帰郷

「ふぅ〜。さすがにこっちまで来ると、暑いですぅ」
 ファリンは上着を脱ぐと、手をぱたぱたと動かして風を送った。
「だから暑いだけで、何も良いことないよって言ったのに」
「いーんです。タイネーブのお家に〜、お邪魔できるのは滅多にない機会なんですからぁ」
「せっかくの休暇を使ってまで、見に来るほどのものでもないのに」
 タイネーブは大きく溜息をついた。
 彼女たちは現在、長期休暇を上司から与えられている。 その話を聞いた時、タイネーブはせっかくだからと、一年前に帰省した実家に顔を出すことにしたのだ。 彼女の実家は王都から離れているため、こういうまとまった休みの時にしか帰ることはできない。
 タイネーブは相棒が彼女なりの過ごし方をするのだろうと思っていたのだが、 荷造りをしているタイネーブの所にやってくると、自分もついていくと宣言したのだ。 ――もちろん、タイネーブに拒否権は用意されていなかった。
 一応、北の方だから暑いとか、これといった観光名所はないとか、相棒の気持ちを翻させるためのことは伝えたのだが、 何しろ彼女はタイネーブだった。そして相手はファリン。言いくるめることはできなかったのである。
 かくして彼女たちは、北方に訪れた早い夏の日差しの中を馬で旅することとなった。
 路傍を見れば北方ならではの独特な形をした植物があり、濃い緑の葉が美しい。 タイネーブにとっては懐かしい景色であり、ファリンにとっては物珍しい光景であった。
「うわぁ〜、甘い香りの花ですぅ」
「ああ、あれはフランジパニーっていうの。うちの庭にも咲いてるよ」
 やや肉厚な白い花弁をつけた花を見ながら、タイネーブは解説した。 ファリンに対して解説するなんて、滅多にない機会だなぁ……と彼女は思う。
「へぇ〜。何だか不思議な感じですぅ」
「どうして?」
 タイネーブは首を傾げた。王都の方では見かけることはないが、この辺りではよく見かける植物だ。
「タイネーブが〜、花の名前を知っているってことがですぅ」
「……そう」
 手綱を握っているタイネーブの手にちょっぴり力がこもった。
 何か危機的なものを感じたのか、馬がひひんと嘶いた。

「エネ・サニルって書いてありますよぉ」
「うん、それが村の名前だから」
 馬が感じた恐怖が現実となることもなく、彼女たちは無事にタイネーブの故郷の村へと到着した。
 懐かしい門をくぐると帰ってきたという実感が湧いた。 村の中は人通りもあるので、馬から下りて歩きながら家へと向かう。
「タイネーブのお家はぁ、寺院なんですよねぇ?」
「うん、そう」
 この地域の寺院というものはアペリス教の教えに基づく神殿と根は同じであるが、性質は異なる施設の名称である。 神殿は神々への祭祀や布教を積極的に行っているが、寺院は地域に根ざした祭と自らの修養に重きを置いている。 大きな都市における他者や他機関との関わりが必要な神殿に対して、 寺院は地域の中だけで活動を行うが故の特性を持つ施設となったのだろう。
「じゃあ、タイネーブはそこで武術を学んだんですか〜?」
 ファリンの問いかけに、彼女はこくりと頷いた。
「父さんが師匠なの。私のほかにも習いに来ている人がいてね、道場っていうのかなぁ……そんな風になってた」
「ふぅ〜ん、でぇす」
「あとね、健康法っていうか、子どもやお年寄りを集めて体操もやっていたよ。 それから父さんは字が上手かったから、それを教えたり……もちろん、お祈りや儀式もしてたけど」
 子どもの頃は祈りのためにずっと座るのが結構苦痛だったの覚えている。
「色んなことをやっているんですねぇ。お父様にお会いするのが楽しみですぅ♪」
 ファリンはにこにこと微笑んだ。彼女の素性を知らない人間が九分九厘の確立で騙される笑顔である。
「そ、そう……あはは」
 タイネーブはひきつり気味の笑顔になる。 相棒がこんな風に笑う時は、後になってとんでもないことが起きる確率が五割ほどあるのだ。
「タイネーブはぁ、この村で大きくなったんですね〜」
 エネ・サニルの村はシランドの町とは家の作りが異なっており、ファリンの目には異国にでも来たかのように映った。
 木造の家が多く、床は高めに作られている。 屋根は茅葺になっているものが多い。窓にはガラスが嵌められておらず、カーテンがかけられているか、 草を編んだものに木枠を付けたものが嵌めこまれていた。
 何軒かは石や漆喰で作られた建物もある。 独特の建築様式で作られたものは古くからある建物で、そうでないものは新しい――シランド風の建物なのだと、 タイネーブが教えてくれた。
 石造りの大きな建物――村の役所らしい――の前では、露店がいくつかあった。 その内の一軒の店主は、タイネーブを見つけると一通りの挨拶の後に、極彩色の果物をいくつか持たせてくれた。
 ありがとう――と、礼を言い、素直に受け取るタイネーブを見ていると、自分との性格の違いを改めて思い知らされる。 自分は笑顔で礼をいうことはできるが、きっと受け取らない――そんな気がしたのだ。 何か他意があるのではと常に勘ぐってしまい、無償の行為というのはどうしても苦手だった。 それでいてそれを悟られまいと、笑顔の仮面を張り付かせている。
(今、気にすることじゃないんですけどね)
 タイネーブとはそういった性格の違いがあるからこそ、上手くいっているのかなぁ……と、彼女なりに考えている。 口に出したりしないし、確固たる考えがあるというのでもなさそうだが、おそらくタイネーブは自分の裏表を直感で悟っているだろう。 それでいて、相棒となることが決まった頃から、変わらぬ付き合いが続いている。
 程よい距離感と信頼、それが心地好いとファリンは思う。けれども、それを口に出すのはどうにも気恥ずかしく――。
 彼女たちがそのまま少し歩くと、太陽の光を受けてきらきらと輝く湖に突き当たった。 弱い波が湖畔に打ち寄せる音が聞こえる。
「あれが私の家」
 タイネーブが湖畔の一角を指差すと、そこには大層立派な建物があった。
「大きな家ですね〜!」
 灰白色の石を積んだ外壁が土地の周囲を囲んでいて、その中には白や薄い黄色に塗られた壁の建物が幾棟も建っている。 中には湖に張り出している部分もあり、暑さを凌ぐのに良さそうだ。 建物の屋根には棟ごとに違った色の瓦が使われていて、塀の向こうに見える庭木の花々にも負けないくらい鮮やかだった。 開放的な作りなのか、軒下には大きな窓が作られており、そこにはくっきりと模様が染められた白布がかけられている。 湖から吹いてくる風を受けて、涼しげにはためいていた。
(ああ、久しぶりに帰ってきたんだな)
 自分が家を出た時とさほど変わらぬ姿を見て、彼女は改めて帰郷したのだと実感した。


 そこは長方形をした広い部屋だった。隅の方に修練用の器具がある他は、ほとんど家具らしいものはない。 一つだけ印象に残るものがあるとすれば、壁の一角に掲げられた古めかしい書画だけ。
 ぴかぴかに磨かれた板張りの床には、一人の男が座していた。
 ぴくりとも動かず、目も開けず、彫像のようであったが、その男はもちろん作り物でも死人でもない。 体内の気を整え、世界の気脈を感じ取り、それに同調するという精神修養の最中なのである。
 彼が達人の域に達していることは、少しでも武術を齧った者であれば誰でも判ったであろう。 この空間に流れる空気は深い海のような穏やかさの中に、鋭い牙を持つ海獣がいるかのような冷たさを孕んでいたから。
 しかしながら、その空気を感じ取ることができぬ者も世の中にはいるようで……。
「先生! タバナン先生っ! 今日は先生にお願いがあって参りましたっ」
 瞑想中の男――タバナンの背に大きな声がかけられた。
 突然の来訪者――その存在よりもその剣幕――にも動じることはなく、部屋の主は器用に片眉を吊り上げた。
 バタバタと大きな音を立てる足音からは、来訪者に武術の心得が全くないことを感じさせる。 しかし、タバナンは怒りもせず、苦笑しながら振り向いた。
「珍しいね、君がこんな大きな声を出すなんて」
「あ……す、すみませんっ。つ、つい慌ててしまって」
 来訪者――まだ若い男性は、顔を赤らめると真面目さを感じさせる表情でぺこりと叩頭した。
 そこに立っていたのは、さらさらとした褐色の髪が爽やかな印象を与える、なかなかの美青年だった。 武よりは文に長けていそうな物腰で、慌てていながらも落ち着きと穏やかさを持つ人のように感じられる。
「久しぶりだね、タリム君。エネ・サニルに戻ってきたってことは、修行の方は終わったのかね?」
「は、はいっ。僕も二十歳を過ぎて、ようやく稼業を継ぐ者として一人前と認められたようです」
「そう。それは何より……ああ、そうか。もうそんな時期になったのだねぇ」
 タバナンはどこか遠くを見つめるような目をして、うんうんと頷いた。
「今日はあの子も帰ってくるんだよ。せっかくだから、このまま夕餉でも一緒にどうかね?  王都での勤めが忙しいらしくて、手紙もろくに寄越しはしない親不孝者の久々の帰還を歓迎してくれたまえ」
 タバナンは優雅な動作で立ち上がると、ちょろりと生えた髭をつついた。
(タリム君、働き始める前のあの子のことしか知らないみたいだけど、大丈夫かねぇ……)


「ただいま、母さん」
 二人は馬丁に馬を預けると、ひっそりとした玄関をくぐった。 広さの割には人が少ない屋敷なのである。というのも、本日は道場での稽古は休みであり、特に祭祀も行われていないからだ。 大した理由もなく人が集まり、会話や飲食を楽しむことも多々ある家だが、それはもう少し暗くなってからのことなのだ。
「お帰り、思っていたより早く着いたのね。今日は夜から雨が降りそうだから、晴れているうちに着いて良かったわ」
 家事の最中にたまたま通りかかったのだろう、タイネーブの母――ササナは乾いた洗濯物を入れた籠を抱えていた。
「タイネーブのお母様ですかぁ? 初めましてですぅ、ファリンと申しまぁす」
「ああ、あなたがファリンさんなのね。お話は聞いているわ、いつもうちの子がお世話になっているようで」
 ササナは中年女性特有の優しい笑みを浮かべると、丁寧にお辞儀をした。
「母さん、お世話になってるんじゃなくて、私が迷惑をこうむ……う」
「変なことをいうのはこの口ですかぁ?」
 ファリンがタイネーブの口を引っ張った。その目にはタチの悪いニヤニヤ笑いが浮かんでいる。
「い、いひゃい」
「えい、えい〜」
 ササナは呆気にとられた様子で娘たちを見ていたが、ほどなく肩を震わせて笑い出した。 今にも籠を取り落としてしまいそうなくらいに。
「もう、それくらいになさいな。あなたたちが仲良しなのはよ〜く解ったわ」
「そんなんじゃないのに〜」
「さ、シランドからここまで長旅だったのでしょう? お湯は沸いているから、汗でも流していらっしゃい」
 タイネーブは母親に抗議したくてたまらなかったが、風呂の提案は魅力的だった。 旅疲れはもちろん、エネ・サニルに近づくにつれ気温は上昇しており、肌が汗ばんでいたのだから。 年頃の女性としては身奇麗にしたいところである。
「うん、そうす……」
「お風呂、いただきまぁす!」
 挨拶もそこそこの状況だというのに、ファリンは家人であるタイネーブを遮って大きな声で返事をした。

「うぅ……いいお湯ですぅー」
 うっすらと湯気が立ち込める中、ファリンはうっとりと呟いた。 温かい湯に浸かって、魂まで溶けていそうな声である。
 この家の湯殿は個人の家にしては広々とした造りであった。 浴室そのものも、木製の湯船もたっぷりとした大きさで、一度に十人ぐらいの人間が入れそうだった。 それもそのはずで、タイネーブの父親の弟子や、何かと理由を作って集まる―― 理由もなく集まることも頻繁――近所の人間や親戚たち、そういった人々が使うことを想定して造られているのである。
「エネ・サニルって良い町ですねぇ。私、この町にずっと住んでも良いかもですぅ……」
 そう言いながら、ファリンは水面に浮かぶ白い花びらをつついた。
「これも良い香りですー」
「これ、母さんが用意しておいてくれたみたい。普段はこんなにたっぷり入れないのに、ファリンのために奮発したのかなぁ」
 湯船の反対側に身を沈めていたタイネーブは、手のひらに薄紅色の花びらをすくいながら答えた。
 彼女たちが入浴するために湯殿へ行ってみると、脱衣所には大きめの深皿に色とりどりの花びらが盛ってあった。 ファリンは室内調度の一つかと思ったのだが、タイネーブは皿を抱えると浴室に入り、おむろに花びらを浴槽にぶちまけた。 途端、花畑に放り込まれたかのような香気が広がったのである。
 白、檸檬、黄色、橙、赤、薄紅、藤色、濃紫……様々な色をしているので、見た目も楽しい。 二人は早々に体を清めると、香りに誘われるかのように湯に身を浸したのである。
「でも贅沢ですよねぇ、こんなにたっぷりのお湯が使えるなんて」
「どうなんだろう……? この辺りってお湯が湧くんだよね。バール山脈の方の何て言ったっけ?」
「ウルザ?」
「そう、それ。そこの温泉みたいに」
「そうですかぁ……この辺りに火山ってありましたっけぇ?」
 ファリンは首を傾げた。温泉と火山は切り離せない間柄のはずだ。
「近くにはなかったよ。ずーっと昔に北方の海が夜中に火を噴いたって話は、子どもの頃に聞いたことあるけど」
 確か祖父から聞いた話だ。祖父は北側の空が赤くなったのを見たと言っていた。
「何か秘密があるんですかねぇ……不思議」
 この辺りに湯が沸く理由は火山によるものではない――もちろん、 ファリンが知らないだけで、火山性でない温泉も世の中には存在している。 今のところ原因を探った人間はいないが、それでもお湯は利用できるものであり、 利用できるのなら少々胡散臭くても利用してしまえというのが人情である。
 だが、彼女の疑問ももっともである。 この付近は、シーハーツ国内にしては不思議なくらい温暖な地である。 大地と熱に関わる秘密が存在していたとしても不思議ではない。
「そろそろ上がろうか」
「はいです〜」
 あまりの気持ちよさに眠りそうになった二人は、湯と眠りに沈没するよりも先に風呂から出ることにした。
 おそらく、この後は美味しい夕食が待っているはずだ。 それまで夕暮れの涼しい風にあたって、火照った体を冷ますというのも悪くない。


 陽が沈み、エネ・サニルの空は夜の静けさを迎えた。 いつもなら、空には無数の白い砂粒を撒いたように星々が煌いている。 しかし、今夜は雲が出ており、古の詩人たちが褒め称えた美しい夜空を見ることが出来なかった。
 その代わりと言っては何だが、村の家並みは不思議な雰囲気を醸し出している。 街灯はほとんど無いが、家々からもれる明かりが幻想的な風景を作り出しているのだ。
 夕方から開花する晩香玉が暗がりの中、乳白色の花びらがぽっかりと浮かび上がらせていた。 晩香玉はその名の通り、夜間に強い芳香を放つ。 その神秘的な姿から、この地方ではアペリス神に捧げる儀式や結婚式などで使われている。
 しかし、今の時間、人々の鼻腔を満たしているのは何と言っても食事の匂いであった。 どこの家でも夕食を調理し、食べていることだろう。 もちろん、この家でも。

「うわ〜、美味しそうな匂いですぅ」
 厨房に足を踏み入れたファリンは、鼻をひくつかせた。
 もともと大きめに作られているタイネーブの実家である。 ファリンとタイネーブが入り込んだ厨房も、宴会の支度ができそうなくらいの設備を誇っていた。 窓際に作られた竃は三個、さらに作りつけの石窯もある。 流し台は広々としており、大きな食器も楽に洗えそうだ。 中央には大きな卓があり、基本的な調理はもちろん、麺やパンを作ることもできそうな様子である。 さらに、そこには出来上がった料理を幾皿も載せられる。何にでも使えそうな便利な場所だった。
 廊下に続く扉がある壁側には、棚が並んでおり、食器や調味料が収められている。 調味料の種類はかなり豊富なようで、薬屋の棚のように札が付けられ、スパイスやハーブが丁寧に分類されていた。 ファリンが匂いを感じたのも、それらを上手く使った料理が作られているからこそであろう。
「もうすぐ支度ができるからね、食堂で待っていて頂戴」
 厨房の中央で盛り付けをしていたササナは、娘の姿を認めると朗らかに言った。
「母さん、私たちも手伝う」
「そうかい、じゃあ……井戸のところで胡瓜キュウリ蕃茄トマトを冷やしてあるから、 持ってきてくれるかい。よく冷えたのを出したいから、一番最後にしておいたのよ」
「うん」
 返事をすると、タイネーブは勝手口から出て行った。
「えーっとぉ、私がお手伝いできることってありますかぁ?」
 泊めていただくのだから、手伝いぐらいはせねばという殊勝な心がけである。
「そうだねぇ、あんたはお客さんだし……」
 ササナは首を傾げる。
「何でも言ってくださぁ〜い」
「そうね。こっちの大皿、もう盛り付けが終わってるから食卓の真ん中に持っていってくれるかい?」
「了解ですぅ」
 ファリンは大きな皿を器用に二つ持つと、よどみの無い足取りで厨房を出て行った。
「うーん、さすがに足取りはしっかりしてるわね」
 後姿を見送ったササナは呟いた。どこか嬉しそうな様子である。
「タイネーブちゃんのお友達ですものね」
 鍋の面倒を見ていた嫁のマノリが微笑んだ。
「お義母さん、こちらも丁度良さそうです。最後に味を見て頂けますか?」
「はいよ……うん、良い味。マノリの料理も、すっかりこの家の味になったねぇ」
 マノリの味付けに満足すると、ササナはよっこいしょとい言いながら、大きな鍋を竃から下ろした。
「母さん、胡瓜とか持ってきたよ」
 そこへ、小ぶりな桶に胡瓜と蕃茄を入れてタイネーブが戻ってきた。 濃い色をした野菜は冷たい水でよく冷やされている。
「ああ、ありがとう。マノリ、適当に切ってくれるかい。この娘に包丁を持たせちゃいけないからねぇ」
「はい」
 マノリはくすくすと笑いながら、タイネーブから野菜を受け取ると、慣れた手つきで切り分けていく。
「タイネーブは胡瓜につけるタレを壷から小鉢に入れておくれ。それくらならできるだろう」
「もう、母さんはひどいなぁ。そりゃあ、マノリ義姉さんのようにはいかないけどさ……」
 遠慮の無い母の言葉に、ぶつぶつと文句を言いながら彼女は棚から壷を取り出した。 蓋をあけると食欲をそそるような、程よい酸味を帯びた匂いが感じられた。 これを野菜につけると食欲がない夏場でも、たくさん食べられるから不思議だ。
「入れたよ〜」
 悪戦苦闘しながらタレを注いだ小鉢を手にすると、義姉の方へ持っていった。 野菜が盛られた器の中央に小鉢を置くのである。
「ありがとう、後は運ぶだけですね」
 そこに先ほど出て行ったファリンが戻ってきたので、彼女たちは残りの料理と飲み物を運び出した。


 食堂に集まったのは男女合わせて八名。ほとんどがタイネーブの家族で、そうでない人間が二名である。 ここはその全員が座っても窮屈さを感じさせない、広い部屋だった。
 床は板張りだが、青々とした草を編んだ敷物が敷いてあり、さらに各自のお尻の下には柔らかい座布団があるので快適だった。 彼らは二つ続けて並べた台盤テーブルを囲んで座っている。 その台盤の上には、ササナとマノリが腕を振るった料理の他、お酒や冷茶などがたっぷりと載っていた。
 食事が始まる頃には、外は雨模様になっていた。この地方特有の短時間で終わる集中豪雨のようである。 激しい雨が庭に植えられた木々の葉を叩いている。
 しかし、室内はいたって快適な状態であったし、ファリン以外の人間にはこの豪雨も慣れたものである。 すぐに止むことも判っているから、誰も慌てたりしない。 むしろ、月と雨の女神パルミラの腕に包まれているかのような安らぎを覚えるくらいだった。

「まずは食事の前にお客さんの紹介をしようかねぇ」
 そう言いながら、家長のタバナンが自分の定位置である席に腰掛けた。
「こちらの好青年はカンナイ薬草園の坊ちゃんのタリム君。あちらの美人さんはタイネーブの同僚のファリンさん」
 簡潔すぎる紹介であった。
「美人だなんて、恐縮ですぅ」
 大雑把な紹介さえも気にするう風もなく、ファリンは得意の営業スマイルで恥らった。 横でタイネーブがひきつった顔をしているのには、もちろん知らぬふりである。 しかし、食卓の影で彼女の太腿をつねるのは忘れなかった。
「久しぶりに帰ってきた親不孝者とお客さんに乾杯〜」
 少女たちの水面下のやりとりに気づかぬ様子で、タバナンが陶器の酒杯を掲げた。他の面々もそれに倣うように杯を持ち上げる。 これがこの家に客が来た時の習慣だった。
「いただきまーす」
 太腿の痛みをこらえて元気な声を響かせたのは、もちろん最年少のタイネーブだ。 久しぶりに使う自分の箸を持ち、好物のおかずに手を出した。
 とろとろに煮込んである豚の角煮である。 八角スターアニスの香りが肉の臭みを消してあり、濃い目の味でご飯が美味しくいただけるという一品だ。 一緒に鍋に放り込まれていたであろう、薄茶に色づいた煮卵も一緒に小皿に入れるのを忘れなかった。
「うぅ〜ん、これ、とっても美味しいですぅ」
 ファリンが世界一幸せといった表情になったのは、新鮮な魚介を使った和え物だった。 しゃきしゃきとした野菜の食感と、魚介類の味が何ともいえない調和を生み出している。 お酢を使ってあるため、さっぱりとした味付けであるので、いくらでも食べられそうだと思った。
(これならたくさん食べても、太る心配もないですしぃ……)
 ファリンは自分のお腹の辺りをちらりと見た。
「久しぶりの我が家のご飯なんだから、たっぷりお食べなさい」
 相変わらずの食欲を見せてくれる末娘に対し、ササナはにっこりと笑った。 そして、早くも空になったタイネーブの茶碗に、おかわりをよそう。
「今回の休みは何日くらいあるんだ? 少しはゆっくりしていけるんだろう?」
 食事がだいぶ進んできた頃、よく陽に焼けた顔の兄ティルタが問いかけた。
「……んっと、今回は二週間のお休みをもらったの。次の雲の日にこっちを出て、シランドに戻れば大丈夫……だよね?」
 最後の“だよね?”は隣にいたファリンに向けられた言葉である。
「はいですぅ」
「何だか頼りないなぁ、うちの妹は……」
「兄さんの小言はもういらないもん」
 眉間に皺を寄せた兄に対し、タイネーブはぷうっと頬を膨らませた。
 ちなみに、シーハーツをはじめとするゲート大陸の主な国では七日を一週としていた。 一週は星の日から始まり、土・水・雲・火・光と続き、最後に夢の日を迎えて、翌週となる。 大抵の地域では夢の日が休日である。
「わたしがぁ、この子をしっかり監督しているので心配しないでくださいね〜」
「そうかい。不出来な妹だけど、よろしく頼むよ」
まっかせてくださぁい」
 きゃらきゃらとファリンが笑う。頬がほんのりと赤くなっているので、酔いが回っているのかもしれない。
「タイネーブちゃんはしっかりしているもの、大丈夫ですよ」
 嫁のマノリがティルタに微笑んだ。
 よく出来た女性であるマノリは、タイネーブにとって憧れの女性像であった。 美人だし、何事にも鷹揚な態度には、自分もよく助けられている。
(わたしも義姉さんの様になれたら良いのに――)
 今でも彼女はそう思うことがあるようだった。
 悶々とする瞬間が多少はあったが、目の前のご馳走には敵わなかった。
(悩みながら食べると、ご飯って不味くなるっていうよね)
 彼女は無言で頷くと、余計な思考を頭から追いやった。
「母さん、おかわり!」

 その後もそれぞれの近況報告やら、王都の噂話などに花が咲いた。 久しぶりの家族の集まりであるだけに、話題が尽きぬようであった。
「さてと……そろそろ本題に入ろうかねぇ」
 愛飲している酒を楽しんだ父タバナンが、食卓にコツンとお銚子を置いた。
「本題?」
 怪訝そうな顔をしている一同を代表し、長男のティルタが父に問うた。
「今日はねぇ、発表というか、披露というか……そんなものがあってねぇ」
 タバナンの口調はいつもと変わらず、のんびりしとしたものである。 その口調は不思議と聞く者を落ち着かせるのだが、今回は一人だけ落ち着きをなくしている者がいた。
「実はねぇ、タリム君がねー」
 そいうってタバナンは隣に座っていたタリムの肩をぽんぽんと叩いた。
 タリムは緊張しているのか、顔を俯かせてひどく落ち着かない様子だった。膝の上で両の手が固く握られている。 食事の時は終始穏やかで、問われるままにペターニでの修行の話などをしていたのに、えらい違いである。
 ややあって彼は面を上げる。
「せ、先生。自分から言わせてくださいっ」
 タリムはタバナンの発言を遮ると、座布団から立ち上がり、食卓の脇に来て正座をする。 そして一同に顔を向け、しっかり前を見つめると口を開いた。
「不躾なお願いであることは重々承知しておりますが……タバナン先生、ササナさん、タイネーブさんを僕のお嫁にください!!」
 世界から音が無くなったかのように、しん――と室内は静まり返った。
「わ、素敵♪」
 ぽんと手を合わせて、目を輝かせたのはマノリ。
 嫁とは正反対に心配そうな顔になったのは母のササナだった。
「タリム君みたいに立派な人に貰ってもらえるなんて嬉しいことなんだけど、うちの娘で大丈夫かしら……」
「タイネーブちゃん、良いお嬢さんですもの。大丈夫ですよ、お義母さん」
「でも料理は最悪だけどね〜。ま、タリムんなら、使用人もいるし心配ないか」
 冷静なツッコミを入れたのは姉のチュルクだ。彼女はタリムと同級生だったので、呼び方も気安い。
 三者三様の反応だが、特に否定的なものはいない。女性の性なのか、突如として噴出した桃色の話にわくわくしているようだった。
「と、とと、父さんはどうなの?」
 大事な末妹の将来を決める話であるだけに、兄のティルタはのん気な様子ではいられない。 助けを求めるように父親の顔を伺った。
「いやぁ、実は随分前に約束しててねぇ。タリム君がペターニに商売の修行に出る前だっけ?  一人前になったら戻ってくるから、その時にタイネーブに意中の人がいなければ、結婚させて欲しいと言われてて」
「いいよって言っちゃったワケェ?」
 ティルタは半眼で父を睨んだ。
「あの頃はタリム君も若かったし、タイネーブもちびだったし……。約束を果たす頃には気も変わってるかなーって思っててねぇ」
「軽い調子で受けちゃったのか、父さんはっ?」
「まあ、いいじゃない。タリム君、良い子だし。お医者さんもできるから、将来安泰だし」
 のほほんとした表情でタバナンは頷いた。そして、いつの間に手にしたのか、湯飲みに入った茶をずずっと吸った。
「まったく父さんはぁ〜! ……で、肝心のタイネーブはどうなの?」
 これで好きな人がいると言われても困るなーと思いつつ、ティルタは末妹の方を見た。
 タリムもタイネーブをじっと見つめる。
 全員の視線を集めたタイネーブは……
「ぽひー」
 ――バタッ。
 顔を真っ赤にして謎の音声を発すると、今にもプシューっと湯気でも噴出しそうな様子でひっくり返った。
「タ、タイネーブ。大丈夫ですかぁ〜?」
 ファリンは、考えすぎて頭が沸騰してしまったらしい相棒の顔を覗き込んだ。 心配しつつも、一生を左右しそうな場面で決まりきらない相棒の様子が、あまりにも彼女らしいと思った。 ファリンは気を失ったタイネーブの後頭部の具合を確かめると、密かに口元を綻ばせた。
(タイネーブにはまだ早すぎたみたいですぅ)


 ふと目を覚ましたタイネーブは、周囲の状況を確認した。 雨はもう止んでいるらしく、窓からは煌々とした月明かりが差し込んでいる。 『闇』に所属している彼女にとって、周囲を確認するには十分な明るさだ。
 ここは自分が育った部屋で、自分は夜着を着て寝台に横たわっていたらしい。 寝台の傍らを見てみれば、床に一組の布団が敷いてある。しかし布団はからっぽだ。
(今、何刻ぐらいかな……)
 食事時のことを思い出し、あれからどうなったのか気になった。 家族はどうしただろうか、タリムさんは怒ってしまっただろうか――。
 その時、僅かに音を立てて部屋の戸が開いた。
「あ、気がつきましたかぁ〜」
 戸を開け、部屋に入って来たのはファリンだった。こちらも夜着に着替えており、いつでも寝られそうな状態である。
「ファリン……。ええと、あの後どうなったんだっけ?」
 心臓がどきどきして、呼吸が苦しくなって、頭の中にいろんな言葉が浮かんできて、 全てがぐるぐると回りだしたような感覚になったところで、自分の意識は途切れている。 それでも最前のことは覚えているので、どうしても気になった。
「あの方――タリムさんはぁ、とってもタイネーブのことを心配していましたよぅ。 明日、様子を伺いに来ますって仰ってましたぁ」
 ファリンはタイネーブが一番気にかけているであろうことを、簡潔に説明してくれた。
 すなわち、タリムは特に気を悪くしたりせず、それどころか大変恐縮していたこと。 タイネーブの様子が落ち着いたら、改めて話をしたいと言っていたこと。 また、自分の気持ちは今も変わらず、今日の発言を翻すつもりはないということ……などである。
「そう……」
 タイネーブは布団から起き出し、寝台を背もたれにして床に座った。
「これはぁ、ササナさんがさっき置いてってくれたものですぅ」
 そういうと、ファリンは水差しから薄茶の液体を小さな茶碗に注いだ。 それを二つ手に取ると、そのままタイネーブの横に腰掛ける。
「少し水分を取った方が良いです」
「うん」
 言われるままに茶碗に口をつけると、ほのかな香気が口中に広がった。 よく冷えているというより、ぬるい温度だったが、寝起きの体にはかえって丁度良かった。
「何だか今夜は寝付けなさそう」
「そうですねぇ」
「ファリンはどう思う? あの人のこと、結婚の申し込みのこと……」
 月明かりの中、タイネーブは相棒に尋ねた。
「良い〜結婚相手だと思うですよぉ」
「……それだけ!?」
「そう、それだけです」
 もうちょっと具体的な回答を求めていたタイネーブに対し、ファリンはごくあっさりとそう言った。
「人とぉ人とがぁ、お付き合いをする時にはぁ、相性っていうのがあるんですぅ。 あの男性はぁ、タイネーブとだったらぁ、上手くいくと思いましたぁ」
 ファリンは心中でこっそりと、こう付け加えた。 すなわち、自分とああいう男性は相性悪いだろうし、自分としては願い下げだなぁ……と。
 彼女は、自分の婿になる人ならシーハーツで――いや、世界で一番の男でなければと思い決めているのだった。 世界一の男性であれば、多大な障害などぶっとばして――ぶっとばさせるつもりである。
「タイネーブはぁ、嘘がへたくそです」
「な、何よう……いきなり」
「その分と言っては何ですがぁ、タイネーブの前では他の人も嘘が下手になるようだと思うのでぇす」
 素直に“誰もが本音で接することができる”とか言ってやりたいのだが、いかんせん彼女はファリンであった。
「よく考えてぇ、お受けするなら受ければ良いとぉ思うでぇす」
「で、でも、仕事のこともあるし……」
「どっちが大事なんですかぁ、この贅沢者めぇぇぇでぇす」
「う……」
「あの方、しばらくはペターニの拠点で活動されるとかぁ、仰ってましたぁ〜。 シランドとペターニならぁ、そんなに離れてないですぅ」
 ニヤニヤと意地悪そうな笑みを浮かべてファリンは言った。
「そっか……良かった。って、知ってるなら先に言ってよ」
「あの程度のことで〜、気絶するタイネーブが悪いんですよぉ。まずは結婚よりもぉ、お付き合いから始めなきゃダ〜メですぅ」
 そう言うと、ファリンはおもむろにタイネーブの頬を引っ張った。むにむにと餅のようによく伸びる頬だった。
 子供っぽくて、馬鹿で、おっちょこちょいで。
 しかしそれを不快と感じさせない、真っ直ぐさ。
 それが彼女の長所なのだろう。 それは不思議と他人にも伝染するようで、仮面をかぶり慣れた自分でも彼女の前ではどこか調子が狂わされる。 しかも本人が気づかぬうちに、だ。
 いつか、この相棒の前以外でも素の自分で振舞う日が来るのだろうか?  そんなことを考えながら、彼女は相棒の頬を引っ張り続けた。

「ファリン……今まで、全くもって気がつかなかったんだけど。ファリンってすごく良い人なんだね」
 ようやく餅伸ばしの刑から開放され床に就いたタイネーブが、傍らの布団で眠るファリンに対して話しかけた。
「気がつくのがぁ、遅すぎですぅ」
 ともすれば寝言間違えそうな、とろんとした声でファリンが答える。
「まずは明日、話をしようと思うの」
「ふぅん、どういうんですかぁ?」
「えっと……シランドとペターニで中距離恋愛から始めませんかって」
 タイネーブの答えに対し、ファリンは布団の中で吹き出した。 彼女の提案は何かタチの悪い勧誘のようである。
「……もう、ひどいじゃない。笑うなんて……ファリンが教えてくれたことから始めようと思ったのに〜」
 先程、ファリンが言った「お付き合いから始めなきゃ〜」をタイネーブはちゃんと聞いていた。 それが自分に対する助言であることも理解していたのだ。
「やっぱりぃ、タイネーブはタイネーブですぅ。私が付いてなきゃダメですぅ」
 笑いすぎで痛むお腹を押さえながら、ファリンは布団の中でごろごろと転げた。 やはりタイネーブはまだまだ子どものようである。
「もうちょっとぉ、言い方に気を配るのが大人の女ってものでぇす」
 ようやく笑いの発作を止めたファリンは布団の上で仰向けになると、少し首を傾けて窓の外の風景を眺めた。
(明日は面白い一日になりそうですねぇ。やっぱりタイネーブの実家に来て良かったですぅ♪)
 彼女はゆっくりと瞼を閉じると、ゆるゆると深い眠りへ落ちていった。


−Fin−


執筆者:くろ☆管理人