長い廊下の果てには大きな扉があった。
 アペリスの聖女にして、この国の王たる人物がいます部屋へと続く扉である。
「この扉を開けたらもう後戻りはできない……」
 この場にいる二人の人間のうちの一人、赤い髪をした娘が呟いた。
「あら、緊張しているの?」
 もう一人が赤毛の娘に囁いた。
「それはもう、かなり」
「少しもそうは見えないんだけど」
 赤毛の娘の答えを受けたその声はからかっているような口調だが、その眼差しには深い信頼の念が込められている。
「この顔は生まれつき……さあ行こうか、クレア」
「ええ、ネル」
 二人――ネルとクレアは顔を見合わせ穏やかに微笑むと、扉に手をかけた。

 これは聖王国のこれからを担う女性たちの物語。



聖なる都の長い一日



 東の地平線から太陽が昇り、長い歴史を誇るシランドの町並みを爽やかな朝日が照らし出した。
 聖王国に仕える貴族の屋敷が立ち並ぶ区画は程よい静けさに包まれている。 チチチ……と元気な小鳥の声が、街路に響き渡るくらいだ。 これが下町であれば、朝早くから家事に精を出す家々の賑わいや、人々が行き交う市場の売り子たちの声が騒がしかったことだろう。
 しかし閑静な一角にある貴族の屋敷とて、未だ眠りについているわけではない。 下仕えの人々は主人に快適な朝を迎えてもらうべく、ひっそりと気を使いながら朝の勤めを果たしていたし、 政治と軍事を一手に担う貴族達は日中の勤めに備えて起床している。
 そんな貴族の屋敷の中の一つ、ゼルファー邸の朝は女達の挨拶から始まる。
「母様、おはよう」
 きっちりと身じまいして食堂へ入ってきた娘のネルに声をかけられると、リーゼルは「おはよう」と挨拶を返した。
 二人が席につくと、程なく朝食が運ばれてきた。
 白い丸皿の中央には半熟の目玉焼きがあり、余分な脂を落としてカリカリにしたベーコンが添えられている。 その隣のボウルには新鮮な生野菜を見目良く盛ったサラダがあった。 キツネ色に焼いたトーストからは、小麦の香りがふんわりと漂っている。 ガラス製のピッチャーには絞りたての牛乳と、よく冷やしたオレンジジュースが用意されていた。
 どれをとっても健康な若者なら食欲を刺激されてたまらないはずの朝食。 だというのに、ネルはすぐに手を出さなかった。 ちらりと母親の顔を伺う。
 そんな娘の様子に気が付くと、リーゼルはくすりと笑った。 どうやら聡明な娘は、それ故に色々と悩み事があるらしい。
「さ、冷めないうちに食べましょう」
「あ、うん。いただきます」
 ネルは母親に促されるようにしてフォークを手に取ると、一口ずつ朝食を口に運んだ。
 しばらく二人は黙って食べ続けていたが、不意にリーゼルは娘に話しかけた。
「今日はいよいよ就任式の日ね」
「うん」
「朝から忙しいのかしら?」
「そうでもないよ。さすがに今日は任務は入っていないから。目を通さないといけない書類が少しあるだけ」
 そう答えながら、ネルは一日のスケジュールを再確認した。
 日没と同時に行われる就任式とそれに続く披露目の宴。 それまではこれといって時間のかかる仕事はなかった。登城も太陽の八時(午後二時)からで間に合う。 封魔師団『闇』の書類確認をした後、式の最終打ち合わせをするのだ。 もっとも式の準備は前日までにほぼ完了している。今日は女官たちに礼装と化粧で遊ばれるくらいだろう。
「……ねえ、母様はどう思う?」
「どうって?」
 食後のお茶を飲んでいるリーゼルは、おっとりとした動作で首を傾げた。
「私がクリムゾンブレイドの役目を拝命すること。反対、だったりするのかなって思って。父様のこともあるし……」
 いつもとは違って不安で揺れている娘の瞳を見て、リーゼルは真面目な顔をした。
「そうねぇ……心の半分くらいは反対したいと思っています。 でもね、それはネーベルさんのことがあっても無くても変わらないわ。 クリムゾンブレイドは立派なお役目であるけれど、当然それには危険が伴いますね。 わたくしはお母さんだから娘が一番可愛い。危険なことからは遠ざけたく思うくらいにね」
「母様、私は――」
 リーゼルは何事かを言おうとした娘を目で制すると、何か幸せな思い出を回想しているかのような穏やかな声で続けた。
「わたくしはネーベルさんの妻ですから、あの人がどういう想いを持ってクリムゾンブレイドとして働いていたか、よーく知っています。 ネーベルさんは誇りを持って任務にあたっていらしたわ。 だから、わたくしがあの人の命のためにお役目を奪うようなことをしていたら、きっと身体は無事でも心が死んでしまっていたと思うの。 ネルちゃんも自分の信念をしっかり持ってお仕事ができるのなら、あなたの望む通りにやってごらんなさい。 お母様はあなたが可愛くて仕方が無いから、いつでもあなたの味方よ」


*  ・  *  ・  *


 今宵、就任式が行われるはずの王城。 その一角には代々の王が住まう宮があった。 王とその身の回りの世話をする者達、そして限られた近臣のみが入れる禁闕きんけつである。
 普段であれば荘厳な静けさに包まれているはずなのだが、どうしてか今日はいつもと違った雰囲気になっていた。
「ねえ、ラッセル。今日はこの服を着て式典に出ようと思うの。どうかしら?」
 ロメリア・ジン・エミュリールは、いそいそと衣装箱の中からとっておきの一着を取り出した。
 その服は黒いワンピースと、実用性よりも装飾性を重んじたレースのエプロンがセットになったもの。 侍女たちが着る衣服というよりも、その筋の客商売の女性達が着る衣服といったシロモノのである。
 当然、それを目にしたラッセル執政官はたちまち渋い顔になった。
「陛下、貴女はご自身の年齢をご理解されておりますか?  ……ではなくて、一国の王たる者が重要な式典でそのようなふざけた格好をすることが許されると思っておいでですか!」
 ラッセルはロメリアから衣服を取り上げると、傍に控えていた侍女に預けた。 そして不満げにしている主に向かって滔々と説教をする。
「何よう、私はラッセルよりも若いのよ。それに貴方も式典用の衣服を着るのでしょう?」
「私はそのような格好はいたしません! 陛下の式服もご用意されているでしょうに」
 ちなみにラッセルの方が五つ年長である。
「皆を喜ばせるのが国王の勤め。貴方はそう思わないの?」
 ずいっとロメリアに迫られ、ラッセルが一瞬硬直する。
 この二人は幼い頃よりの知り合いで、その親密さは主従の枠を超えている。 故にロメリアがラッセルをわざと困らせるのは日常茶飯事。 王と家臣という態度を表面上は崩すわけにはいかないが、女王陛下に側近く仕えている者たちにしてみれば、 このじゃれあいは日常的に繰り返される微笑ましいやり取りだった。
 ――もっとも王宮の中でも、二人の気の置けない間柄は広く知れ渡っていおり、 そうと気が付いていないのは当人達くらいだろう。
「喜ばせるにも方向性というものがございます。 貴重な逸材を新たな地位に叙す式典では、かしこまった礼装に身を包むのが正しい行いですよ」
「ぷんぷん、ラッセルのケチー」
「はいはい、ケチでも何でも構いませんから早く執務室においでください。 夕刻の式典まで陛下のお仕事が山のようにございますので」
 ぷぅと頬を膨らませて怒るロメリアの後頭部を、ラッセルは蛇腹に折った紙――はるか遠国でハリセンと呼ばれているもの――で、 すぱんすぱんと叩いた。
 部屋の出口に向かって、ずりずりと引きずられていくロメリアを見送りながら、侍女達は忍び笑いをもらした。
 一国の王たる者のこのような姿、確かに国民や多くの家臣たちには見せられないだろう。 それでも女王が一人の女性としていられる瞬間に立ち会えることを、彼女達は嬉しく思っていたのである。


*  ・  *  ・  *


 ルージュ・ルイーズという名の抗魔師団『炎』の師団長は、今日の就任式のために王都シランドに来ていた。
 王都には昨日のうちに到着しており、朝から昼までは王都でないと出来ない仕事や、何件かの面談をこなしていた。 それらがひと段落し、昼食でもとろうかと廊下を歩いて師団長専用の休息室へ向かっていた時のことである。
「こんにちは、ルージュさん」
 のほほんとした声に後ろから挨拶をされ、ルージュは一瞬身構えてしまった。 戦闘にはそれなりに自信があるのに、背後に近づいてきた相手の気配を全く悟れなかったからだ。
「……こんにちは、ハイド師団長」
 ことさらゆっくりと振り返ったルージュの後ろにいたのは、虚空師団『風』の師団長を務めるルーファス・ハイドであった。 腰まである美しい銀髪と整った容貌のため、女性達にきゃあきゃあと騒がれそうな人である。
「相変わらず趣味が悪くていらっしゃるのね。女を驚かせるなんて」
「おや、驚かせてしまいましたか? それは申し訳ありません。 隠密部隊にいるとどうしても気配を消すのが当たり前になってしまいましてね」
 この男は本当に申し訳なく思っているのだろうか?  ルージュがそう疑ってしまうのも無理が無いくらい、のほほんとした口調だった。
 彼女がルーファスを苦手とする理由は、相手の気配を消す術の巧みさばかりではない。 こののらりくらりとした態度と、一つの師団を預かる長とも思えないくらいにユルい口調が原因である。 何事もスッキリ、サッパリを好むルージュとしてはどうにも落ち着かないのだ。
 それはともかくとして、ルージュは彼の後方にいる一人の少女に目を留めた。
 控えめな様子で、これまた気配をほとんど感じさせずに立っている少女は、まさしく目に映らぬ『風』のようだと思った。
「ハイド師団長、こちらのお嬢さんは?」
「ああ、彼女? この子はクレセント。クレセント・ラ・シャロム」
 クレセントと呼ばれた少女は前に進み出ると、ルージュに向かって一礼した。
 彼女の頭の動きに合わせて水色の髪が揺れ、ほのかに花の香りが広がった。
「お初にお目にかかります。シャロム家の娘、クレセントと申します。『風』に配属されて、約一年ほどになります」
「私はルージュ・ルイーズ。勿体無くも『炎』の師団長を拝命しているわ」
 ルージュが軽く頭を下げると、クレセントはご高名は存じておりますとソツなく答えた。
「ほら、今日は陛下直々のご命令で面白い新人を連れてくることになりましたよね。 それでうちからは彼女を連れてきたんですよ」
 ルーファスの説明にルージュは頷く。
 女王の名代たるクリムゾンブレイドに若い二人を抜擢するのだから、 ついでに有望な新人を連れてきて宴に花を添えましょうということになったのだ。
「――ルーファス様」
 つい、とクレセントがルーファスの袖を引いた。
「文官のクラーク様との面会の時間が近づいてきています」
「え、もうそんな時間!?」
「はい。より正確に申しますと、あと三十秒後です」
「わっちゃー、困ったなぁ」
 こりゃ困ったと三回くらい呟き、全然困っていなさそうな態度でルーファスはぽりぽりと頭をかいた。 このぬる過ぎる態度が、見た目は良いのに彼がイマイチ女性にモテない理由である。 もちろん曲がりなりにも『風』の師団長である。これだけの男であるはずはない。
「じゃあ、ここで失礼しますね。また後ほど」
 ルーファスはクレセントを連れて、足早にこの場から去っていった。どうやら少しは急いでいるらしい。
(また後ほどって……)
 夜の宴のことを言っているだと思うが、また会いたい相手ではない。
(宴の時は上手く逃げないとね)
 ルージュはうん、と独り頷いた。


「さてと、お昼ご飯には何を食べようかな……あっ」
 王城内に設けられている師団長専用の休憩室に到着したルージュは、扉を開けて中に入った途端、表情を引きつらせた。
「御機嫌よう、ルージュさん」
「あーっ、ルージュちゃんだ。久しぶりだねぇ」
 二者二様の挨拶をしてきたのは、連鎖師団『土』のクローディア・ノイットと幽静師団『水』のアメル・セラシエだ。
 クローディアは高々と結い上げた黒髪が印象的な妙齢の美女。 アメルは十四、五歳にしか見えない金髪の少年の姿をしている。
 姿をしている、とあるのはもちろん見た目通りの年齢ではないからだ。 少年のような外見をしているが、在職期間は四人の中で一番長い。 何でも異種族の血が入っているために成長がヒトとは違うとのことだが、その真偽の程は定かではない。
 四人の師団長の中で、ルージュは一番年少で経験も短い。 そのためどうしても他の三人には頭が上がらず、彼らとの付き合いが苦手だった。 それぞれ出来た人だとは思うのだが……。
「ルージュさんもお食事?」
「ええ、仕事が一区切りついたので」
 クローディアに促され彼女達の向かい側に着席してしまったルージュは、逃げられぬと諦めて給仕に食事を頼んだ。
「今日は楽しみね、色々と新しい子たちが見れるようだし」
「はい。先程もハイド師団長がお連れになっている綺麗なお嬢さんと会いましたよ」
「ああ、シャロムのお嬢さんね」
「ご存知なのですか?」
 そんなに有名な新人なのだろうか?
「ええ、私はペターニにいるから……シャロム家ってペターニの領主のお家よ」
「……あ、そういえばそうでした」
 ははは、とルージュは苦笑した。彼女もペターニ領主のシャロム家の名前は知っている。 ペターニに拠点を置く『土』は、領主であるシャロム家とも親交が深いのだろう。
 そんな話をしていると、給仕がルージュの昼食を持ってきた。 トレイにはロールパンが二つと、ミネストローネスープ、鶏肉の香草焼きと温野菜、果物が載っていた。 果物以外はどれもほかほかと湯気を立てていて、すっかり空腹になっていたルージュにはとても美味しそうに見えた。
「いっただきまーす」
 目の前の少々厄介な人たちのことは頭から追い出し、ルージュは食事に取りかかった。 せっかくの料理を冷ましてしまうのは、厨房の料理人たちに申し訳ないではないか。
「はい、お茶」
「あ、ありがとうございます」
 気持ちの良い食べっぷりを披露するルージュを面白そうに眺めていたクローディアが、ポットから茶碗にお茶を注いでくれたのだ。 何だかんだでこういう細かい気遣いはクローディアが随一だなとルージュはと思っている。
「僕ももうちょっと食べようかなぁ……」
「それは止めて頂戴、アメル」
 ぽつりと呟いたアメルに対し、クローディアは思い切り顔をしかめた。
「どうして?」
「私とルージュさんの精神衛生上、ってところかしら」
「えーっ!?」
 ルージュは心の中でクローディアに同意した。
 何故なら、不満そうな顔をしたアメルの前には何枚もの皿が積まれていたからだ。 その皿はどれもきれいに平らげた後のケーキ皿だった。
(これも種族の違いで済まされることなのかな? ……くっ、それにしても何故に太らないッ)
 頭の中で目の前の得体の知れぬ『水』師団長にスピキュールをお見舞いしておくことにした。


*  ・  *  ・  *


「何かこう、しっくりこないのよね……」
 ふぅ、とクレア・ラーズバードは溜息をついた。
 彼女は今、城下の巡回警備という名目の散歩中である。 本当ならば巡回の必要なはない。 今日の城下の警備はその役目を割り振られた光牙師団『光』の仲間達がやってくれているし、 クレアは今日の就任式のため非番になっているのだから。
 服も普段の制服ではなく、町中でも目立たない普段着を着ていた。
 特に当ても無く町中を歩いていると、気が付けばアペリスの化身たる太陽は天頂を通過し、 緩やかにその高度を下げ始めている時刻になっていた。
 そろそろ王城に向かわなければならない時刻である。
 彼女とて、好き好んでぶらぶらと歩いている訳ではない。 どうしても今日の就任式のことを考えると足が重くなってしまうのだった。
(私がクリムゾンブレイドと『光』の師団長になるって、とっても嘘っぽい)
 武芸も施術も人並み以上にはできるつもりだが、特に秀でているというのでもないと思っている。 父アドレーやその親友であったネーベル、その娘のネルといった傑出した人物を間近に見てきたから、余計にそう思う。 それに『炎』『土』『水』『風』の師団長たちも、それぞれ優れた人たちだと聞いている。 そんな中に自分のような若造が立ち入って良いものなのだろうか?
 ――親の七光り、そんな批評も飛び交っている。 彼女の周りの人たちは、それを悪意のあるバカが言っている流言蜚語に過ぎぬと言ってくれるが、 本当にそうでないとどうして言い切れよう。
(ネルみたいに真っ直ぐ前を向いて歩いていければいいのにな)
 クレアは再び大きく溜息をついた。


 気が付けば人気の無い一体まで来てしまっていた。
 この辺りは寂れた店と空家、空き地などがある一帯だ。 賑やかな王都にもこういった寂しい一角がぽつぽつと紛れ込んでいることをクレアは知っていた。 もっとも、中には表向き寂れた商店を装いながらも、その実は禁制品や盗品を扱う非合法の店なんてものもあったが。
 今はいる場所にはそんな店はないようで、白猫が一匹、彼女の横を通り抜けて行っただけだった。
 猫は餌でも探しているのか、この近くをうろうろとしている。 草むらに顔を突っ込んだり、耳をぴくぴくと動かしている様は何かと面白い。
「何かしら、これ?」
 猫の姿を目で追っているうちに、空き地の草陰に小箱が落ちているのが見えた。
 ひょいと拾い上げて見ると、素人目にも判るほど綺麗な細工がされた小箱だった。 両手にすっぽりと収まるくらいの大きさで、螺鈿や象嵌が施されていることから、富裕層向けの装飾品入れだと思われる。
「きれい、よね」
 蓋の中央には虹色に輝く石が嵌め込まれている。 石はくるくると色が変わる不思議な光を放っており、じっと見ていると吸い込まれてしまいそうだと思った。
 これが平時のクレアであれば、こんな空き地に落ちているのには相応しくない物だと判断し、警戒したであろう。 だが、彼女は何かに導かれるようにして箱の蓋に手をかけ、開けようとした。
「いかんぞ、それに触れては!」
「えっ!? わ! きゃああああ――――」
 突然の警告は僅かに遅かった。
 ぱかっと開いた小箱から濃密な闇が溢れ出し彼女達を包み込んでいく。 クレアは反射的に小箱を手放したが、全く意味がなかった。たちまちのうちに闇に飲み込まれてしまう。
 途端、振り回されているドレッシングの瓶にでもなったかのような、上下左右に振り回される感覚に襲われた。 目の前は暗闇があるばかりで何も見えなかったが、むしろその方が良かったかもしれない。 景色が見えていたら、三半規管がおかしくなって吐き気を催していたかもしれないからだ。
(もうっ、どうしてこんなことになるのよ!)
 クレアは遠のく意識の中、文句を言うことしかできなかった。


「う……ん……」
 ぺちぺちと頬に当たる何かの感触にクレアは起こされた。
「気が付いたかね?」
「あなたは――あの白猫さん!?」
 上下左右も判らない真っ暗な空間に猫がいる――いや、そこはまだ驚くところではない。驚くべきは……なんと猫が喋っている!
 どうやら自分はこの猫の肉球で頬をぺちぺちと叩かれ、目が覚めたらしい。
「え、嘘っ! どうして猫が」
「これこれ、落ち着きなさい。この年寄りは猫ではないよ。ただの猫が喋ったりするわけあるか」
「えええええっ!? では、あなたは何なんですかっ!」
「まあ落ち着いて」
 猫に言われクレアは宙に浮かんでいるような状態だというのに、何故か正座をして座った。 そうさせるだけの何かが猫の声にあった。
「お嬢さんが混乱するだろうと思って、お嬢さんが最後に見た私の姿でいたのだけれど、返って良くなかったようだね」
 そう言うと、猫はその姿を揺らめかせたと思うと、一瞬にして一人の老爺の姿に変わった。
「この年寄りは、これでも人間じゃよ。ちいとばかり施術が好きで、変わった術も使えるだけさ」
 ちなみに猫好きであるらしく、猫に変身しては夜な夜な出歩いたりもするそうだ。
「名前はオルフェとでも呼んでくれれば良いよ」
「はあ……」
 明らかに偽名くさい。
「年寄りだから、お嬢さんよりは知っていることもある。だから、少しお嬢さんの疑問を解消してあげようか」
「お、お願いします」
 クレアがこうもあっさりオルフェの申し出を受けたのは、お爺さんの持つ雰囲気のせいだ。 耳に優しい声音と、明確な言葉は知らず知らず周囲の者を安心させる力があるように思えた。
「まず、お嬢さんとわしはあの箱の中に閉じ込められている。あれは人を惑わす力を持ってしまった骨董品でのう。 古いもの中には、時々ああいう物が生まれてしまうんじゃ。次にわしのことを簡単に話すとするかね。 わしはシーハーツの東部に住んでいる者で、孫と一緒に王都へ用事があって来ていたんだが、 今朝方から良くない魔力の臭いを感じて猫の姿で町を探っていたのだよ」
「そこで私と出会ったのですね」
「その通り。町の猫達の協力を得てある程度、地域を絞り込んだんじゃが、相手もなかなか隠れるのが上手でな。 なかなか見つけだせんかった。もう少し早く見つけられていれば、お嬢さんをこんな目には遭わせずに済んだのだが……」
「オルフェさんのせいじゃありませんよ」
 クレアは慌てて言った。この状況には困っているが、このお爺さんのせいではないのは確かだ。
「言い難いのだが、あの手のシロモノは迷いを持った人間を惹きつける。 あの小箱にとっては、お嬢さんが美味しい獲物に思えたのだろう。 お嬢さんがあの空き地に来たのも偶然ではないのかもしれん。惹きつけられて、手にして、蓋を開いた」
「軽率でした、不思議な力は感じていたのに。それで外に出る方法はないのですか?」
「外からの助けを待つしかない」
「そうですか……」
 これは困ったことになった。
 就任式に遅れてしまう、ということではない。助けをただ待つしかない、というのが良くないのだ。 あんな小さな箱、誰がそれに人が捕らえられていると気づいてくれるだろうか?  せめて誰かに知らせることができたのなら……。
「そう心配なさるな。一人ばかり頼りになる者がいるから、程なく出られよう」
 オルフェはそう自信たっぷりに言うと、からからと笑った。


*  ・  *  ・  *


「珍しいな……クレアが待ち合わせに遅れるなんて」
 待ち合わせの約束をしていた王城に程近い場所でネルは一人だった。
 もうすぐ登城しないと、就任式直前の打ち合わせに支障を来たすだろう。 それだけにこんな日にクレアが遅刻をするなんて有り得ないと思った。
(やっぱり、来たくなかったのかな……)
 曲がりなりにも彼女達は長い付き合いだ。相手が口にしなくたって、悩んでいることくらい判った。 自分の躊躇いは母親がさっくり解消してくれたが、繊細なクレアは誰にも言えず独りで悩み続けているのかもしれぬ。
 しかしクリムゾンブレイドの地位を頂くのも、『光』と『闇』の師団長に就任するのも陛下の勅命である。 今日の就任式に出席しないのは反逆を疑われてしまいかねない。 ましてや気持ちの問題で欠席することなどできはしない。
(探さないと……と言っても、どこを?)
 ううむ、とネルは唸った。
 生まれ育った町だから勝手知ったる場所であるが、この広い王都のどこを探せばクレアを見つけられるのだろう。 彼女が好んで立ち寄る先は知っており、いくつか候補があるが、この状況でそんな判りやすい場所にいるとは思えない。
「あ、あの。人をお探しですか?」
 不意に話しかけられ、ネルは考えるのを一度止めた。
 目の前には艶やかな黒髪を方のところで切りそろえた女の子がいた。年の頃は十二、三といったところだろうか。 地味だが仕立ての良い服を着ているから、自分達と同じ階層の人間かもしれないと見当をつけた。
「あなたは?」
「わたしも人を探していて……人じゃなくて、猫かもしれないんですけど」
「何だかよく解らない話だね」
 ネルが顔をしかめると、少女は恐縮したように頭をペコペコと下げた。
「す、すみません。あの、祖父を探しているんですけど、祖父は気まぐれに施術で猫の姿をするものですから」
「ああ、なるほど」
 ――と、納得したが内心は平静ではいられなかった。 動物に変身する施術など使える人間は滅多にいない。 この娘もその祖父も只者ではないのかもしれない。
「ええと、最初の話に戻るけど、私は確かに人を探している。クレアっていう名前の友達なんだ。 ここで待ち合わせをしているんだけど、時間になっても来ない。 今日は大事な用があるから遅刻するわけないし、もし来れないような困った事態になっているのなら助けに行かなきゃならない」
 就任式に関することは黙っておくことにした。これ以上、この少女を恐縮させるのは気がひける。
「アンタはお祖父さん、私は友達を探さなきゃならない」
「はい。それで、その、ちょっと心当たりというか、何か感じるものがあったのでお姉さんに声をかけたんです。 お姉さんが探している人、お祖父様と関わっているかもしれません」
「何だって!」
 この娘は一体何を言い出すのだ。いきなり現れてクレアの行方に心当たりがあると言うなんて。 クレアは何か厄介事に巻き込まれていて、この娘はその関係者? そんな悪い考えまで生まれてしまった。
「そんなことを言われてしまったら、アンタを一人にするわけにはいかないね。お祖父さん探し、一緒に付き合うよ」
「はいっ」
 少女は嬉しそうに顔を輝かせた。こうしていると年相応のただの少女に見えるのだが……。
「そういえばアンタ、名前は?」
「あ、えっと、わたしのことはアイとでもお呼びください」
「……偽名?」
「ええと、その、お祖父様が行方不明になるのが得意な家の家名なんて、恥ずかしくて言えませんっ!」
 あまりにも必死すぎる少女の訴えにネルは警戒を解き、大いに笑った。


 それからネルはアイに導かれるまま、人気の無い一角まで来ていた。 ネルの記憶が確かなら、この辺には人は全く住んでいないはず。空き家の一つにでも潜んでいるのだろうか?
 少女の足取りはしっかりしていたが、この町には疎いらしく、あれこれと地形や歴史などについて質問を受けた。 興味深く思ったのは、アイがネルの答えを聞きながら、行き先を修正しているようだったこと。 時々立ち止まり、目を閉じると何かを探るように宙に向かって手を差し伸べたりもした。
 何をしているのかと問えば、あっさり「施力の流れを感じ取って、 その中から目当てのものを探しているんです」という答えが返ってきた。
 もう間違いない。彼女は施術士――それもかなり秀でた力を持つ――だ。
「見つけた……」
 少女とネルが出会ってから半時間ほどが経過していたが、とうとう彼女たちは終着点に着いたようだ。 目の前にはいかにも怪しげな光を放つ、骨董品の小箱が落ちている。
「この箱がどう関わるんだい?」
 ネルは箱を指差しながら、傍らにいる少女に尋ねた。
「この箱は古いものです。古いものの中には知らず知らずのうちに不思議な力を持つものが現れるそうです。 そして、そういった物はとかく人を惑わすのだとか。お祖父様はそういった方面について詳しいんですよ。 回収したり、直したり、そういうお仕事もしているので……」
「それでアンタのお祖父さんと、私の友達はこの箱に惑わされてしまった?」
「捕らわれています、箱の中に。お姉さんも感じますよね、この箱からにじみ出てくる誘い込むような甘い力」
「ああ。だけど、悪意が見え見えって感じで近寄ろうとも思わないよ」
「この力、迷っている人にはとても心地好いものに感じるものです。 強く感じさせることはなくって、気づかないうちにそっと入り込んでくるような嫌な性格をしています」
 アイは箱を見つめると、紫色の瞳を哀しげに伏せた。
「――お姉さんの友達は、何かに迷ったり悩んだりしていませんか?」


*  ・  *  ・  *


「人には色々な才があるな」
「ええ」
「剣の腕前だったり、鋼のように鍛え上げた肉体だったり、知識を上手く活用する術だったり……。 ちなみにこの年寄りは施術を使うくらいしか能が無い」
「動物に変身できるのは並じゃないと思いますけど」
 クレアはのんびりと相槌を打った。
 オルフェが慌てず騒がず、どっかりと腰を落ち着けているものだから、彼女自身もつられて落ち着いてしまった。 不思議な理由だが、それしか思い当たるふしがなかった。
 かくして二人は取り留めの無い世間話などをしていたのだが、 いつの間にやら話はクレアの内にあるモヤモヤをぴたりと突付くようなものになっていた。
「お嬢さんの天稟は旗印になること――この年寄りにはそう思えるのだよ」
「旗印……ですか。何だか、人にいいように使われて、少しでも泥が付いたらもうお終いという感じがします」
 褒められているようには思えず、クレアは些か不機嫌そうな口調で呟いた。
「これこれ、そう怒りなさるな。旗印になることは誰にでもできることではない。 旗下に集う全ての者達を魅了するのはもちろんのこと、旗として効果的に動き続けねばならん。 休む暇などあって無きが如しだしな。 そして何よりも大切なことは、己の下に集まってくれた者たちを決して裏切らぬこと」
 厚い信頼があってこそなのだとオルフェは言った。
「己の心を欺かねばならぬこともあるだろう。己の役割が道化に思えることもあるだろう。 それでもなお、国というよすがに縋って生きる民には必要なのだよ――希望の象徴というものがね」
 クレアはこくりと頷いた。 このお爺さんが言わんとしてることが解るくらいにはクレアは大人だったし、政の世界の内側というものも見てきた。
 人がただ一人で立つには世界というものは厳しすぎるのだ。 だからこそ、人は国を作り、社会を営む道を選んだ。 その社会を円滑に動かすためには、清濁合わせた政が不可欠。
 そして民には清らかなものだけを見せておき、国を信じてもらわなければならない。 民なくしては国は立ち行かないのだから。 もちろん、実際に政を執り行う者達はその裏側からも目を逸らしてはならない。
「この年寄りが教えた若造の中にも、一人そんな奴がおったよ。 大切な女性ひとが人々のために苦難の道を歩むことを選んだから、自分も共に行く。 聖性を持つあの人が抱えることのできないもの全てを引き受けると――と。 ちょっと前まではただの小僧だと思っていたのに、いつの間に頼もしくなったのかと驚かされた」
 お爺さんは懐かしそうな目をすると、にこにこと微笑んだ。 その微笑からは、相手に対する素直な親愛の情が感じられた。
「私にできるでしょうか?」
 クレアのその声は年相応の悩める一人の人間の声だった。
「できる、と信じている。だからこそ、女王陛下はお嬢さんを任じたのではないかね?  それにクリムゾンブレイドは二翼一対。片割れが足らぬところは補ってくれるし、道を踏み外せば叱ってもくれよう。 お嬢さんの信じるものが正しき道であれば、結果は自ずとついてくる。人の歴史はそういうものだから」
 どうしてこの初対面のお爺さんが、自分のことを信頼して評価してくれるのか判らない。 それでもこの人の期待に応えてみたい、クレアは心からそう思った。


「おや、そろそろ頃合のようだな」
 オルフェはちらと上――彼らにとっての頭上を見上げた。その顔には満足げな笑みが浮かんでいる。
「助かるのですか?」
「うむ。ご覧なさい、光の筋が伸びてきているだろう。後はあれに身を委ねればよい」
 オルフェの言う通り、彼らの見上げる先から一本、また一本と金色の光の筋が降りてきた。 それは次第に数を増やし、互いに絡まり合い、目の細かい網のようになった。
 網はふわりと広がると彼らをすっぽりとくるむ。 網に包まれた瞬間、えも言えぬ暖かな気持ちになった。 夢の中の心地好さではなく、目覚めた後に浴びる朝日の暖かさ。
(大丈夫。私、今なら還れる……)
 次第にぼうっとしてくる中、クレアの中に素直な気持ちが生まれた。
(そう、私のいるべき場所……ううん、いたい場所は皆のいるところ。 共に生き、伝え受け継いだ理想を目指そうと誓った友のいる場所。 私ったら些細なことから、その大切な約束を見失うところだったのだわ)
 クレアはそう反省した。
 途端、高く高く浮かび上がるような感覚に捕らわれた。 心地好い浮遊感に身を委ね、どこまでも昇っていきたいと彼女は思った。

 クレアが感謝の想いと例えようのない幸福な気持ちを胸に抱いた瞬間、彼女は迷いの檻から抜け出していた。


「――レア、クレアッ!」
 繰り返し自分の名前を呼ぶ声で、クレアはぼんやりと覚醒した。 頭の片隅で今日はこんなことばっかりだな、と思う。
(もう少し寝ていたいのに、ネルったらいつも早起きし過ぎなのよ)
 クレアは気だるげな気分のまま、もう一度意識を手放そうとした、が。
「早く起きないと、アドレー様を呼んで来るよっ!」
「それだけは止めて頂戴」
 ネルの妙な起こし方により、クレアはがばと身を起こした。 あの父が来ようものなら、「寝顔が天使のようで可愛い」とか恥ずかしいことを大声で言うに違いない。
「あら、ここは?」
「ここは王城の近くの空き地だよ。もう時間がかなり押しているから、目が覚めたのなら早く立ちな」
「え?」
「クレア、しっかりしておくれよ。これから式があるだろう」
「あっ、そうだった。私ったら閉じ込められて、猫のお爺さんと――あれ?」
 クレアは顎に手を当てると、かくんと首を傾けた。
「全く、命の恩人の少女のお祖父さんに対して何て言い種だい」
 ネルはすっかり呆れている。
「あ……ええと、オルフェさん」
「なんだい?」
 それまで二人のやり取りを孫と一緒に見守っていたオルフェは温厚そうな笑みを浮かべた。
「色々と失礼致しました。そしてありがとうございました。私、貴方のおかげで還ってこれた気がします」
「いやいや、この年寄りは世間話に付き合ってもらっただけじゃよ。さ、お行きなさい。時間があるのだろう?」
 クレアは立ち上がると、お爺さんとその孫に対して深く一礼した。
「私、行ってきます!」
「ああ、達者でな」
「お姉さんもお元気で」
 孫のアイは去り行く二つの背中に向かって、大きく手を振った。
 その声が聞こえたのだろう、ネルは立ち止まり、手を振り返した。


 孫と祖父は二人が角を曲がって見えなくなるまで見送った。
 オルフェは袋に封印した箱を持ち上げると、孫の手を取った。
「さてさて、わしらもそろそろ行くとするかね」
「はい、お祖父様」
 今度は行方不明にならないようにと、孫はしっかりと祖父の手を握った。
「ところでお祖父様、どうして本当のお名前を名乗らなかったのですか?」
 祖父の本名はオルフェウス・グレシダ。身びいきではないが、施術を齧ったことのあるものなら誰もが知っている名前だ。 あの二人の女性もシーハーツの高官なのだから、きっと知っているはず。
「そうじゃのう、こういのはこれくらいが丁度良いから、かな」
 孫の頭をぽんぽんと撫でながら、オルフェウスはふふっと笑った。そしてふと、何かを思い出したような顔つきになる。
「わしも孫に同じことを聞きたいぞ。何でわしが三日三晩考えて付けた、アイーダという超絶可愛い名前を名乗らんのだ」
「……お祖父様。もうちょっと己のことを省みてもバチは当たらないと思いますよ」
 アイーダ・グレシダはほうっと溜息をつくと、祖父の手の甲をきゅっとつねった。


*  ・  *  ・  *


 ネルとクレアは何とか準備――礼装への着替え――に間に合った。
 よく訓練された女官達は二人の遅刻に対して文句を言いつつも、 あれよあれよと言う間に二人を見目麗しいクリムゾンブレイドに仕立てあげた。その技は熟練の者ならではである。
 準備を整えた二人は、二人きりで式典の場である女王や来賓が集う玉座の間へと行かねばならない。 長い廊下を歩く間、二人は今日のことやこれからのことを小声で話した。
 そして二人が導き出した共通の意見は、「二人一緒なら大丈夫」だった。 今までも二人一緒だった。これからも一緒に歩いていけばきっと何とかなる。 自分の夢も人の幸せも守ることができる、そう思えた。
 気が付けば大きな矩形の扉の前に来ていた。この向こうが女王陛下のいます場所である。
「さあ行こうか、クレア」
「ええ、ネル」
 二人は顔を見合わせ穏やかな表情を作ると、互いの手を取り合って扉を開けた。


 就任式は滞りなく終わり、そのまま披露目の宴へと移った。
 こちらも玉座の間に負けず劣らずの広い空間で、大きなテーブルには数々の料理が運び込まれていた。 また、そこかしこに花や施術による色とりどりの明かりが飾られ、文字通り華やかな宴を演出している。
 女王の挨拶も終わった今、宴の雰囲気はとても和やかなものになっており、 着飾った紳士淑女がいくつもの輪を作り、あちこちで談笑していた。 中には恋を語らうためにそっと抜け出す者もいるようだ。
 一段高く設えられている自身の席から会場を見回し、ロメリアは満足げに微笑んだ。 この場に集った人たちは間違いなく、優れた資質を持った者達だ。 そして、この者達を生かすも殺すも自分次第だと気を引き締める。
(それにしてもラッセルったらどこに行ったのかしら……)
 予め用意されていたこの場にふさわしい礼装に身を包みながら、ロメリアは小声で文句を言った。
「一人だけ宴を楽しむなんてずるいのよ」
 後でどんな仕返しをしてやろうかと考え、聖王国の女王は悪戯好きの子どもの顔になった。

「おお、久しいな。アンサラー」
 オルフェウスは旧友の顔を見つけると、笑顔でそちらに近寄っていった。
「おや、まだ生きておったか、オルフェよ。全くもって久しぶりじゃな」
「ご無沙汰しています。アンサラー師」
 アイーダも祖父に倣い、錬金術の大家に頭を下げた。
「おお、おお。久しぶりじゃの、すっかり娘らしくなった」
 アンサラーはアイーダの姿を認めると、滅多に笑わないという口元を綻ばせた。 この施術の才能溢れた旧友の孫に会うと、自他共に厳しいことで有名なアンサラーもつい優しい気持ちになる。
「懐かしい顔といえば、こんな輩もおるぞ」
 アンサラーはそう言うと、ぐいっと誰かの長い黒髪を引っ張った。
「……人の髪を物みたいに引っ張らないでいただきたい、アンサラー師よ」
「おーおー、こちらも懐かしい顔だのう。元気にやっていたか、ラッセル。姫さんにはまだ愛想を尽かされていないかね?」
 姫さんというのはロメリアのことだ。 ロメリアとラッセルの小さい頃を知る年寄り二人は、ついついこういう言い方をしてしまうのだ。
「まったく、お二方とも陛下に対して失礼ですよ」
 ラッセルはそう咎めるが、老獪な二人を相手にしていては敏腕執政官も分が悪い。 適当にあしらわれてしまっている。
 アイーダはそんな大人たちの様子をどきどきしながら見守るのは心臓に悪いと判断し、こっそりとその場を離れることにした。
 初めて出席する王都の宴はどんなものだろうかと、わくわくしながら……。

 師団長のために設けられた席では、四人の男女がそれぞれ異なる様子で席についていた。
 アメルは一人でありえない量の菓子を平らげて、隣に座っているクローディアの優美な眉間に皺よ寄せさせていた。 ルージュは適当にルーファスをあしらいながら、自分が連れてきたディルナと雑談に興じている。
 クレアとネル、どちらも頼もしそうだと四人は新しいクリムゾンブレイドを憎からず思っていた。
(ま、これからどう付き合っていくかはまだ何とも言えないけどね)
 ルージュはディルナと話をする傍ら、ちらとクレア・ラーズバードの方を見た。
 クレア・ラーズバードは光牙師団『光』の師団長も兼ねるから、防衛三隊の長でもある。 防衛三隊の一つである『炎』の長であるルージュにとって、新しい上司になるのだ。
(でもそうだな、年が私より下っていうのはありがたいよね。師団長の中にこれ以上、タチの悪いオトナが増えなくて済むんだし)
 見る限り、普通っぽいから話も合うのではないかと思う。 少なくとも『水』と『風』の御仁ほどには困ったさんではないだろう。
(そうだと、いいなぁ)
 ルージュは期待のこもった眼差しで、クレアを見つめた。

 宴の出席者は大勢いるが、そのほとんどが十五歳以上の大人だ。当然、それなりに身長がある。
(うーん、前が見えないのです……)
 子どもに相応しい身長のアイーダが人々間を歩いていると、見えてくるのが人の身体ばかりで、 顔が見えないものだからまるで柱の中を歩いている気分になった。
(ちょっと休憩しましょうか)
 スカートの裾を踏まないように気をつけながら、アイーダはテーブルに近寄った。
 彼女が目指したテーブルには、各種の飲み物が取り揃えられていた。 その中の一つ――もちろんお酒ではない子ども向けの飲物――を手にすると、手近なところにある長椅子に座った。 これで一休みできる、彼女はそう思った。
「あ! アンタは……」
「あ、お姉さん!」
 アイーダは不意に聞こえてきた声に反応し、面を上げた。
 そこには聞こえた声の主である紅い髪の女性が立っていた。 間違いなく今日の主役のうちの一人、ネル・ゼルファーだ。
 少女が立ち上がってぺこりとお辞儀をすると、ネルはかしこまらなくて良いと座るように促した。 そして少女の隣に自分も腰掛ける。
「今日は色々と世話になったね。満足にお礼も言えなかったと後悔していたから、ここで会えて丁度良かった」
 ネルはほっとしたように言うと、背もたれに身体を預けた。
「さすがに大勢の来賓の相手をしていると疲れてくるよ」
「クリムゾンブレイドとなると、色々と大変なのですね」
「まあ、これも仕事のうちってやつかな。先は長いから、まだまだ弱音を吐くわけにはいかないよ」
 ネルは苦笑した。
「ああそうだ。一つ聞こうと思っていたことがあったんだっけ」
「何でしょうか?」
 少女はきょとんとした様子になった。
「お嬢さん、君の名を私に教えていただけまいか? ――なんてね。 あれだけの施術の腕前と知識、それにこの場にいることからして名のある家のご令嬢なのかなと思ったのさ」
「……あ、すみません。先程は嘘を申しまして。わたしはアイーダ・グレシダ。 お祖父様はオルフェウス・グレシダという名前です」
「なるほど、だね。施術の大家とその孫娘なら、今日のことは全然おかしくない…… ああ、そういえば私も名乗らずにいてしまったな」
 今さらながらネルはそのことに気が付いた。
「いいえ、わたしがいけないんです。 お姉さんがネル・ゼルファーさんだっていうのは見ただけで判りましたら、お名前を伺うことをすっかり忘れてしまいました」
 その髪と瞳の色はとても目立ちますからとアイーダは言った。
 少女の明瞭な答えにネルは頷いた。父親譲りのこの色彩は確かによく目立つ。 古株の家臣の中には若かりし頃の父親を思い出し懐かしそうにしてくれる人もいるが、 娘としては何ともいえない複雑な気持ちになる。
(カッコイイって言われて喜ぶ女性がいるとでも思っているのかね?)
 逆に可愛いと真顔で言われたら、それはそれで困る自分を棚に上げてネルは毒づいた。

「ネ〜ルちゃん! 今日はとっても立派だったわよ」
 そう言ってネルの方へ手を振ってくる女性がいた。
 彼女の母親であるリーゼルだ。
「母様、大きな声でその呼び方をするのは止めてと言ってるでしょ!」
 思わずネルは言い返していたが、自分の声がリーゼルの声と大差ない音量であることに気が付くと赤面した。
「家族で苦労するのはアイーダばかりじゃないみたいだね」
「……あ、ええと、そうですね」
 アイーダは立派そうに振舞っていたネルの態度が一変したことに驚きながらも、思わず頷いてしまった。
「こんばんは、ネルちゃんのお友達?」
「まあ、お友達と言うか、何と言うか……。彼女はアイーダ。グレシダ家のお嬢さん」
「あらあらまあまあ! グレシダ師のお孫さんなのね」
「は、はい。あ、あの、初めまして」
 アイーダは何だかよく解らないまま、とりあえずの挨拶をした。
「ほら、アドレーさんたちもいらっしゃっているわ」
 リーゼルが手招きすると、クレアとその両親アドレー・ラーズバードとアルメリア・ラーズバードが揃ってやってきた。
 何やかやと挨拶と自己紹介を終える頃には、幼い少女はすっかり緊張してしまっているようだった。 どうやら大勢の人の相手をするのは不慣れらしい。
 アルメリアがアイーダの顔をじっと見つめた。それからネル、クレアと順々に視線を当てる。
「お母様?」
 クレアが三人を代表して不可解な態度の理由を問うた。
「うん、何となく。頑張れって思ったの。それから、きっとこれも時代の流れかなって」
 アルメリアは一人ごとを言うようにぶつぶつと言った。 もともと超然としたよく解らないところのある人だから、クレアもネルも動じなかった。 ただ一人、不思議そうな顔になったのはアイーダだった。
「気にすることはないです。貴女の生まれる前のこと……大丈夫、貴女は望まれて生まれてきたのだから」
「……?」
 ますますよく解らない。まるで巫女の託宣を受けているかのようだ。
「お母様、アイーダさんは慣れていないのだから、いつもの調子で相手をしてはいけないわ」
 クレアは母親を叱ると、アイーダに向かってごめんねと謝った。
「ちょっと三人で散歩でもしようか」
「うん、そうしましょ」
 このままこの子をここに居させてはいけないなと判断したネルとクレアの二人は、アイーダをバルコニーへと連れ出した。

 バルコニーは夜風がゆるゆると吹き付けてきて涼しかった。
 空を見上げれば、今日は三つの月が仲良く並んでいた。
「ごめんなさいね、うちの母親ったら少し……かなり変わっているところがあるから。 意味ありげなことを言われても気にしないで頂戴ね」
「そうそう、アルメリア小母様は昔から不思議な人だったよね」
 昔の珍事を思い出し、ネルはくすりと笑った。クレアはどちらかというと呆れ顔だ。
「あの、わたし大丈夫です。心配してくださってありがとうございます」
 アイーダは十二歳とは思えないくらいに落ち着いた声で、はっきりとそう言った。
「アルメリア様のお気持ちに悪意がないことは私でも解りましたし、望まれて生まれてきたって言われて、正直嬉しかったです」
 おずおずと話し出すアイーダの様子を見て、二人は自分達の心配が杞憂であると悟った。 この少女はやはり聡明だ。過不足なく物事を見極めて、それに振り回されることもない。
「アイーダは今、士官学校に行っているんだっけ?」
「はい、あと二年したらネル様やクレア様のように働くことができます」
「そうか……じゃあ、今のうちから将来はうちに寄越してもらうように言っておこうかな」
「あら、ずるいわよネル。私だってアイーダに来て欲しいわ」
「とっても恐れ多いです……」
 アイーダは二人の間に挟まって、ひどく恐縮した。
 そんな彼女のけなげな様子を見ているうちに、ネルは自然と笑みがこぼれた。 それは次第に相方のクレアにも伝染し、いつしか大きな声をたてて笑いあっていた。
「なんかこういのって悪くないね、クレア」
「ええ、そうね。先のことを考えるのって楽しいわ、とても」
 昼まで抱え込んでいた迷いは全て吹っ切れたように思う。
 クレアはえいやっと伸びをした。

 すっかり意気揚々としたクリムゾンブレイドの二人を見て、アイーダはどこか嬉しくなった。 初めて会ったばかりの人だというのに、一緒にいて苦しくないのが不思議だったけど、 これほどに気持ちの良い方々なのだからそれも当然だろう。
(わたしも頑張りますね。いつかお二人と肩を並べられるようになるために)
 一番年少の少女は、胸に手を当てて一人誓った。


−Fin−


執筆者:くろ