(……可愛いなぁ)
 ふつふつと胸に湧いてきた感想がそれだった。 小さい子ども特有の表情はとても稚く愛らしい。そして邪心というものが一片もない。 ありとあらゆる災厄から保護してあげたくなる。守ってあげたい、無償の愛とはこのことか――と、彼は一気に考えた。
「ネルちゃん、僕はフェイト」
 にこにことしながら小さなネルに話しかけた。
 小さなネルは小首をかしげながら、彼の名前を復唱する。
「僕のことはフェイトママと呼んでね。あっちのはクリフパパだよ〜」
「はぁ!?」
 非常にゆるみまくった表情のフェイトがとんでもない発言をしたため、クリフは呆然とした表情になる。が――
「フェイトママにクリフパパ!」
 とても嬉しそうにする小さなネルには敵わなかった。
 数十秒ばかり眉間に皺を寄せ、大いに悩んだのだが――
「ちくしょう、オレがパパだ――っ」
 そう叫んで、小さなネルを抱きしめたのである。

 小さなネルは大人の頃の記憶を全く持ち合わせていなかった。 さらに本当の両親や知り合いのことも覚えていないようで、自分の名前だけは覚えていたが、まるで記憶喪失の人間のようである。 しかし、生活に必要な習慣といったことや、動作についていは問題なく、平均的な5歳児よりも賢いくらいだった。
 そんな彼女を連れての旅は非常に楽しいものであった。 何せ今までは、とびきりの美女ネルがいるとはいえ、殺伐とした逃避行だったのである。 それに比べ、可愛らしい子どもの世話というのは母性本能――男性であるフェイトに元々備わっているのかどうかは不明だが―― を刺激されたフェイトにとっては充実した毎日に他ならない。
 もっとも、クリフとフェイトの「どっちが一緒に○○――就寝だったり、入浴だったり――するかバトル」は 日々、熾烈を極めたのだが。
 苦労の末にアリアスに到着した時には、すっかり父クリフ、母フェイト、娘ネルといった状態であった。 それがこれから到着する村でとんでもない災厄を招くことになるかも知らずに――

「なかなか立派な屋敷だな」
 アリアスの村の門をくぐり、戦時下ということもありひっそりとした家並みの間を通り抜け、領主屋敷へと彼らはやってきた。 何故、領主屋敷を目指したかというと、大人のネルがここである人物と面会する予定だったからだ。 アリアスの村でクレアに――彼女がそう呟いていたのを、クリフが耳聡く聞いていたのだ。
 アリアスの村に到着し、近くにいた人間に聞くとすぐに教えてもらった。 なんでも“クレア”は高名な軍人らしい。 そんな立場にある人間の場所が容易く判ってしまうのも問題な気がしたが、 今日ばかりは素直に感謝し、“クレア”の滞在場所に向かったのだ。
「すみませーん、クレアさんって人に会いたいんですが〜」
 礼儀作法の欠片も無いフェイトの声が門前に響く。
「馬鹿、そんな訪問の仕方があるか。 こういうところで、しかも相手が軍人さんとなりゃ、格式ばった挨拶ってのがだな……」
「お待ちしておりました、どうぞお入りください」
 珍しく真面目な顔でクリフがありがたい説教を垂れようとしたら、突如、門扉が開き、中から案内役と思しき男性が一名出てきた。 年の頃は三十ぐらいだろうか。 穏やかな微笑を湛えていたが、クォークとして長く経験を積んできたクリフには、 その男が穏やかさの中に氷塊の如き鋭さを抱えているように感じた。
 それとなくフェイトと小さなネルを庇う位置に身体を移すと、十年来の友人の家を訪問するような気楽さで足を進める。
「そんじゃー、上がらしてもらうぜ」
「どうぞ。我らの長が奥で待っております……おや?」
 男はフェイトが後生大事に抱き上げている小さなネルに目を留めたようだった。 だが、ほんの一瞬、顔をしかめただけで、何事もなかったように彼らを館内へといざなった。
(ぬぅ、僕の娘を見ておきながらメロメロにならないとは……奴はヘンタイかッ?)
 三十代の男たちの視殺戦はさておいて、フェイトは空気読めてない系のことを考えている。 だってウチのネルちゃんは可愛いんだもーん。

 男に導かれるままに屋敷の廊下を歩き、連れて行かれたのは立派な造りの扉の前であった。
「どうぞ、お入りください」
 男が扉をノックすると、室内から若い女性の声がした。 軍人である“クレア”は若い女性なのだろうか。 もっとも、ネルも若くしてかなりの地位にいたようだから、この世界では驚くほどのことではないのかもしれない。
 室内に入ってまず目に飛び込んできたものは、灰色の髪をした女性であった。 年齢はネルと同じくらいと思われる若い人間で、おそらく先ほどの声の主は彼女であろう。
 窓を背にしているため、逆光になっているので顔はよく判らない。 だが、紫のリボンを絡めたロングヘアが光を反射して、朝の湖面のようにきらきらと輝いていた。
「ありがとう、ヴァン」
「いいさ、面白いものも見れたし」
 そう言うと、案内役の男――ヴァンはくすりと笑った。 そして、フェイトたちを部屋のクレアの前に立たせると、自分は部屋の隅に移動する。
「面白いもの? あなた、まさかこの状況で遊んでいたのではないでしょうね?」
「違う、違う。ま、お前もすぐに判るさ」
 先ほどヴァンはクレアのことを“我々の長”と呼んでいた。 だが、二人の会話を聞いていると、上下関係というものが全く感じられなかった。 クレアよりもヴァンが年上といったこともあるようだが、それだけでは無いようにも思える。
 コホンと咳払いをし、気を取り直したクレアは改めて異邦人たちと向き合う。
 フェイトの主観では、クレアもネルに勝るとも劣らぬ美女であった。 咲き初めた花のようなクレアに対し、丁寧に磨いた宝玉のようなとネル――と、受ける印象は違っていたが。
「聖王国シーハーツ 光牙師団『光』の師団長を務めています、クレア・ラーズバードと申します。 そこにいるのは私の部下、ヴァン・ノックスと申す者」
「オレはクリフ。クリフ・フィッターだ。そこの蒼いのがフェイト・ラインゴッド。 といっても、もう名前くらいは知っているんだろう?」
 探るような問いかけに、クレアは否定の返事をしなかった。 本来、アーリグリフ方面を探る封魔師団『闇』の長が不在であろうとも、情報の伝達系統は生き残っている。
「ええ、失礼ながら……。 お二人とも現在この国がおかれている窮状は貴方もご存知ですね? 私たちは貴方たちの力を必要としています。 そのため、ネルに貴方たちと接触を持ってもらいました」
 フェイトたちは道中を振り返り、この国がアーリグリフと呼ばれる隣国と一触即発の状態であることを思い出す。 自分たちが脱出したこともあり、状況はちょっとした刺激で爆発する寸前だろう。
「貴方たちのことはカルサアの町まで見張っていました。ですが、そこで見失ってしまって」
「ああ、鉱山に入ったからな」
 その時のことを思い出し、クリフが頷いた。
「あの時は追っての目をくらます必要があったんだ。アーリグリフってヤツらだったか? そいつらがしつこくてよ」
「そうでしたか……よくぞご無事で」
 クレアは数瞬、思いを巡らせた後、意を決したという様子で言葉を続ける。
「聞きたいことがあります。ネル――貴方がたをアーリグリフから連れ出した女性は、どうしたのですか?  彼女は封魔師団『闇』の師団長にして、陛下の名代たるクリムゾンブレイド。私の一番大切な友人でもあります。 職務上はこういった個人的な感情を出すことは慎むべきですが、私は彼女の安否が気がかりなのです」
 とても真剣なクレアに対して、フェイトとクリフは顔を見合わせた。
(目の前にいるんだけど……)
(さすがにこんだけ変わっちまうと判んねーか)
(どうやって説明する?)
(ま、そのまんま説明するっきゃないだろ)
 目と目で会話をした二人は、少しばかり困ったような顔つきになる。 そして、先ほどからフェイトが抱えていた小さなネルを床に下ろした。
 小さなネルの紫色の瞳が不安げに揺れている。フェイトは彼女の背中をそっと押し、クレアの前に立たせた。
「この子がネル、だ」
「……はい?」
 端正なクレアの顔がちょっぴり崩れた。
「まあ、あれだな。急激な変化というやつだ」
「え、そんな……」
 席を立ち、小さなネルに近寄ったクレアは、まじまじとその顔を調べた。
(髪の色も、瞳の色もネルと同じ……面影もある、わよね?)
 生憎と彼女はネルと同い年である。そのためこのくらいの年頃の友人の顔をしっかり覚えてはいない。 漠然とした思い出はあるものの、幼い頃から今に至るまでずっと顔を合わせていたのだから、 彼女の印象と言えば、今――23歳の顔になってしまうのだ。
(――そういえば!)
 部下が先ほど言っていた“面白いもの”という発言を思い出し、音がしそうなくらいの勢いでヴァンの方を振り向いた。
 ヴァンは俯いていたるため、顔がみえない。しかし、肩を震わせていたので、どんな顔をしているのか容易に想像できた。 30歳の彼なら、小さい頃のネルの顔を覚えているかもしれない。 そして洞察力に優れたこの男は、フェイトらがここに来た時点で、それくらいの推測をしていたのだろう。
 間違いなく笑っている――!
「ヴァン! あなた判ってたわね〜っ」
「ははは、そう怒るなって。何となくそうかなって思っただけだよ」
 すたすたと小さなネルの前にやってきたヴァンは、ひょいと彼女を抱き上げた。 自宅にこのくらいの歳になる娘がいるため、慣れた手つきである。
「お嬢ちゃん、名前はいえる?」
 ネルはこくんと頷き、小さな唇を開く。
「……ネル。おじしゃんは?」
「おじしゃんはね〜、ヴァンって言うんだよ。ヴァンおじしゃんって呼んでね」
「うん!」
 はにかみながら微笑んだネルはとても可愛い。ヴァンはクレアを指差すと、彼女の紹介をする。
「あの珍妙な顔したおねーしゃんはね、クレアって名前。呼び捨てにして構わないからね」
「クレア……クレアしゃん?」
 幼いながらも呼び捨てはいけないだろうと考えたらしく、“さん”を付けて呼んでみた。 だが、どういうわけだろう。 彼女の心の中で“クレア”と呼び捨てにした時、何ともいえない不思議な感覚が生まれていた。
(うにゅ、なんでしょー?)
 彼女なりに考えてみるのだか、どうにもよく判らない。
 そしてそんな小さなネルを見つめるクレア。 彼女は気づかなかった自分に呆れ、この衝撃的な出来事をどう受け止めたものかと考えていた。
(可愛いわよね、小さいネルは)
 うんうんと頷く。
(こんなどこの馬の骨とも知れぬ輩に託すのは危険よね。そう、危険だわ)
 クレアはヴァンの腕の中にいたネルを受け取ると、先刻から成り行きを見守っていたクリフとフェイトから離れた。 そしてキッと睨む。
「今まで彼女の面倒を見てくれてありがとう。でも、もう結構ですわ。 彼女にはご両親もいますし、友人にしてクリムゾンブレイドの相棒である私が面倒をみるというのが当然。 以後、彼女の身柄は私が預かります!」
「お、おい……」
 クレアの発言はもっともだと思えるが、何しろ可愛い我が娘――のつもり――のことである。 おいそれと引き下がるワケにはいかない。何か反撃をしなくては……と彼らが思った、その時。
「フェイトママー、クリフパパー」
 両目を潤ませたネルがか細い声をあげた。そして、その声にクレアが愕然とした隙に、彼女の腕の中から脱出する。
「よしよし、怖かったねぇ」
 一見、何の邪心もないような様子でフェイトはネルを抱きしめた。 もちろん、ネルが彼の胸に顔を寄せている間に表情は一変し、タチの悪い勝利の笑みを浮かべている。
「まあ、何よりも本人の意思が大事だよな」
 クリフももっともらしい顔で言う。
「な、な、何ですって――! 私は認めないわよ、そんなこと」
 ツカツカと彼らの方に歩み寄り、クリフの胸倉を掴まんばかりの勢いでまくしたてる。
 ぎゃあぎゃあと言い争いをしている彼らを黙らせたのは、一人だけ冷静だった――傍観していたヴァンである。
「小さなネルちゃんの中で、パパとママは確定しているワケだ。そして、それを覆すことは彼女のためにも良くないだろう」
 判るな? と、クレアを下がらせた。
 すっかり怯えてフェイトに縋り付いているネルを見ると、クレアは頷くしかない。
「と、なるとだ。後は空いてる続柄を埋めるしかないだろう。その上で、ネルちゃんにどうしたいか聞けば良い」
「空いてる場所……お祖母ちゃん?」
 フェイトがボソりと呟いた一言にクレアは絶対零度の一瞥で応えた。 そのまま武器を取り出しての戦いになるのではないかというくらいに空気が冷える。が――
「クレアおねーしゃん」
 殺気のこもった視線を交し合う大人たちの間で、ぽつんと聞こえたネルの一言。
「それだわ!」
 ぐわしっとネルをひったくると、クレアは女神のような優しい微笑を浮かべる。
「今日からおねーさんと一緒に寝ましょうね。それからお風呂も入らないと……長旅で疲れてるわよね。 あと、服も新調しないと……」
「「ちょっと待てぃ」」
 ぶつぶつと呟くクレアを制したのは、クリフとフェイト。
「これからをどうするか決めるって話だったじゃないですか」
「ネルはどうしたいんだ?」
「おねーさんと一緒が一番よね?」
「何言ってるんですか、ネルちゃんと僕たちはずっと三人で仲良くやってきたんですからね!」
 ……喧々諤々。
 中立と思われるヴァンにネルを預け、相談する彼ら。 その話は延々と続き、終わりが見えそうに無かったので、ヴァンはネルを連れて外に出た。 話に夢中の彼らはちっとも気が付かない。

「さてと……少し疲れたよね。彼らはしばらくあのままだろうから、談話室でお茶でも飲もう」
 ヴァンの紳士的な申し出に、小さなネルはこくりと頷いた。 と、同時にお腹がくぅっと鳴る。
「厨房に行けば軽い食事もある。それを取って行こうね」
「うん!」
 ヴァンは屋敷の廊下をネルの手を引いて歩いた。
 ネルが素直に彼の後をついて行くのには、彼が過剰に子ども扱いしないというのがあった。 フェイトママもクリフパパも大好きだし、あのクレアおねーしゃんも放って置けないけれど、このヴァンおじしゃんはまた違った感じ。 優しく話しかけてくれるところはみんなも一緒。 でも、このおじしゃんは一緒にいて安心するというか、とても楽なきもちでいられるような気がするのだ。
 トコトコと移動してやってきた談話室は、どこか古ぼけた印象を与えるものだった。 屋敷ができてからの時間の経過のせいだろう。しかし、掃除が行き届いていたので不快さは少しも感じられない。
 ソファーに腰掛けると、小さなネルはヴァンおじしゃんと一緒に談話室でパンに野菜とチーズを挟んだものを食べた。 温かいお茶が入った茶碗は大ぶりのものだったから、彼女は両手で抱えて飲んだ。 それを見かねたヴァンは談話室の戸棚を引っ掻き回し、値の張りそうな骨董品の茶碗を見つけた。 ちょっとした衝撃でもヒビが入ってしまいそうな、繊細な細工がされた茶器である。 淡い色合いで草花が描かれ、取っ手の部分は蔦を意匠化してある茶碗は、ネルの目にもきれいなものだと映った。
 その茶碗を軽く布で拭くと、適当な量の茶を注いでネルに持たせる。
「これなら丁度良いかい?」
「うん、だいじょうぶ。ありがとう、ヴァンおじしゃん」
「気が利かなくてすまんね。ここは大人ばっかりが出入りするものだから、子ども用の食器は置いてないんだ」
 にこにこと笑顔でパンとお茶を平らげるネルを見守りながら、ヴァンは王都にいる妻と娘のことを想った。 うちの可愛いアリスは元気にしているだろうか? 二人で寂しく自分の帰りを待っているのだろうか……
「おじしゃん、ぐあいわるいの?」
 小さなネルが彼の顔を見上げて心配している。
「そ、そそ、そんなことはないよっ」
 愛しい妻と娘のことを想うあまり、彼の顔は非常にゆるんでいたのである。 それはもう、小さな子どもでも心配するくらいに。
 彼の仕事の相棒にして、一番の被害者である――もちろん、ヴァンには被害に合わせているという自覚は無い―― 女性の前でならともかく、この少女の前ではゆるみきった表情はいけないと悟ったらしい。 とっさに話題を転じる。
「おじしゃんにもネルちゃんくらいの娘がいてね。お母さん――俺の妻と一緒にお家で待っているんだ。 ほら、これが二人の絵」
 そういって、彼は懐から手のひら大の絵を取り出した。 絵の中では一人の女性が微笑みながら、小さな娘を膝の上に乗せている。
「ふ〜ん」
「こっちがイリュースで、膝の上にいるのがうちの子のアリス」
 彼は絵を覗き込んでいるネルに解説をする。その目つきはやっぱりゆるんでいたが。
「おじしゃんはふたりのこと、すき?」
 絵から顔を上げたネルが問いかける。紫瞳が切なげな色をしているのは気のせいだろうか。
「大好きだよ。おじしゃんにとって、かけがえのない人たちだから。 二人がいるから、二人に笑顔でいてもらいたいから、今日も明日も頑張ろうって思えるんだ」
「わたしのおとうさんも、そうおもっていた・・・・・・かな……」
 この質問になんて答えれば良いのだろうか。 長年に渡って光牙師団で働いてきたヴァンであっても、易々と答えを見つけることができなかった。 ただ、“もちろんだよ”と言うことしかできない。 王都では近所に住んでいたため、彼女の父であるネーベル・ゼルファーとは顔見知りだ。 口数はお世辞にも多いとは言えない人だったが、不器用に娘を気遣う姿には情がこもっていると感じられていた。
(――――!)
 ふとヴァンは、小さなネルの不自然な言動に気づく。
「今、君は――――」
 確か、“思っていた”と過去形で話していた。ということは、父が既にこの世の人でないことを理解しているというのだろうか。
 ヴァンは探るような目でネルを見る。
「……? おじしゃん?」
 先ほどの発言や、切なげな様子は微塵もない。 長い糸を三等分し、真ん中の部分と取り除く。そして右と左の部分を再びつなげたかのようだ。
「いや、何でもない」
 小さな子どもに無用な心配をかけるというのは彼の主義に反する。別の話題を持ち出して彼女の気を引くことにした。
「そうだ、そろそろクレアたちの様子を見に行こうか」
 食器をまとめ、ヴァンはネルの手を引いて談話室から出ようとした、が――
「おっと」
「うわわわっ」
 彼が扉をくぐった途端、廊下を全力疾走してきた人物とぶつかりそうなった。 器用に身体を捻り、突撃をかわす。
 そんな彼に対し、突撃してきた人物は何もないところで躓き、派手に転んだ。
 ヴァンは相手の腕を取り、ちゃんと立たせる。 そしてその顔を確認すると、抗魔師団『炎』――本来、この村の守護にあたる者たち――の一人であることに気がついた。
「こんなところで走ると危ないだろう。小さな子どももいることだし、第一、品がないよ」
「し、失礼しました! クレア様に急のご報告がありましたので」
 相手もヴァンの顔を見て、自分よりもずっと上位者であると気が付いたのだろう。 床に頭を打ち付けんばかりの勢いで、ペコペコと謝罪する。
「で、急な用件というのは何だい?」
「はっ。カルサア方面を見張っていた者より連絡が入りまして……」
 乱れた呼吸を整えながら、『炎』の団員は続ける。
「封魔師団『闇』のファリン様、タイネーブ様がカルサア修練場に捕らわれているとの事。 また、アーリグリフ王国はこの情報を積極的に流し、我らの動きを誘っているようでございます」
「ふーん、なるほどね。確かに彼女にとっては非常に効果的だ」
 ヴァンはネルの性格を思い出し、苦笑する。
「今はネル様がご不在の折、まずはクレア様にご報告をと思いまして」
「ああ、頼むよ。奥の執務室にいるからガツンと言ってやってくれるか」
 ヴァンの妙な言い回しに『炎』の団員はいぶかしげな表情になる。 しかし疑問を口にしている場合ではないと判断したのだろう、ヴァンの前で一礼すると奥に向かって走っていった。
 それを見送るとヴァンは足元にいるネルの様子の変化に気が付いた。
 小さなネルは彼の制服の裾をぎゅっと掴むと、幼い子ども特有の真剣さで訴えかけてきた。
「ヴァンおじしゃん、ふたりをたすけにいこう! いますぐ!」

 フェイトたちはカルサア修練場と呼ばれている建物を見下ろす丘にいた。 フェイトのおぼろげな記憶では、確かグラナ丘陵という地名だったと思う。
 フェイトの同行者は、クリフ、小さなネル、そしてクレアだった。 当初はフェイト、クリフ、ヴァンが行く予定だったのだが、 小さなネルがどうしても同行すると言った。しかし、クレアは彼女の幼さを理由に許可を与えず、大いにモメた。 ネルがならば一人ででも行くと言ったところで、クレアが条件付で折れた。 すなわち、ならば自分も共に行く――と。
 クレアの留守はヴァンが預かることになった。 フェイトたちが出立する直前、ヴァンはフェイトとクリフにこっそり耳打ちした。 “我らが師団長もネルちゃんのことを言えないくらい、周りが見えなくなることがありますから、助けてやってください”と。
 今回の彼らの旅は、初めてここに来た時よりもずっと短いものだった。
 アイレの丘とグラナ丘陵を抜ける道をとったので、 フェイトたちがカルサアの町からアリアスへ移動したときよりも、遥かに短い時間でカルサアまで戻ってこれた。 道も山道ではなく丘陵地帯であったため、ずっと移動しやすい。 しかもアリアスの村で馬を借りることができていたので、その速度は推して知るべしである。
 ちなみにネルはクレアと同じ馬に乗っていた。 二人の合計の体重が軽い組み合わせであることはもちろんだが、クリフもフェイトも乗馬は不慣れであり、 馬を御せなくなった際の危険がつきまとっていたからである。
「元々は古の時代の城砦で、それをアーリグリフ軍が最近になって利用し始めたと聞いています」
 眼下に見える石造りの建物を見据え、クレアが解説した。
 アーリグリフ王国の三軍の一つである漆黒が拠点としている建物である。 タカ派の公爵が台頭してきてから、多数のアペリス教徒たちが処刑されたとも言われている。
 聖王国に属する者にとっては忌むべき場所なのだ。普段は穏やかなクレアの瞳にも怒りが宿る。
「クレアおねーしゃん?」
 小さなネルに心配そうに声をかけられ、クレアは怒りの感情を捨て去る。 今は冷静になり、ファリンたちを救出することが第一だ。
「多くの者は国境に近くに移っているとはいえ、まだあそこにも漆黒がいるはずです」
「そうだな。見つからずに近寄れればそれに越したことはないんだが……」
 クレアとクリフの顔が渋くなる。
 一つの軍隊の拠点となっているのであれば、無人のはずがない。 そして、さらに自分たちは待ち構えられている側だろう。
「夜になるのを待つ?」
 フェイトが二人に尋ねた。しかし彼自身も城に侵入した経験などないから、夜のほうが上手くいくという確信もない。
「どうだろうな? オレたちは土地勘がない。闇は敵さんを利するだけかもしれねーぜ」
 自然、彼らの視線はクレアに集中する。
「……私に考えがあります」
「ほう?」
「相手に隙が無いのなら、隙を作るまでのこと……」
 そう言うと、クレアは瞑目する。指を複雑に動かしながら、、口の中でごにょごにょと何事かを呟いた。
 印と韻が組みあがると、彼女は空の一点を指差した。

 シュババババァァァアアア――――!

 突如、虚空に現れた不思議な印――フェイトとクリフに浮かんだ言葉は紋章であった――から、幾筋もの光線が飛び出し、 修練場に突き刺さっていったのだ。光の柱は石造りの壁面や天井をぶち抜くと、次々と爆発を起こす。 建物の正面から右手の一角が軒並みやられてしまっている。
「うわー、すごい……!」
 フェイトが感嘆の声を漏らす。
「……おい」
「はい?」
 クリフがジト目でクレアを睨む。
「救出相手がそこにいたらどうするつもりなんだ!」
「………………あ」
 クレアの顔が一瞬にしてひきつった。
「おねーしゃぁぁあん」
 小さなネルも抗議の目でクレアを見る。
「安心して、冗談よ」
「は!?」
 今度はクリフたちが顔をひきつらせる番であった。
「情報提供者によれば、捕虜は普段は地下牢に入れられているの。そして処刑――殺害する時には屋上へと連れ出すそうよ。 だから彼女たちは安全なところにいるわ」
「ったくよう」
 やれやれとクリフたちは胸を撫で下ろしている。心臓に悪いことこの上ない。
 クレアはそんな彼の様子を見て、真剣に案じてくれているのだな――と、正体不明の異邦人たちを見直す気持ちが生まれた。 意地悪をしたことを少しばかり反省する。もちろん、小さなネルを譲るつもりはないが。
「ごめんね、びっくりさせて。説明するより早いと思ったから」
 小さなネルの頭を撫でながら、クレアは弁解した。
「あ、何か大騒ぎになってるよ!」
 修練場の方を見守っていたフェイトが叫んだ。
「そりゃ、そうだろうよ。こっちの嬢ちゃんが派手にやってくれたんだからな」
 建物に忍び寄り、最小限の殺傷でことを済ませようと考えていたクリフは、 己の目論見がガラガラと音を立てて崩れていくのを感じた。 しかし、いつまでも一つのことに拘泥している男ではない。余計なことは頭から追い出した。 こうなった以上はやるしかないのだ。そう腹をくくると、彼はピシャリと頬を打ち、気分を引き締めた。
「よし、いくぞ野郎ども!」
「おー!」
 クリフの野太いかけ声に、小さなネルの高い声が応える。
 そして彼らは阿鼻叫喚の真っ只中である、修練場へと近づいていった。

「この辺には誰もいないみたいだね」
 フェイトが入口の付近を見回した。
「突然、あんな目にあったんだから仕方ねーだろうが、こうも手薄だとボスの指揮能力を疑うな」
「そうですね……漆黒の団長は若年とは言え、衆に秀でた人物だと聞いていますが……」
 クレアは首をかしげた。
 人質を抱えている以上、突然の攻撃は救出のための陽動だと判断するのが普通だろう。 それなのに入口が無防備とは、どういった状況なのだろうか?  まさかとは思うが、よほど無能な人物が警備に当たっているのかもしれない。
「入れるうちに入るに越したことはない、か。出たとこ勝負なのは今に始まったこっちゃねーしな」
「そうだね。この騒ぎでファリンさん、タイネーブさんに何かがあったらいけないし、早く行こう」
 彼らは頷きあうと、そろりそろりと進入を開始した。
 建物の中も外と同じ状態で、漆黒の団員たちの数は少なかった。 たまに出くわしたものは隠れてやり過ごすか、静かにぶちのめした。 何せ小さなネルを連れている。危険を冒すのは最小限にしたかった。
 また、捕らえられているファリンらの身にも危険が及ぶからだ。 万が一にも別の場所へ移動させられたり、殺されてしまったりしたら敵わない。

「――ふっ」
 鋭い呼気と共に、鈍い音が響いた。 ぐわぁぁんという、金属鍋を思い切り殴りつけたかのような音である。
 その一撃で、巨大な甲冑がドォォォンと倒れた。
 一撃で倒したのは素晴らしいことなのだが、いかんせん音が大きい。 しかし彼――クリフを咎めるものは誰もいなかった。
「ブレードリアクタァァァァッ!」
「舞え! 白き風の子どもたちよ!」
 フェイトが剣を、クレアが純白の棍を振り回している。
 たまたま開けた扉の向こうに、巨大鎧と骨兵スケルトンがいた。 そして人間とは違った感覚器官を持つ――であろうと思われる――彼らは、侵入者を見逃さなかった。 人が少ないと油断していたこともあり、開けた扉を閉める前に乱戦となってしまったのだ。
 彼らは小さなネルを守るべく、戦って、戦って、戦い抜いた。 何で軍の駐屯地に不死生物アンデッドやら、魔造物やらがいるのか、 アーリグリフに問い質したい勢いである。
「ふぅ……これで全部だね」
 最後の一体である骨兵を倒したフェイトは、自分たちの他に動くものがないか確かめる。
「かなり騒がしくしてしまいましたね……」
 クレアが美しい眉をひそめた。
「それにしてもどうして誰も駆けつけてこないんだ? ここまで静かだと逆に変だぜ?」
「地下牢にはファリンさんたちもいなかったし、どうなっているんだろう」
 男たちが次々と疑問を口にした。
 彼らの言うとおり、最初に向かった地下牢には誰も居らず、まったくの無駄足となってしまった。 そして仕方がないので1階から順に調べていったのである。 そうしたら2階でこの部屋に踏み込んでしまった。
「次の3階か屋上か……ともかく行ってみましょう」
 そうクレアが言い、出発を促した。
 彼らは全く知らぬことだが、この日、修練場にいた漆黒の兵士たちはクレアが施術でブチ壊した区画にいたのである。 そのため、クレアたちにとっては幸運なことに、修練場に詰めていた者たちのほとんどが死傷していた。 無事な者は少数で、その彼らも負傷者の手当てやカルサアへの報告で手一杯だった。
 さらに、この時、修練場を預かっていた指揮官は大層人望がなく、指揮も下手だった。 そのため、無事な団員たちは上官の心配をしたり、彼のダメな指示に従ったりするよりは、 本来の主のために体勢を立て直すことに重きを置いていたのである。

「きゃー、いい男〜!」
 フェイトは出会い頭に女――少女に飛びつかれた。
「な、な、何っ!? 君はっ?」
 ドキドキしながらフェイトは少女をひっぺがした。
「わたし、マユって言います♪ ここの厨房で働いてるの」
 エプロンをつけた少女はにこにことしながら言った。おそらく状況は判っていない。
「料理を作っているということは、ここにどれくらいの人間がいるか知っていますよね?  素直に教えてくださるとありがたいのだけれど……」
 クレアが丁寧に、それでいてどこか脅すような口調でマユに語りかけた。 おそらく、変に騒いだり、嘘をついたりしたら容赦しないだろう。
「おねーさん、態度でかくなーい? そんなだと男にモテないよ?」
「なっ、何ですって〜っ!」
 穏やかな微笑という仮面が一気にはがれた。
「とりあえず落ち着け」
「おねーしゃん、おちついてぇぇぇ」
 どうどうとクリフがクレアをなだめる。 小さなネルも彼に協力していた。彼女もファリンとタイネーブを助けたくってたまらないのだ。
 そんな彼らの様子を面白そうに見ていたマユは、からからと笑いながら彼らの知りたい事を教えてくれた。
「今は、ここには200人くらいの漆黒さんがいるのよね。それからシーハーツの密偵が2人。 でも今日は1階の第一集会所で新しい陣形の有効性を検討するとか言ってたから〜、ほとんどの人たちはそこにいたと思う……。 だから、きっと……」
 第一集会所のあった場所に謎の攻撃があり、集会所とその上にあった部分は潰れてしまった。 彼女の悲しげな顔を見て、フェイトはずきりと胸が痛んだ。
「あーあ、どうせなら副団長のいる場所に攻撃があれば良かったのに」
 マユはとんでもないことを口走った。
「副団長のこと、嫌いなの?」
 マユの機嫌を損ねぬよう、フェイトが尋ねた。
「うん。あのオッサン、汗臭いし、ヒキョーだし、やることえげつないし。まともな漆黒団員はみんな嫌ってるんじゃないかな。 今回も人質とって、ヘラヘラしてるしね。 それに比べて、団長のアルベル様はちょっと怖い感じだけど、根は優しいし、曲がったことはしないから皆に慕われてるわ」
「ふーん」
 巷の噂から想像していた歪のアルベル像とはえらい違いである。
「そうだ、おにーさんたちにコレあげるよ」
 エプロンのポケットからごそごそと引っ張り出したのは大ぶりな鍵だった。
「これは?」
箱型昇降機エレベーターを使うための鍵」
「どうしてこれを?」
「わたし、食事を届けるのに使うことがあるんだ。だから持ってるの。それに乗って屋上に行くと良いよ」
 そういってマユはニヤりと笑った。
「言ったでしょ、わたし、副団長のことが嫌いなの。それに女の子捕まえて、何かに利用しようとするなら余計にね」
「……ありがとう」
 フェイトは鍵を懐にしまい、彼女に礼を言った。
「そうそう。そっちのおねーさん」
「何かご用かしら?」
 再び身に付けた、穏やかな微笑の仮面でクレアが応える。
「プッツンしてるときのおねーさん、結構好きだよ♪」
「……それはどうも」
 くすくすとマユは笑い、彼らを送り出した。
 立ち去る彼らの背中に、彼女の呟きが届く。
「ご飯が心の底から美味しく感じられるのって、平和な時だよ。早くそうなればいいのにね」

 ――ガコン、と大きな音を立てて箱型昇降機は動きを止めた。
 かすかにギギギと音がし、扉が開く。
「あ……空」
 誰かが呟いた。
 たどり着く先が屋上であると前もって知っていたが、しばらく建物の中にいたたため、青空と太陽の光が眩しいと感じた。 にわかに吹き抜ける風が髪を揺らしていく。敵地でなければお弁当でも広げたいくらいだ。
「待っていたぞ、貴様ら!」
 野太い声が轟く。
 フェイトたちがそちらを向くと、黒銀色の甲冑に身を固めた男がいる。 おそらくコイツが副団長なのだろう。マユの話のせいではないが、典型的な悪党の顔に思えた。 左右には二人の漆黒がいる。黒づくめの部下を並ばせているところも、ますます悪党っぽい。
「ファリンしゃん! タイネーブしゃん!」
 小さなネルが今にも飛び出さんばかりの勢いで声を出す。 副団長の背後には、後ろ手に縛られた彼女の部下たちがいたのだ。僅かに身じろぎをしているから、意識はあるようだ。
 フェイトは小さなネルを後ろに庇うと、剣を抜き、切っ先を副団長と思しき男に向け――
「漆黒の副団長、シェルビーというのが貴方の名前でしたわね。 シーハーツの国民たちを酷い目に合わせただけでなく、卑劣な手段を用いて可愛いネルを危険な場所に誘い出すなんて、 許せないわ。クリムゾンブレイドの名の下に、貴方を成敗します」
 フェイトがカッコよく切ろうと思っていた啖呵はクレアによってブチ壊しになった。が、それで腐る彼ではない。 負けじと口上を述べる。
「ファリンさんとタイネーブさんを解放してもらう。そして僕たちを素直に帰してくれれば、今回のことは忘れてやる」
 女性を人質に取るような男だが、地球育ちの彼はどうしても殺傷に対して抑制が働いてしまう。
「そうはいかないな。人質の命が惜しくば、その娘をこっちに寄越すんだ!」
 そう言ってシェルビーが指差したのは小さなネルだった。
「変態だ」
「変態だわ」
 フェイトとクレアが同時に呟いた。
「貴様らには言われたくないわーッ!」
 確かに。
「たまたま捕らえた人質、このような場所で役に立つとは思わなかったぞ。 さあ、大人しくその可愛らしい娘を寄越すのだ。あの娘を手に入れ、王に捧げれば……」
 うわはははは、と下品に笑った。
 アーリグリフ王の名誉のために言っておくが、この国の王にそういう趣味は無い。
「オレの娘をどうするかはさておき、オレたちは人質を救出して、全員揃って帰れればそれでいい。 そのためにはテメェをぶっ倒す必要がある。 そして、テメェはネルを手に入れるためにはオレたちをぶっ倒さなきゃならねぇ。 つまりコレで決着つけるしかないってことだ……それで間違いないだろ?」
 クリフはぱん、と拳を鳴らした。
「ネルちゃんは下がっててね」
 クレアは小さなネルを下がらせると、手に獲物を構えた。フェイトもそれに倣うように改めて剣を構え直す。
 シェルビーは彼らの動きに応えるように、両手に獲物を持った。 右手には戦斧バトルアックス、左手には大ぶりな鎚鉾メイス。 どちらも重量級の武器である。それを軽々と構えているのだから、副団長になるだけのことはあるのかもしれない。
「吾輩に歯向かったこと、後悔させてやるぞ。貴様らもシーハーツの間諜として、たっぷり締め上げてくれるわ! 者ども、かかれ!」
 シェルビーが二人の部下に向かって命じた。あの豪腕と、漆黒二人を相手にするのは容易いことではないだろう、 フェイトたちがそう考えた、その時。
「「お断り申す」」
 静かながら、はっきりとした声が聞こえた。 先ほどから沈黙を守り、いることを忘れてしまいそうなくらいであった漆黒が口を開いたのだ。
「な、何だと!?」
「断る――と、そう申し上げた」
 漆黒の片割れが毅然と言う。
「かの国の侵入者どもを待ち受け、撃滅する。そのために剣を振るう」
「それが我らが勤めであったはず」
「幼子を巡る戦いのためではござらぬ」
「斯様に愚かな私闘のために振るう剣は持っておらぬ故」
「我らは立ち去る」
「アルベル様がお戻りになるまでに、軍を立て直すこと」
「それが我らが勤めと考えまする」
 交互に歌うかのようであった。流れるように話すからこそ、誰も間に割って入ることができない。 二人の漆黒は言いたい事を言うと、くるりと踵を返した。
 彼らは軍に忠実であり、忠実であったからこそ、アルベル――団長が不在の今、次席のシェルビーに従っていたのであった。 副団長がそれに値せぬと判断してしまった今、彼に従う必要も意味も無かった。
 シェルビーは去っていく背中を唖然とした表情で見送っている。 やがて状況が理解できたのだろう。わなわなと身を振るわせ、顔を真っ赤にすると、天に向かって吠えた。
「貴様らまとめてブッ殺してくれるゥゥゥッ!」
「負けるわけにはいかないんだ! 僕の娘のためにも!」
 フェイトが剣を構え、叫び返す。後半のセリフが無かった方が、格好良かったかもしれない。
「アンタは施術とやら援護してくれ……行くぜっ!」
 クリフはクレアにそう言うと、シェルビーに向かって立ち向かっていった。

「――やっ!」
 振り下ろされたフェイトの剣がガキンと斧で受け止められる。衝撃で思わず剣を取り落としそうになるが、かろうじて堪えた。 それに安心している暇はない。頭上から鎚鉾の一撃がやってくる。それを僅かに身をそらせてかわした。
 途端、空中に蒼い筋が数本舞った。
 どうやら風圧だけでもかなりの威力があるようだ。 もし、あれが自分の頭を直撃していたらと思うと、それだけで背筋に冷たいものが流れた。
「後ろがガラ空きだぜ」
 ガッ、ガッ、ガッ――と、左右の拳による三連打が決まった。 闘気をまとった拳は、鎧をへこませ、その下にある肉体にもダメージを与えているはずだ。 囮役になったフェイトはちょっぴり残念そうな顔つきをしている。
 一人の敵に対して、複数で戦いを挑むのは卑怯な振る舞いなのかもしれない。 だが、相手は人質を取り、可愛いネルを寄越せと言ってきた変態なのである。 正々堂々挑む必要などないだろう。そもそも、多数の漆黒がいる修練場で待ち構えていたのだから。
 そのまま、フェイトとクリフは激しい攻撃を加えていく。 シェルビーは戦士として正規の訓練を受けており、武器・鎧を十分に活かすだけの身体能力もあった。 だが、人望が欠けていた……目指した場所が大いに間違っていたばかりに、この場で孤立。 二人がかりで攻められては、多勢に無勢となってしまうのは仕方の無いことである。
「はぁっ!」
 フェイトは剣を大きく振り、隙を作った。
 しかしそれは相手の攻撃を誘うためのフェイント。 自分に向かって繰り出される戦斧の一撃を難なく避けると、くるりと剣を返してシェルビーの手首を払った。
 ぎゃりりりっと、嫌な金属音と共に感じる、確かな手ごたえ。 愛剣の切っ先を痛めてしまったかもしれないと心配になる。が、効果はあったはずだ。やつはきっと、もう武器を振るえまい。
「くおっ、やりおるな」
 右手の戦斧を床に落とし――負傷した手では触れぬと判断したのだろう、左手の鎚鉾を改めて構えなおす。 険しい表情は戦意を失っていないというよりも、激しい怒りのためであろう。
 幸か不幸か、シェルビーは若い頃から体格に恵まれ重量級の武器を巧みに使いこなせていた。 武術に関してはそれなりの才があったのである。 立ちはだかる敵は文字通り粉砕してきた――負けを認めた相手に対しても同様だったが。
 彼は漆黒の団長を含めたごく少数の人間以外には無敗を誇っており、それは偽りの無い事実であった。 強い相手に何度も挑むことがなかったから、後年はほとんど常勝と言えたかもしれない。 少なくとも彼は“敵無し”を標榜していたし、最近の彼しか知らない者にはそう見えたであろう。
 それが彼の弱点となった。
 そう、彼は強い相手に打ち負かされる――負傷することに慣れていないのだ。 今も手首の負傷により、顔を真っ赤にするほどの激しい怒りを表している。 冷静に戦況を分析することなど出来なかった。
「おのれぇぇぇぇ! 粉砕してくれるわぁぁぁッ」
 守りを捨てたかのような激しい攻勢にでた。
「うわっ、この人、無茶苦茶だよ」
 フェイトは剣を盾代わりにして何とかその攻撃を凌いでいる。 しかしシェルビーの攻撃は、火事場の馬鹿力のように激しさを増していた。 いつまで守りきれるか……。
「いよっと」
 フェイトは大きく後ろにジャンプした。とにかく距離を取らなくては。
「光よ、捕らえよ!」
 フェイトの背後から響いたクレアの声。
 次の瞬間には、彼女のいる方向から細い光が蜘蛛の網のように広がっていた。 極細の光はそのままシェルビーを包むと、するすると絡まり、実体のある網のように彼を縛り上げた。
「これでもう動けません!」
 クレアの一言に、フェイトは大きく息をついた。
「どうしてもっと早く使ってくれなかったんですか〜」
 彼女に助けられたのは間違いないのだが、思わず恨みがましい声を出してしまう。
「あなたたちが近づき過ぎていたからですっ!」
 クレアもむっとした声で返してくる。
 彼女は戦闘開始の時点から、不本意ながらクリフの指示通り施術を使うつもりでいた。 が、この男どもはやたらとシェルビーに接近するのである。
 施術は都合よく敵だけにかかってくれたりはしない。発動した範囲にいるもの全てに効果が出る。 攻撃的な施術を使っていたら、おそらくフェイトやクリフも一緒に巻き込んでいただろう。 この《光の網エーテル・ネット》にしたって、三人まとめて縛り上げていたかもしれない。 一瞬、それもありかもしれないと思ったクレアだが、小さなネルの手前、自重した。
 施術には特定の相手にだけ効果を及ぼす支援系のものもあるのだが、生憎と彼女はそちらの方面が得意ではなかった。 血統限界値は恵まれているのだが、どうにも器用さに欠ける様で、 ここに突入する際に使ったような大規模なものばかり上手に扱えてしまうのだ。 《光の網》は、光牙師団の団員時代にさんざん練習したから人並みに使えるようになっているだけである。 相手を殺さずに捕まえる施術は、王都の治安を守る者たちにとっては必須施術だったのだ。
「……まったく、これだから施術戦闘に不慣れな方は困ります」
 胸中のもやもやは棚に上げ、クレアはしたり顔で説教をする。 やはり、自分がしっかりと小さなネルを守り育てなければ……。
「吾輩を無視するでないわぁぁぁあああ〜」
 まさに地の底から響くような声、という感じであった。
 驚いたことに、シェルビーは施術の網をブチブチと切り裂き――おそらく気合で――立ち上がろうとしてた。
「とんでもねータフ野郎だな」
「だね」
 クリフとフェイトが顔を見合わせ、げんなりとする。ここまで来ると、恐れ入るよりも生理的嫌悪感を感じてしまいそうだ。
「吾輩はこの程度では――げばぶ」
 蛙のような情けない声を出し、シェルビーは再び倒れ伏した。
 背後からの鋭い蹴りの一撃が彼の脳天に命中したためだ。その鋭さは、頭蓋骨が陥没しているのではないかと思えるくらい。
「どうして、こうも気持ち悪いのですか……」
 蹴りをした人は、空中で体勢を整えて、ひらりと着地した。明るい金髪が風に揺れている。
「朧なる青き炎よぉ〜♪」
 地面に突っ伏しているシェルビーに向かって、青白い炎が蛇のように伸びていく。 彼の元にたどり着くと、ぼっと膨れ上がり、たちまちのうちに全身を包んだ。 その炎は、熱を発することもなく、シェルビーが黒コゲになることもなかった。 だが、確実に燃やされているものがあった。それは生き物の存在そのもの――生命力というものであった。
「わたしたちを〜、酷い目に合わせた分の仕返しとしてはぁ、足りないくらいですぅ」
 ぴくりとも動かなくなったシェルビーの前に、炎を使った女性が近づき、金髪の女性と合流した。 虜囚として過ごしていた間にやつれてはいたが、その毅然とした魂は失われていない。
「あなたのおかげで助かりました」
「一矢報いることができたんですよぉ」
 小さな赤毛の少女に向かって、口々に礼を言う。 彼女たちは、フェイトらが戦っている間に、小さなネルによって縄を外され、ブルーベリィを口に放り込まれていたのだ。
「クレア様ぁ、この度は本当にご迷惑をおかけしました〜」
 ファリンがクレアらに向かって一礼する。
「あ、あの……ネル様は?」
 タイネーブがこの場にいない上司を案じた。 クレア自らがこの場に出張って来ているということは、ネルに何かあったのかもしれない。
「ええと……何て説明したら良いかしら……」
 クレアは眉間に皺を寄せる。そのまま顔が固定されると、よく母親に窘められた癖だった。
「わたし」
「え?」
 足元から聞こえてきた小さな声。
「わたし……わたしがネルなの」
 ぎゅ、とタイネーブの服の裾を掴んで、真剣な顔で訴えている。
「ええええええっ?」
「うっそぉ〜、ネル様ぁ?」
 タイネーブとファリンは目を丸くする。 久方ぶりに再会した上司がこのような姿に変貌しているのだから、無理も無いだろう。
 しかし、すぐに現実を認めた彼女たちは……
「「かわいい〜ぃ♪」」
 北方諸島産の果物に、たっぷりと砂糖をまぶしたような甘い声をあげた。 お気に入りの人形を大事にするかのように、小さな上司の頭を撫でる。 頬はぷにぷにしていて、抱きしめたくなる程の可愛さだと感じた。
「さあ、そろそろ帰りましょうか」
 フェイトは再会を喜ぶ女性たちを呼ぶ。
 生きているのか死んでいるのか判らないが、ぴくりとも動かないシェルビーが転がっていることだし、 長居をしたいとは思わなかった。それに生き延びている漆黒の兵たちや、他所からの援軍が駆けつけてくる可能性もある。
「おいで」
 そうフェイトが言うと、心配事が無くなったネルは笑顔で彼の元に駆けてきた。
「フェイトママ〜」
 笑顔の彼女の唇からこぼれるあどけない声。
 途端、女性陣から殺気立った施力が発せられたのは言うまでも無い。 彼らは小さなネルの取り合いをしながら、揃ってアリアスへ帰ることとなった。

「無事で何より……と言いたいところなんだが」
 アリアスの領主屋敷の一室。クレア不在の間、留守を預かっていたヴァンは渋い顔で彼らを迎えた。 その視線が向かっているのはもちろんクレア。
「随分と派手にやってくれたみたいだね、そこのお嬢さんは」
 施術で建物を破壊した件を言っているのだろう。 冷静に振り返れば、どう考えてもやりすぎだよな――と、フェイトは他人事のように考えた。
「す、すみません……私たちが捕まったばかりに」
「ですぅ〜」
 慌ててタイネーブとファリンが頭を下げる。
「ま、理由はどうあれ……クレアには師団長として相応しい行動をとってもらわないと困るよ。 もともと緊張状態だったところにこの騒ぎ。 しかもはっきりと我々シーハーツの手によるものだと判る手段で……開戦は避けられないぞ」
「……遅いか早いかの違いではなくて?  戦いにならずに済むのならそれに越したことはないわ、でも、そうならないことは貴方もご存知のはずよ」
 クレアがむっとして言い返す。
「まあな……」
 ヴァンの眉間に皺が刻まれる――いや、彼だけではない。ここに集まった者たち全ての顔に憂色が刷かれている。
 フェイトも想いは彼らと一緒だ。
 この国に来てから、本物の命のやり取りを目の当たりにしてからの時間は、ここにいる誰よりも短いだろう。 だが、テロか戦争かよく判らないものに巻き込まれ、生きること死ぬことをいくつも体験してきた。 自分で奪った命もある。敵対していたから、相手を倒さなければ自分が死んでいたかもしれない。 そんな理由はあるけれど、命そのものにも、命の数にも軽重はないはずだ。
 自分が奪ってきた命。そして今までの旅で出会った人たちのこと。それを思うと無性に悲しくなる。
 カルサア修練場で出会ったマユという娘。彼女が最後に言ったあの言葉。
(平和って本当に大切だ)
 地球にいる間は当たり前に享受していたものだが、この惑星では――いや、地球にいる間も気が付かなかっただけなのかもしれない。 平和というものはとても尊くて、儚い。だからこそ至上の価値があり、皆が求めるものなのだろう。
(ソフィア、父さん、母さん)
 別れ別れになったままの三人の顔が脳裏によぎる。そして、思い出しても落ち着いていられる自分に驚いた。
 離れたばかりの頃はいつも彼らのことを思ってばかりだった。 この惑星に来てからは生きることに必死だったあまりに、彼らのことを考えていた時間は段々減っていったように思う。 でも、その僅かな時間に悪い想像もたくさんしてしまった。
 それが時間を経るにつれ、見つめ直すことができるようになった。 ただ嘆いているだけではダメなのだ。自分の足で立って、歩いて、目指す場所へ行かなければならない。 良くも悪くもこの惑星での経験が、現実を受け止めるだけの覚悟を自分に与えたのだろう。
 クリフやネルの存在も大きかったと思う。 孤独でないことがどれだけありがたかっただろう。 こよない愛情を寄せる対象がいることが、どれほど倖せだっただろう……。
 そういった倖せをなくしてはいけないと思った。自分のものだけでなく、周りの人たちのものも。
「戦いになるんですね」
 些か顔色が白くなったフェイトがヴァンとクレアに問う。
「ああ、おそらく……間違いなく」
 ヴァンが答え、クレアも頷いた。
「ぼ、僕に何かできることはありませんか?」
 声が震えそうになるのを抑えて、フェイトは言った。
「おい」
 驚いた顔でこちらを見ているクリフに対し、軽く首を振って答える。
「皆さんは僕たちに力を貸して欲しいと言っていましたよね。 それがこの子や皆さんの倖せに繋がるのなら、僕は……できる限りのことをします」
 戦うなとも、戦わないとも言わない。 フェイトもこの国の人たちを多少なりとも見てきた。人を傷つけずにことを成せるとは思えなかった。 少なくとも、今の自分自身にはそんな力は無い。
 だから戦う。少しでも早く、少しでも悲惨なことにならないうちに終わらせるために。
(それに……この子も)
 傍らにいる小さなネルの頭をぽんと撫でた。
「クリフには申し訳ないけど、僕……」
 シーハーツに協力するということは、クリフとは道を違えるということだ。
 ――ゴン、とすごい音がした。
ぅ〜」
 クリフの拳がフェイトの頭を直撃したのだ。
「バカ、誰が協力しないって言った?」
「え、でもミラージュさんのこともあるし」
「あのな、オレも行くアテがねーんだよ。お前から目ェ話すワケにゃいかないしよ。それに娘を放り出す父親がいるか!」
 そういってクリフはネルを抱き上げる。 彼の腕の中で、ネルは父親の不敵な笑みに対して笑顔で応えた。
「こいつらのこともあるからよ、オレも手伝うぜ」
 彼が手伝う理由はそれだけではない。単に放っておけないというものだ。 もともとクォークなぞという組織に身を置いているため、こういう話を聞いてしまった以上、素通りなどできはしない。 クリフ・フィッターとはそういう男なのだ。
「本当に……何と言って良いか」
「ぜひ、よろしくお願いしますぅ」
 感動に顔を輝かせた『闇』の二人が頭を下げる。
「まずは王都に行っていただきたいの。そこで――」
 クレアが執務机に着席し、ヴァンは棚から資料を持ち出し、机に並べた。 ファリンは旅立ちのための用意を整えるため、席を外した。 タイネーブはどうしようと少し困った顔になり、クリフからネルを受け取り、子守をすることにした。
 そして彼らはこれからのことを話し合った。 もう開戦が避けられないのならば、できるだけ良い形でそれに備えなければならない。 王都には秘策を考えている人がいるそうだ。
 まずは王都へ赴き、その人たちを手伝う。それが彼らの旅の目的となる。
 旅の仲間は三人。この惑星に来てから一番最初の旅と同じだ。 このまま誰も欠けることなく、変わらなければいいとフェイトは強く願った。 旅の仲間が増えるのは良い、けれど減るのは絶対に嫌だ。
 だから、このままずっと……。


− Fin −



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