プラグが抜けた。
 事故が起きた。
 特に痛みも、精神が掻き混ざる感覚も、そういう感じはしなかった。
 ただ、気が付けば、自分は戻れなくなっていた。それで事故が起きたことを理解した。
 そんなことはありえないと思うのが普通だし、私もそう思う。 事故、というのは――しかもそれが自分の身に起こったことということは―― それが起きた瞬間何かしらアクションがあるはずなのだから。
 でも、私に起こった事故は違う。事故は後で気が付いた。上に記述した“戻れなくなった”ということから知った。 それはつまり、私には複数の世界があることに起因する。
 私の現実、FD世界。
 私の非現実、エターナルスフィア。
 どちらも等しく私は愛し、いえ、むしろエターナルスフィアの方が現実と思える程、愛している。
 どちらが私にとって現実か? などと言うモノは実際全く役に立たないし無意味なモノ。
 現実と定義される場所にある自らの体は、結局さして重要ではないと考えられるのは、空間転移装置が開発されたから。 そしてエターナルスフィアが開発されたから。現実で肉体を分子レベルまで簡単に分割し、 アナログな肉体をディジタル化することが出来たことから既に科学面から証明されている。
 だからこそここで必要なのは己の思考。ただそれだけが自分というモノを固定する。
 
 私、エレナ・フライヤは今エターナルスフィアに居る。そしてそれが私の全てとなった。 事故にあったというのはつまり現実世界(とここでは定義するわ)であるFD世界で私の体が完全に失われたこと。 それなのにまだ生きているというのはまるでこのエターナルスフィアが天国に見えてしまう。
 でも、ここは本当に天国に等しい場所。私にとってこの場所は現実よりも現実で、かつ居心地が良い場所だもの。
 結局精神と肉体は分離して生きることが出来る、という誰も確認したことが無い証明を私は自身の犠牲によって証明することが出来た。 したところで意味が無いことは判っているけど、そこは技術者の魂というモノ。だから自己完結できてとても満足。
 そう、今私は満足しているわ。
 肉体が滅んで、娘を一人残してしまったことは心苦しいけど。
 私にとって結局重要なのはこの世界であってそれではないし。 非情、冷徹、親失格と罵られても私の精神はそれらを甘んじて受けることが出来る。それくらい私はこの世界が好きなの。

 故に楽しもうと決心する。この世界を現実と認識し、第二の人生を歩むの。 今、居るこの世界を幸福にして、私も幸福になって、そしてこの世界の死によって死ぬ。それが私にとっての楽しみ。



Scientific Spirit

星立さん


「エレナ・フライヤ。入ります」
 その日のエレナはさして緊張していたというわけではないし、特別気持ちが高ぶっていたというわけでもない。 何時も通りのふわふわとした感じで、目の前にある事象に対して自分がどう動くべきかということのみを考えていた。
「ああ、君か。ちょっと待って」
「はい」
 エレナが入った部屋というのはお世辞にも綺麗な部屋ということは言えない。 しかし汚いという表現は似つかわしくない。どちらかと言えば散らかっている。その表現が一番的確だ。
 大量の紙と本。エレナは既にこの光景に慣れっこだった。 過去の現実では本、紙というモノが完全に無くなり全て0と1のデータとして構築されていたが、数年ここに居れば慣れてくるし、 それ以上に自分の生活もこんな感じだ。
「今日はどういうご用件ですか?」
 のんびりとした口調でエレナは聞いた。しかしそれは彼女にとっては儀礼的なモノで、 もう彼女の中ではなぜここに呼ばれたのかは理解しているつもりだった。そう、エレナは彼に呼ばれたのである。
「うん。君の研究テーマをそろそろ決めようと思って。エレナ君だけだからね。まだ決まってないのは」
 思ったとおりの言葉が返ってくる。それに驚くことも無いし、考えたとおり、と彼女は心の中でガッツポーズを取る。 が、しかし表情は相変わらず小さく微笑んだままで、その表情を崩さない。
 エレナはどんな時でも笑顔、いや、むしろ微笑という程度の微笑みを崩したことがない。 勿論もちろん友人が死んでしまったら流石に顔色を変えるかもしれないが、 しかしそんなことは今まで一度も無い。
 どちらかといえばそこに彼女と世界との絶対的な隔たりがあるのかもしれない。 自分が今居るエターナルスフィアが現実だと思っていても、しかしどこかでプログラムだと思ってしまう 悲しい思考は技術者故にその気持ち、考え方は一般人に比べて更に強いと言えよう。
「エレナ君は何かやりたいことは無いのかい?」
「そうですね〜教授は何かアイディアとかあります?」
 エレナは今年この研究室に配属された。シーハーツ大学の施術研究科というゼミである。 彼女はエターナルスフィアに閉じ込められた時、年齢設定が21歳ということになっていて、その年齢時にFD世界に戻れなくなった。 立場はこのシーハーツ大学の学生ということになっていたのでそのまま生活していたのである。
 そしてそのまま年齢、というかこの世界で生活していけば大学の卒業のために研究室配属という流れになる。 それで彼女が選んだのがこの施術研究科であり、研究テーマを決めるために今回呼び出されたというわけである。
「うーん、そうだねぇ……」
 教授が悩む仕草をする。彼女の知識量、技術レベルはこの世界の比ではない。 何たってエターナルスフィア開発者として、一度はこの世界の神、光の神エレナとして降臨したくらい、 この世界に密接に関係していて、技術者であるエレナはこの世界の誰よりも知識を持っている。 エレナの担当教官である教授に“良いアイディアあります?”と聞いたのは、 それは彼女が自身の知識を不用意に出さないようにするためである。
 この世界の技術発展速度にあわせて自分の知識を放出しなければ、 あっという間にこのシーハーツは軍事国家に変貌してしまったり、もしくは自分の技術力目当てに色々面倒が起きてしまう。 エレナはせいぜい、この国の技術者のトップに近い程度で満足するつもりだったのである。
「もう結構アイディア出し尽くしちゃったしねぇ」
 施術研究科に配属されたのは何も彼女だけでは無い。魅力的なNPCキャラクター (こう表現してしまうあたり、まだまだエレナはFD人である自覚がある証拠だ)が多数この研究室に配属されている。
なかなか意欲的な学生は自分からどんどんアイディアを出し、自ら研究テーマを決めるのだが、それが全てではない。 “適当で良いや”という考えを持つ学生だっているのだ。 そういう場合は教授らが研究テーマを決めるわけであるが、今年はどうやらそういうタイプが多いようだ。 教授も流石にアイディアが尽きているようで少し困った表情をする。
「ヒーリング系紋章アイテム研究はもう担当が決まってるしねぇ……アースグレイブによる地質研究も意味が無いし……そうだ!」
 教授は両手をぽん、と合わせる。頭上の電球が光ったような感じで彼の表情が明るくなる。
「何か思いついたのですか?」
 流石のエレナも教授には敬語である。しかし、教授の後に続く言葉にはあまり興味が無かった。 ただ、宛がわれたテーマを否定することなく受け入れるつもりで、受動的な構えを崩さない。
「うん。エレナ君には留学生のアルゼイ君の後釜をやってもらおうかな」
「後釜……ですか?」
 少しばかり期待が外れてエレナはがっかりする。教授がどんな新アイディアを出してそれがこの先どの程度役に立つのか、 技術の歴史を知っているエレナなので、教授がどこまでこの世界の技術レベルを上げるのか少しだけ楽しみであったりするのだ。 しかし、出てきた言葉は後釜。つまり、他人の研究の引継ぎみたいな感じなので面白みは少なく感じられる。
「混合理論って言ってね。施術と工学を組み合わせられないかな、っていう研究なんだ。結構新規性があって面白いよ」
 へぇ〜とエレナは思った。なるほどそれはなかなか良い展開だ。FD世界では施術、 というモノは空想上のものでしかなく実際にはFD世界には存在しなかった。 あくまで施術はこの世界のみのもので、そして独立して作成した施術と工学を融合させる、 というのはこれは開発者としてはまるで想定していなかったことである。
「あ、それで行きます」
「おや、随分簡単に決めるね」
 あははと教授が笑う。そりゃあそうだろう。これから学士卒業までの約1年付き合う研究テーマだ。 下手すれば全く無意味なモノになり、別にまたテーマを考えなくてはならないことになりかねない。 それだけにこれは慎重にならなければならないが、しかしエレナには十分勝算があり、 そして開発者として考えなかった提案に完全に技術者の心を奪われたのである。
「教授のアイディアが良いなと思ったんです」
 相変わらずエレナは微笑を絶やさない。完全に満足した感じで、もうエレナは頭の中でどうしようか考え始めていた。
「よし、じゃあ、これからアルゼイ君を紹介しようか。彼がやっている研究だからね。色々とお世話になるだろうし」
「はい」
 正直そのようなものはいらないのだが、しかし、 これもこの世界に生きると決めた時からこうなることもあろうという心構えが出来ていた。 どうも技術者、科学者という生き物は上の者にあれこれ言われるのを嫌う性質がある。 エレナもその類なので、上の者が嫌な人だったらやだな、と思っていた。
 そうして二人は教授の部屋を出て移動する。数十メートルの長さを持つ廊下を二人は歩く。 と言っても教授の後についていくだけであるが。
 シーハーツ大学の造りはシランド城と良く似ている。左右対称を意識して作られていて、外面的な美しさは見る者を感嘆とさせる。 しかし、中に入ると学術の場に相応しく調度品の類は殆ど無く、 しかし皆が共同で使う廊下は綺麗に掃除されているという極めて無駄が無い状態にされていた。 夜遅く、または泊り込みの学生のために廊下には多めに蝋燭ろうそくが立てられていて、 警備兵が24時間体制で巡回している。 この時代の環境としては最高の状態がシーハーツの技術水準を高める理由の一つであろう。
「アルゼイ君、ちょっと良いかな?」
 教授がある扉の前で止まり、ノックもせずに入る。そして目的の人物を呼んだ。
「何ですか?」
 施術研究科が使用している研究室はそれなりに広い場所だった。さすが人気講座である。 教授の実績もあるし、なるほどそれなりに活発な場所である。
 教授が入った研究室は10名程の学生が机の前に座って唸っている部屋だった。 丁度どこかの会議室のように向かい合って座っている。それぞれの机の前には本棚があるので、 隣同士の交流はともかく正面に居る人は見えないために交流はとぼしそうだ。 まぁそんなことエレナにはあまり興味は無いことだが。
 エレナから見て2行5列の形で座っている学生の中で、最も奥に居る人物のところへ教授は移動する。それにエレナも付いていった。
「アルゼイ君、君の研究の後釜が出来たよ」
「俺のですか?」
 アルゼイ、と呼ばれた男は最初に教授の方を見てからエレナの方を向いた。その時エレナとアルゼイの目線が合った。
 エレナは特に男性に対して恋心というモノを持ったことは無い。 FD世界で夫を持ったが実際エターナルスフィア開発の方が楽しかったし、夫とのデートはむしろ苦痛でしかなかった。 デート中でさえエターナルスフィアの構築アルゴリズムについて考えていたくらいだ。 だから娘は出来たがしかしすぐに夫とは離婚した。
 今回もほぼ同様で、エレナはアルゼイのことを男という目線では見ず、むしろ形式上の上司、という軽い感じでしか見なかった。
 もし、エレナではなく別の女性だったら? 恋心を普通に抱く女性なら、アルゼイの容姿に少なくとも淡い期待を持つに違いない。 それくらいアルゼイは男性としての魅力をかねそろえた男だった。
「エレナ君。彼がアルゼイ・バーンレイド君だよ。混合理論を最初に考えたのは実は彼なんだ」
 と言われてエレナはアルゼイに対して見る目を変える。この斬新なアイディアを出したのはアルゼイなのかと驚嘆しているのだ。
「いや、そんなことないですよ。教授が色々補強してくれたから成ったようなもんですし」
「あはは。まぁその辺りは良いじゃないか」
 教授は破顔する。どうやらあくまで後ろ盾という立場を崩さず学生にどんどん前へ出て欲しい、という気持ちの持ち主のようだ。 エレナはそれだけでこの研究室に来て良かったと思った。
「で、彼女はエレナ・フライヤ君。さっき言ったとおり君の後釜に据えることにしたよ」
「しかし、そんなに発展性ありますかね? 俺の修士論文でほぼ終わってるような感じですけど」
 アルゼイの口ぶりから、彼は今年で学生最後の年だということが判る。それをエレナは惜しい、と素直に思った。
「いやいや、アルゼイ君、まだ基礎混合論しか述べてないじゃないか。アイディアは潤沢にあるよ」
「そうなのですか?」
「うん。これから発展していく分野だよ、これは」
 これは後にエレナが開発する施術兵器の初期段階なのだが、しかしそこまで仰々しいことはこの教授、 ましてやアルゼイは考えてないだろう。勿論この時はエレナにすらそのような考えは無かった。 何せこの時代、アーリグリフとシーハーツは極めて良好、というわけではないが決して不仲というわけではないからだ。 戦争なんて起こるはずが無い、そういう平和な時期である。誰も今やっている研究が軍事転用されるなんてこと考えるわけが無い。
「エレナ君も興味持ったようだし、これから色々と面倒見てやってくれよ。それに、女性だから君もやりがいがあるだろう?」
 と教授らしいジョークを飛ばして笑う。 勿論本音ではないが、これくらいのジョークを飛ばす人の方が人間性は得てして高いものだ。
「はは、判りました。よろしく、エレナさん」
「“エレナ”で良いです。アルゼイさん」
 エレナは微笑を更に増して微笑み、アルゼイと握手をした。 アルゼイも上級生ながら“なら俺もアルゼイと呼んでくれて構わない”と付け足し、握り返した。


 そうして二人は出会った。 アルゼイもエレナも互いに初めはただの仲間として見ていただけだったが、密接な関係になるのにそれ程時間は掛からなかった。 何せ研究室に居る限り殆ど同じ場所で過ごしていたのだから。  二人が出会って2ヶ月程度が過ぎた頃にはもう二人は相手のことを気になりだしていて、 しかし、アルゼイは表情に準拠して堅物、色恋沙汰にはまるで奥手であるし、 かといってエレナはエレナで基本的に頭の比率の80%以上が混合理論に夢中であった。
「エレナ、そろそろ昼飯にするか?」
 だからアルゼイがこうして話しかけたところでエレナはすぐには気が付かない。
「ん〜やっぱりもう少し施術レベルを上げないとダメなのかな…… でもそんなことしたら今度は物質が耐え切れなくなって壊れちゃうし……どうしようかな……」
 彼女は己の机の前に座り、分厚い本を読んでいた。どうやらそれはグリーテンからの輸入本のようで非常に貴重なものだ。 しかし余りにも難しすぎていて(何せ文明レベルが5世紀程違うのだから)誰も解読出来ていないのだが、 エレナはそれを本当に“読書”することが出来ていて、それに熱中していた。
「エレナ。戻って来い」
 苦笑しながらアルゼイは肩を叩く。それでようやくエレナは顔を上げた。
「あれ、アルちゃん。どうしたの?」
 アルちゃん、という言葉で研究室内に居た誰もが噴き出しそうになる。それを必死に堪えているのがアルゼイには判っていた。
「……まぁ別に構わんが」
「ん? 何、どうしたの皆」
 アルゼイのことをアルちゃん、と言い出したのはつい最近のことだ。 そして“ちゃん”付けするのはこの中ではアルゼイのみで、それがエレナの親しみの表現であることは見間違うことは無い。 だからアルゼイも少なくともエレナに好かれているということが心地よかった。
「エレナ、まだそれを読んでいるのか? もうそろそろ別の文献に手を出した方が良いと思うが」
「ダメね〜アルちゃんは。施術を物質で制御させる、なんてことはまず互いの性質を深く知ることが大切なのよ。 アルちゃんみたいに机上の空論ばかりじゃ得る物は無いんだから」
「鋭いところを突くな、お前は」
 アルゼイは頬を掻いた。
「とはいえ俺は基本理論ばかりだから仕方ないだろう」
「だからその後釜である私がモノにするんじゃないの」
 そうだ。エレナはあくまで技術者だ。つまりモノ作りが好きなのである。 頭を動かして理論ばかりやるのはどちらかといえば彼女の得意とするところではない。 勿論それでも他人に比べて随分と頭を動かしている方であるが。
 エレナがやっているのは施術を物質に付加させることを目的とした混合理論の発展版であると言える。 施術を物質に付加させることが可能なのは既にアルゼイによって証明されているのだが、それに必要な施術力、 つまりどれくらいの力を物質に添加させるのか? ということが一番の問題である。 基本的にアルゼイはそれについての研究で、エレナはそれが可能なら施術そのものを逆に今度は物質によって制御出来るのではないか、 と考えたのが彼女のテーマである。その考え方が後の施術兵器に発展していくのであった。
「ちょ〜っと気になる行があるのよね〜」
 エレナが微笑を崩さずアルゼイにその行を指し示す。
「どこだ?」
「ここよ、ここ」
 アルゼイが顔を本に近づける。ということは自然にお互いの顔が近くなるが、 しかしそれを気にしたのはアルゼイのみでエレナは指してそれについてないか考えが浮かんだということはなかった。
「“営力の一時保存は不可能である”……って営力って何だ? 初めて聞く単語だが」
「ん〜私も良く判らないんだけど、多分施術の一種かなって思うのよね。んで、その一時保存は不可能って書いてある。 てことは施術を一時保存することも不可能なのかなって思っちゃって」
「なるほど、それで悩んでいるのか」
「そーゆーこと」
 実際にはエレナの中では解決している。営力なる物が恐らく電気ということの推測は立っている。 その一時保存が不可能、ということはつまりまだ“電池”や“コンデンサ”と言った物が開発されていないということだ。 恐らく営力を雷としてこの論文執筆者は見ているのだろう。
 しかし、グリーテンがその問題を解決していないとは考えられない。 それはつまりグリーテンがシーハーツへ渡す文献をコントロールし、 不必要な知識を与えるのを嫌っているという態度が示されている証拠だ。
(ここで私が解決案を言っちゃったらやっぱりまずいわよねぇ〜)
 最近のエレナの悩みはそれだった。知識を出力することが出来ない。 まだエレナはそれ程認められているわけでもないのに、突飛な提案をしてしまうとそれはそれで問題だ。 物事には順序と言うモノがある。だから少しずつ自分を認めてもらい、 その後で、新しいことを言っても疑われないようにする必要があった。
「実際施術をコントロールするってことはこういう一時的に力を保存するシステムが必要だと思うんだけど、どう思う?」
 エレナがアルゼイの顔を見る。アルゼイは本を眺めていたのでそれにすぐには気がつかなかったが、 彼女の視線に気がつき慌てて顔を上げる。いや、表面上はあくまでゆったりと、それでいて冷静な行動であるが。 しかしアルゼイの中では心臓が激しく脈打っていた。
「さ、さぁな。いや、待て。物質に付加させることが出来るのはわかっているから、そこから出力すれば良いんじゃないのか?」
「あ、微妙に自分の論文を噛ませようとしてるわね」
「そういうつもりではないが。だが、それでも現実的な解決案だと思うぞ」
「うーん、一度物質に付加させてしまうと余剰に体積が増えちゃうから嫌なのよね。 もっとコンパクトにスマートにしたいのよねぇ」
 エレナの頭には電気など比べ物にならないエネルギー機構が入っている。 だから余計にこのような旧型の知識となるとどうすれば良いのか判らなくなる。 勿論材料さえあれば何とかなるが、旧式の知識は余り無いエレナにとってこれは予定外の楽しさだった。
 在る物の中で最良の結果を出す。そして最良の結果を出すために理論を構築する。エレナにとってこれほど楽しい時間はなかった。
「そうか。って、そうじゃない。俺は昼飯に誘いに来たんだ」
 既に部屋にはエレナとアルゼイしかいない。皆、昼休みを満喫するために食堂やらに行ったのだろう。 今日は珍しく弁当を持参している者は居ないらしい。
「あ、そうだったの。それなら早く言いなさいよ。ダメねぇアルちゃんは」
「……俺のせいなのか?」

 昼の食堂はどの世界でも混んでいる、というのが定説だ。 丁度100席くらいの椅子とそれに見合う数のテーブルが所狭しと並べられ、そのどれにも学生が食事と談笑を楽しんでいる。 それだけではなく、未だに食堂に入ってくる人間も居た。この人の数に早くもエレナは機嫌が悪くなる。
「あー! ほら、アルちゃんが遅いからこんなに人が多いじゃないの」
「待て、俺はもっと早く呼んだぞ。お前が研究に没頭するからだろう」
「生意気に口答えしないの。どうしようかな」
 こうやって、実際に混みあった風景も、実はエレナにとっては珍しい部類に入る。 FD世界ではボタン一つで食事が出てきて、並ぶ必要性も無い。 味気が無い、と思われるかもしれないが、しかしエレナが生まれた時からそうなっていたからそれが変だとは思わなかった。
 このように騒々しい場所での食事を味わえる、というのもエレナにとって愛すべきエターナルスフィアの世界である。
「しょうがないから並ぼうか」
「いや、どうせなら外で食べよう」
「外?」
 大学敷地内の食堂だけではなく、勿論シランドには多数のレストランが存在する。 ジャンクフード店というモノは無いが、ごく一般的な、良心的な値段なレストランが沢山あるのだ。 そこに行こうと彼は言っているのである。
「でも、それなら研究室への帰りが遅くならない?」
「別に良いだろう? 今日は教授も居ないのだから」
 エレナは考える。これは誘ってくれているのだということが判ったのだ。 アルゼイの態度はまるで変わらないが彼はポーカーフェイスが凄まじい。 エレナでさえ判らないくらいなのだから、その判断はそこからの判断ではなく、直感と彼の普段はしない言動からだ。
(別に構わないかな?)
 FD世界では絶対に拒否しているであろう誘い。そんなことするなら自分は研究していた方が良いとさえ思っている。 しかしここはエターナルスフィアだ。時間は沢山ある。そこまで真剣にならなくても、良いだろう。
「良いわよ〜私を満足させる、美味しい店を紹介してくれるならね」
「それは問題ない。よし、行くぞ」
 少しばかりアルゼイの表情が明るくなり、彼の雰囲気が幸福のそれになる。
(子供みたいね)
 くすくすとエレナは心の中で笑う。実際エレナの精神年齢は30以上だ。 こういった若い人間の行動が非常に懐かしく感じられる。
(私も、幸せになれるかしら?)
 そう考えると、現実世界で自分が死んでいても悪くない。 アルゼイ、という男に真剣に愛しても良いかもしれない。エレナは既にこの世界で幸福に生きることを決心している。 その相手がアルゼイになるかは判らないが、しかし今最も可能性がある男性でもある。
「前々から調べていたからな」
 ぼそっと、アルゼイは独り言を漏らす。きっと自分で言ったのも判らないくらい小さなものだったが、 しかしエレナはそれを正確に聞き取っていた。
「へぇ〜それは楽しみだわ」
「ん? 何か言ったか?」
「んーん、べっつにぃ〜」
 彼女は感じた。そうか、ここは楽しむべきなのだと。微笑が更に緩み、エレナは久し振りに心の温かさを得た。


「すまない、これをくれ」
 アルゼイはシーハーツの中にある本屋に来ていた。学生達も利用するため、学術誌の種類もその他出版物も豊富だった。
「はいはい。560フォルになるよ」
 と言われてアルゼイは金を出す。あくまで彼の行動は自然そのものだ。しかし店の店主はそうではないらしい。
「いやはや、若いもんはええのぉ」
 と自分の昔を懐かしむような表情をする。アルゼイは顔を少しだけ赤らめる。
「あいよ、兄ちゃん頑張りな!」
「あ、ああ……ありがとう」
 アルゼイの手におさめられる本。それをすぐさま自分の鞄の中に入れて誰も自分がこの本を買ったことを知られないようにする。
 その表紙に書かれていた題名。

 “恋の駆け引き、1・2・3!”

(全く、このような本に頼らねばならんとはな……)
 なら買わなきゃ良いのに、と彼自身思うのだが、しかしどうしようも無い。 研究室内のアルゼイのイメージはあくまでクール。冷静で誰もから頼られるそんな人間像になっている。 そのアルゼイとエレナの恋路は既に研究室内では最もホットな話題であって、きっと自分達が居ない場所ではどうなるか、 噂で持ちきりなのだろう。
 しかし現実はそんなことは無い。エレナが自分に対して好意を寄せているのは何となく判るし、それは自分も同じだ。
 だが、エレナは決定的に判らないのだった。何を考え、何を見ているのか。 いつも微笑を絶やさない美貌の持ち主の行動はアルゼイにとっては理解を超えるモノばかりだった。
 机の上はこれ以上ないというくらい散らかっている。今までどうやって生活してきたのかわからないくらいの彼女の知識の傾き。 一般的なことは殆ど興味は無い、と言っていたがしかしそれでも店で物を買う時はお金を払わなければならない、 ということくらいは知っていて欲しいものだ。 アルゼイはそのために、エレナの生活を補佐するという極めて自動的な立場へと変貌していっていた。
 当然エレナの部屋にも毎日のように訪れている。しかしそこで魅惑的なことが起こることもなく、 ただ彼女の部屋の掃除、そして彼女のご飯の準備と、まるで専業主婦のようなことをしているのであった。
(だが、そこに惹かれたのか? 俺は)
 何故そこに惹かれたのか自分でも良く判らない。しかし、間違いなく自分はエレナのことが好きになっている。 アルゼイは女性から多数のレターを貰っているが、そのどれもが彼の興味を引くものは無い。 アルゼイにとって興味があるのは現在没頭している研究テーマと、そしてエレナとのひと時であった。
 もっと彼女に近づきたい、しかしどうすればいいかわからない。だから本に頼る。 こういうことを話せる男友達が居ないことがアルゼイにこの選択肢を選ばざるを得なかった。
「あら。アルちゃん何してるの?」
 本屋から出て行こうとすると、扉付近で声をかけられる。自分のことをアルちゃんと呼ぶのはエレナしか居ない。 だから彼もそれに答えた。
「……エレナ。すまんがやっぱり外でその呼び方は少し困る」
「ん? なーにカッコつけてんのよ。そんなこと気にするような人じゃないでしょ」
 それは言いすぎだ。流石にこの年齢で、“ちゃん”付けされて恥ずかしいと思わない方がどうかしている。 ましてや一般人に聞かれるなどこれは物凄く恥ずかしい。
「いや、そんなことないのだが……」
「んなことどーでもいーわ。ちょっと付き合ってちょーだい」
 日に日にエレナの言葉使いは砕けていっている。 一応立場的には先輩と後輩の関係なのに、エレナはそんなことを全く気にせず接してくれる。よそよそしい感じも無い。
(そうか、それが良いのかも知れんな)
 エレナが自分の手を引っ張って歩く。彼は引きずられながら自分の立場を再認識した。
 アーリグリフからの留学生。
 それだけではなくアーリグリフの王位継承権を持つ、れっきとした王族だ。 まぁその継承順位は十二位という低いものだが。
 しかしそんな末端の自分でさえあの国の貴族達は疎ましく思っていたのだろう。 貴族達は自分にやんわりと圧力をかけ、シーハーツに留学させて王位継承から遠ざけた。
 今となってはそんなものまるで興味ないし、アーリグリフへの魅力も殆ど無い。 しかし周りはそんな自分の事情を知ってか、知らずか、恐らく噂程度だがどこかよそよそしい。 自分はここでの生活をもっと自然なものにしたいのに、自然に接してくれない周りが少しばかりショックだった。
 それが全く無いエレナ。まぁただ知らないだけかもしれないが、恐らく知ってもこの態度は変わらないだろう。
 このエレナならば、だ。
「どこに行くんだ?」
「それは行ってからのお楽しみ」
 そう言って彼女ははぐらかす。どこに連れて行かれるのか、それはアルゼイには判らない。
 しかしそれでも、どこでも良いような気がする。
 こうして、手を引っ張られるのがたまらなく心地良い。
 恋の駆け引きはまるでわからないアルゼイであるが、それも悪くない。
 だから、ここはひとまず。

「流されようか」
「何に?」
「気にするな」


− Fin −




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