彼女と二つ目の約束


「パーティー、ですか?」
 先日終えた任務の報告書を提出しに行った際、フェイトはクレアからの突然の申し出に目を瞬かせた。
 クレアは執務机の上で両手の指を絡めると、笑顔で頷く。
「はい。フェイトさんのご都合さえよろしければ、是非」
「ええっと、僕は別に構いませんけど」
 フェイトが曖昧に返事をする。
 クレアからの申し出。それは、明日、商家の人間を中心に開催されるパーティーへ共に出席してくれないか、とのことだった。
 何故商家でもないラーズバードの人間であるクレアが呼ばれたかと問えば、直接的な関わりはなくとも、ラーズバードは商家に対し、その膨大な財産で多くの援助をしているとのことで、代表してクレアが招かれたのである。
 だが、渡された招待状は二人一組とのこと。クレアほどの女性だ。相手など腐るほどいるだろうが、どうせなら気の知れた男性のほうがいいというのがクレアの意見だ。
 最初は幼馴染でもあり、最も信頼に値する副官であるヴァンを、と考えていたが、生憎と彼はアーリグリフに長期任務中の身。
 元々男性との交友関係が狭いクレアにとって、ヴァンの次に信頼できる男性はフェイトなのだ。
 フェイトはそういったパーティーとはまるで無縁な生活を送っていたため、些か躊躇われたがクレアの頼みを無下にするわけにもいかない。予定も入っていなかったこともあり、了承することにしたのだ。
 その反応にクレアは嬉しそうに微笑む。
「ありがとうございます。フェイトさんならきっと頷いてくださると思っていました」
「あの、でも僕行儀作法とかよく知りませんよ? クレアさんに恥をかかせるかも……」
 地球での一般常識程度ならもちろんフェイトは理解している。だが、それはあくまで地球での話。ここエリクールで地球と同じ作法が通用するかと言えば、必ずしもそうではないのだ。
 この年でその程度のことを弁えていないのか、と言われると仕方ないとはいえ情けなくなるが、知らずにクレアに恥をかかせるよりはよほどいい。
 クレアは頭をかきながら視線を泳がすフェイトに、小さく笑みを零した。
「ああ、礼儀作法なんて必要ありませんよ。ただ適当に食べて飲んで、話をして終わりです」
「え、そうなんですか?」
「はい。あ、でも一つだけ大切な条件がありますね」
 思い出したようにクレアが手を叩く。堅苦しいパーティーでないことに安心しきっていたフェイトは、軽い気持ちで答えた。
「なんですか?」
「ダンスです。社交ダンス」
 さらりと言ったクレアの言葉に、フェイトが一瞬で固まる。
 そんなフェイトの変化に気付くことなく、クレアは口元に手を当てて上品に笑う。
「どうも商家の方々は踊ることがお好きなようです。ですから、踊りは必ずしますね。フェイトさんほどの方なら、きっと大勢の女性からダンスの相手を申し込まれると思いますよ」
「……え」
「でも、フェイトさんなら心配要りませんよね。ダンス、とてもお上手そうですから」
 まるで菩薩、いや、この場合はアペリスの伴侶たる三女神を思わせる笑顔を浮かべるクレア。
 フェイトはだらだらと流れ出る冷や汗を必死で隠しながら、
「え、ええ……もちろんですよ……は、はははは……」
 引き攣った笑顔で頷いたのだった。




「え、っと、こう……で、こう」
 夜半過ぎ、フェイトは一人誰もいないイリスの野で無理矢理頭の中に叩き込んだ振り付けを実践していた。
 クレアには黙っていてものの、フェイトは生まれてこのかたダンスなどしたことがなかったのだ。
 少し前まで普通の大学生として何気ない生活を送っていたフェイトだ。趣味でもないのに、そのような嗜みなどあるわけがない。
 しかし、クレアにああ言ってしまった手前、今更後には引けない。
 ネルに相談しようとしたが、ネルを初め、フェイトが知るダンスが出来そうな女性陣はことごとく任務中だった。
 結局誰も掴まらずに時間は過ぎ、仕方なく一人教本を片手に練習することになってしまったのである。
「足は……あ、こっちか。それで……」
 だが、所詮は素人の付け焼刃。
「次は……右足を……っと、わ! うわっ!」
 当然の如く上手くいくはずもなく、足を絡めてフェイトはその場に倒れこんだ。
「うわ……僕、情けな」
 顔に当たる芝生の感触に涙が出てくる。
 どうしてあんな見栄を張ってしまったのだろうと思うが、後悔先に立たず。あの場はちっぽけな男の意地を見せることを優先してしまったのである。
 ごろり、と身を返して仰向けに寝転がる。満天の星空が眩しかった。
 漆黒の夜空にくっきりと浮かぶ三人の女神を見上げ、溜息。
 正直な話、今からどんなに頑張ったところで明日の夕刻にあるパーティーに間に合うとは思えない。
 エスコートする男性がダンスのまるで出来ない男など、クレアの格好もつかないだろう。彼女なら笑って許してくれそうではあるが、フェイトが自分を許せない。
「うん、ならやることは一つだ」
 そう、ここまで分かっているのなら、自分に残された道は一つである。
 時間が許す限り練習し、少しでも踊れるようになること。それだけだ。
 ぐ、と強く拳を握り、フェイトが反動をつけて起き上がったとき、
「?」
 ふと、聞こえた控えめな笑い声に、フェイトは声のするほうへと顔を向けた。
 そこにいたのは、漆黒の長い髪を夜風に靡かせた女性。長い前髪で左目を覆った女性は、綺麗、という言葉がよく当てはまるような顔で微笑んだ。しかし、それは妙に引っかかる笑顔で、フェイトは内心で首を傾げた。
「すみません。あなたほど諦めが悪い人も珍しかったものですから」
「は、恥ずかしいところを見られてしまいましたね」
 このように美しい女性にあれをずっと見られていたかと思うと、顔が僅かばかり赤くなる。冷たい冬の風が心地良かった。
 女性は緩やかに首を振ると、石の上に下ろしていた腰をあげた。
「いいえ、そんなことはありません」
 佇まい、所作、所々に気品が感じられる動き。おそらく貴族の出だろうが、こんな時間にいつ魔物に襲われるかもわからない場所に来るとはなかなかに変わった人物のようだ。
 と、フェイトの思考が止まる。
 貴族。その単語が頭の中でぐるぐると反芻される。
「それでは、お邪魔しても申し訳ないので失礼します。ああ、それと」
 すたすたとフェイトに背を向けて歩き出した女性の足が止まり、蒼に近い紫の瞳がこちらを向いた。
「さきほどから、右と左が全く逆です。それだけ、注意したほうがよろしいかと思います」
 そう女性が微笑んだとき、フェイトの体は動いていた。
 全力で女性の元へと駆け寄り、しっかりと白い手袋のはめられた両手を握る。
「え、ちょ……」
 あまりに突然のことに、女性は目を白黒とさせる。だが、フェイトはそんなことを気にしている余裕はない。
 真正面から女性を見つめると、
「僕にダンスを教えて下さいっ!!」
 シランドにまで届くのではないかと思うほどの大声と共に腰を曲げて頭を下げたのだった。


「すみません」
 柔らかい芝生の上に正座し、フェイトは深々と目の前で耳を押さえて苦悶する女性に頭を下げた。
 思いがけず出してしまった大声は、至近距離では相当に堪えたようだ。
「い、いえ……大丈夫です。少し驚いてしまっただけですから」
 苦笑しながら女性が耳から手を離す。無理をしているのなど一目瞭然だが、フェイトとしてはこれ以上どうすることも出来ず、もう一度謝った。
 女性は首を振って、大丈夫です、と繰り返すと、気を取り直してフェイトの前に座る。
「それで、ダンスを教えて欲しい、とは?」
「えっと、明日、とあるパーティーに招かれているんですけど……」
 フェイトが事情を説明し終えると、女性はなるほど、と頷いた。
「わかりました。つまりあなたはダンスが死ぬほど下手で相手の女性に一生の恥をかかせたくない、ということですね」
「そこまで言ってませんよ」
 あまりの言い方にフェイトは涙目になりながらつっこむ。
「でも、そういうことなんです。初めて会ったあなたにこんなことを頼むのも申し訳ないんですけど……頼れる人はみんな駄目で」
 フェイトが項垂れる。
 女性は困ったように眉を下げると、しばらく考え込んでから、首を縦に振った。
「わかりました。そういう事情なら、協力します」
「ほ、本当ですか!?」
 一瞬にして顔を輝かせるフェイト。女性は小さな笑みを零し、ただ、と付け加えた。
「二つ、条件があります」
「はい。なんでも言って下さい」
 こんな時間に見ず知らずの他人の為にダンスの指導をしてくれるのだ。この際よほどの無茶を言わない限り何を投げ打ってもいい。
 女性は切れ長の瞳を真っ直ぐにフェイトに向ける。
「一つ目は、多少手荒な教え方をしますが、文句は言わないこと」
 意外にも普通の条件に、フェイトは一瞬呆け、すぐに頷く。
「ええ、もちろんです」
 これから数時間でゼロからどうにかしようとするのだ。多少の無理は覚悟の上。
 女性はフェイトの答えに、いいでしょう、と目を閉じる。
「二つ目。これは、あなたに絶対に守っていただきたいことです」
 再び開かれた紫の瞳は、まるで抜き身の刀のように鋭い光を持っていた。
「私の為にも……そして何より、あなたの為にも、絶対に守って下さい」
「それがなんなのか聞かないうちに、返答することは出来ませんけど」
 そう、フェイトが困ったように返すと、女性は拍子抜けしたように目を丸くさせ、笑った。
「そうですね。でも、簡単なことですから」
「それで、二つ目の条件は?」
 フェイトが先を促すと、女性は姿勢を整えた。
 そして、
「――――」
 まるで日常を駆け抜ける風のように当たり前の響きで耳に届いた非日常な言葉に、フェイトは言葉を失った。
 女性は首を少しだけ傾けると、やはり違和感のある笑顔で微笑む。
「簡単なことでしょう?」
 漆黒の髪を靡かせるように、一陣の風が平野を吹きぬける。
 その冷たい風にようやく言葉を取り戻したフェイトは、やや上擦った声で言った。
「それは、どうしてですか?」
「申し上げました。私とあなたの為だと」
 柔らかな口調で、だが突き放すような声音で紡がれる言葉。フェイトが眉を顰めた。
「あなたの為、というのなら引き下がります。でも僕にとってそのことが為になるのは理解出来ません」
「理解した頃には遅いのです」
「そんなの」
 フェイトが反論しようと女性の顔を見ると、その顔は困ったように笑っていた。
 その笑顔に、フェイトは何も言えなくなる。聞いてほしくない。心から、そう思っている顔だったからだ。
「あなたは、不思議な人だ」
 黙り込んだフェイトにかけられたのは、思いのほか優しい響きだった。
 顔を上げると、女性は冷たい夜風に靡く黒髪を押さえ、目を細めている。
 そして、おもむろに立ち上がると、羽織っていた外套を脱いで岩の上に置く。黒を基調としたシンプルな礼装を纏った女性は、やはり貴族らしかった。
「さぁ、時間もないことです。始めましょうか」
「はい。お願いします」
 差し出された女性の手を取り、フェイトが立ち上がる。
「まずは一通り私が踊ります。大まかで構いませんから、どういうものか理解して下さい」
 女性がフェイトの手を離し、少し距離を取る。
 右足から始まる演舞。
 それは、一瞬でフェイトの目を奪う。
 流れるような動作も、舞い踊る長い髪も、伸びる細い手足も、全てが美しく、儚かった。
 相手などいはしないのに、フェイトには女性の前に誰かいるような錯覚さえ覚える。
 女性の動きに合わせて踊る様がありありと瞼の裏に浮かび、自分もそのように踊れたのならと心から思った。
 テンポの良い動き。軽やかに踊る女性に、フェイトが目的も忘れて魅入っているとき、ふと目の前に白い粉雪が舞い落ちた。
 手で掬えば、それはすぐに解けて消える。
 雪だ。
 今年初めて見る初雪だというのに、フェイトはその雪さえも女性の踊りを助長する一欠片にすぎないとさえ思えた。
 舞い散る雪の中で円舞。長いスカートが舞い、白い世界の中で黒が映える。
 永遠とも思える時間は刹那の速さで通り過ぎ、残ったのは女性が最後の動きを終えた余韻だけだった。
 全く乱れていない呼吸。白い吐息を吐いた女性は、空を見上げて眉を下げた。
「雪、降ってきてしまいましたね」
 視線を下げ、フェイトに目を向ける。
「どうしますか? 風邪を引いてしまっては元も子もありませんが」
「そうですね。困ったな」
 岩の上に置かれた外套を女性の肩にかけながら、フェイトが首を捻る。
「あなたさえよければ僕の家で……」
「……」
「あの」
 全く反応がない女性に、フェイトが目の前で手をひらひらと振る。女性はハッとして顔をあげる。
「あ、すみません……こんなこと、今までされたことがなかったものですから」
 フェイトにとってはなんでもないような行動だったが、女性にとってはあまりない経験だったのだろうか、かけられた外套を握り、女性は僅かに赤らんだ顔で首を振った。
「見た目どおり紳士なのですね、あなたは」
「いや、そんなことはないですよ。この通り紳士の嗜みがありませんから」
 ロボットのような踊りを見せると、女性は口元に手を当てて小さな笑みを零す。
「確かに」
「酷いですね。少しくらいフォローして下さいよ」
「そのようなことを頼む前に、努力をしたほうが時間の使い方としては有意義です」
「手厳しいですね」
 笑いながら頭をかく、フェイト。
 この女性と話していると、特別話が弾んでいるわけでもないのに、不思議な心地良さに包まれる。気の合う、というのはこういうことを言うのだろうか、とフェイトは思った。
「それで、あなたの家、ということでしたが?」
「ああ、はい。僕の家、結構な広さがあるんですけど、そこなら雪も風も心配がないと思って」
 エリクールに居つくと決定してから、フェイトには女王からシランドに家が与えられた。フェイトは小さな家で構わないと前もって言ったはずなのだが、いざ用意された家に行って見ると、それは貴族の豪邸のように大きな建物だった。
 フェイトはすぐに抗議したが、作ってしまったものは仕方ない。配属されていたメイドと執事だけは遠慮し、フェイトは一人暮らしには広すぎるほどの豪邸に住まうこととなったのである。
 女性はフェイトの家に誰もいないことを確認すると、やや躊躇いがちに了承した。
「それが一番いいでしょうね」
「決定ですね。じゃあ、行きましょうか」
 フェイトは先導に立って歩き出した。その後ろを、微妙に距離を空けて女性はついてくる。
 シランドの門が見えてきた頃、女性はフェイトに先に行ってムーンリットの終わりで待っているようにと告げ、フェイトを先に行かせた。
 フェイトは首を傾げながらも女性の言う通りに先へ行き、門兵に軽い挨拶をして門をくぐった。
 そして、ムーンリットの終わり、街の入り口で待つこと十分ほど。カツカツと石畳を鳴らす音と共に女性が姿を現した。
「お待たせいたしました」
 その妙に冷えた声に、フェイトは首を傾げるがあえて追求はしなかった。
「いえ、この道を歩いて十分ぐらいで僕の家です」
「ええ」
 やはり女性は間を空けて歩く。時折周囲を気にするように視線を左右に向け、また前を向く。
 女性の行動を不思議に思いながらも、フェイトは真っ直ぐに行き慣れた道を歩いたのだった。


 時間が時間だった事もあり、フェイト達は誰にも会うことなく目的地に辿り着いた。
 女性を招きいれ、一直線に大広間へと向かう。
「あ、そういえば」
「はい?」
 思い出したようにフェイトが手を叩く。女性は外套を脱ぎながらフェイトに目を向けた。
「まだ自己紹介してませんでしたよね。もう今更ですけど」
 まず最初にすべきことをすっかり忘れていた。
 フェイトは外套を脱いで椅子の背にかけると、右手を女性に差し出した。
「僕はフェイト・ラインゴッド。シーハーツに来たのは」
「存じています。救国の英雄。あなたほどの方、知らないほうが失礼というものです」
「そんな大したものじゃないですよ。シーハーツにも色々迷惑をかけてしまいましたから」
 声のトーンが落ちる。事情を知らず、フェイトをアーリグリフの戦争を勝利に導き、星の船を退けた英雄と思っているだろう女性は、フェイトの手を握り返して言葉を濁らせた。
「あの……それはどういう?」
「いや、なんでもないです。それより、あなたは?」
 そう言った瞬間、女性の顔が強張る。
 まずいことを聞いてしまったのか、とフェイトは焦るが、聞いたのは名前だけだ。そんなはずはない。
 束の間の沈黙。女性は大きく息を吐いた。
「フェイト様、あの約束は守っていただけるのですね?」
 確認するように、一言。
 フェイトは頷く。
「はい。まだ納得はいっていませんが、あなたにも事情があるみたいですから」
「それで十分です」
 そう言い、女性は胸に手を当て、言った。
「ディルナ。ディルナ・シュテンノと申します」
 綺麗な響きだと、フェイトは純粋にそう感じた。
「綺麗な名前ですね。確か、シランドに同じ名前の店があったような」
 天井を見上げて考え込む。ディルナは微かに見開かれた目を伏せると、口を手で覆って笑った。
「あれ、どうかしました?」
「いえ、すみません。拍子抜けしたというか、なんというか。そうでしたね、フェイト様はグリーテンの方なのですから」
 一人納得するディルナ。フェイトが頭の上に疑問符を浮かべていると、ディルナは口元に緩やかな孤を描いた。
「店のことですが、それは『ディルナの息吹』ではなかったでしょうか?」
「ああ、それです! あそこも同じ名前なんですよね。ディルナっていう名前はシーハーツでは人気があるんですか?」
「どれからお答えすればいいでしょうね」
 フェイトの反応にディルナは苦笑する。
 うーん、と顎に手を当てると、すぐに顔を上げた。
「最初に言っておきますが、『ディルナの息吹』は私の実家が経営する店です。ですから、あの店の名前は私からきているのです」
「え、ディルナさんの実家って」
「シュテンノ家です。フェイト様はご存知ないかもしれませんが、商家ではペターニ領主であるシャロム家に継ぐ商家なんですよ」
「……それは、すごいや」
 シャロム家ならフェイトも聞いたことがある。シーハーツの交易の中心となる家で、ペターニに存在する数多くの商家の総纏め役となっている家だ。
 そのシャロム家の次をいく商家となると、相当の家柄なのだろう。ディルナが貴族としての風格を十分に備えていたのもわかる気がした。
「すごいのは家を守ってきた先代と両親であって、私ではありませんが」
 一瞬、ディルナの瞳に宿った影をフェイトは見逃した。
「それと、ディルナという名前ですが……」
 そこまで言いかけ、ディルナは口を噤んだ。
 喉まで出掛かっていた言葉を飲み込み、肩を竦める。
「これはわかりませんね。それほど珍しい名前でもありませんが」
「ふぅん。何か由来するものとかがあるのかもしれないですね」
「ええ、そうかもしれません」
 水のようにフェイトの言葉を受け流したディルナは、さて、と続けた。
「そろそろ練習に取り掛かりましょうか。もう四時を過ぎてしまいました」
「え!? もうそんな時間ですか!?」
 慌てて時計を見ると、家に入ってから既に一時間が経過している。
 ディルナは慌て出すフェイトを宥めると、長く下ろされた髪を肩の辺りで緩く縛った。
「大丈夫ですよ。五時間で覚えてすぐに寝れば、パーティーの始まる夕方には起きられます」
「ご、五時間ってそんな無茶な」
「約束しましたね? 多少手荒な方法を取りますが文句は言わないと」
 束ねた髪を手で払い、ディルナは不敵に笑う。
 フェイトは安易な約束をしてしまったことを後悔しつつ、こうなったら腹を括るしかないと手で頬を叩いた。
 ディルナの前に立ち、頭を下げる。
「お願いします」
「お任せください」
 そして、一夜限りの特訓が始まる。
 予想以上に厳しいディルナの指導を受けつつ、フェイトは今までにない高揚感に満たされていた。
 それが踊りからくるものなのか、ディルナといるからなのかは分からない。
 ただ、確かに感じる胸の高鳴りに、フェイトは時間も忘れて没頭した。
 緩やかな音楽が大きな広間に広がる。
 一人の青年と女性。密やかに行われた二人だけのダンスパーティーは、まるで夢のように楽しく、儚く過ぎ去ったのだった。



 翌日の夕刻前、いつの間にか眠ってしまっていたフェイトは、夢の終わりを思い出した。
 フェイト以外誰もいない大広間。
 昨夜のことを証拠付けるものは何もなく、あるのはただ胸の中に残る小さな寂寥だけだった。
 だが、この寂寥すら、夢だと思わなくてはならない。
 そう、全てが夢だった。
 ディルナと出会った事も、ダンスを教えてもらったことも、あの楽しい時間も。全てが、なかった。
 それが、彼女と交わした二つ目の約束。

 『今日が終われば、あなたは私と出会ったことも、全て何もかもを忘れて、最初からなかったことにして下さい』

 そこにどんな意図があり、彼女がどんな思いでその言葉を口にしたのか。
 この時、フェイトはディルナの言葉の意味を何一つ理解することは出来なかった。




「そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ」
 シンプルな白のドレスに身を包み、フェイトの腕を取って歩くクレアが苦笑する。
 同じく礼装を身に纏うフェイトは緊張でガチガチ、とまではいかないが顔が引き攣り気味だ。
 頭ではわかってはいるものの、やはり初めての場というのは緊張する。
 入り口で手続きを済ませてパーティー会場へと入り、一通りの挨拶と踊りを済ました頃には、フェイトはすっかり疲労していた。
 ダンスのほうは完璧、とまではいかなかったが、なんとかクレアに恥をかかせない程度に踊れた。心の中でディルナに深く感謝しながら、フェイトは夜風の心地良さに身を委ねていた。
「ふふ、なんだか新鮮な反応ですね」
「……クレアさんはすごいですね。疲れないんですか?」
 テラスの手摺にぐったりと寄りかかるフェイトは、差し出されたジュースを受け取りながらクレアを見上げた。
 クレアは眉を下げて笑う。
「子供の頃からこういうパーティーには出ていますから、慣れもしますよ」
「はは、それは大変ですね」
「ええ、あまり好きではないんですけど、これも仕事です」
「僕はとてもじゃないですけど、慣れそうにありませんよ」
「最初のうちだけですよ」
「だといいんですけど」
 フェイトが苦笑する。クレアはそんなフェイトを見て柔らかい笑みを浮かべると、思い出したように手を叩いた。
「あ、そういえばフェイトさん」
「はい?」
「こんな場所でなんですが、あの話考えておいてくれましたか?」
「あの話?」
「ええ。あなたの身の振り方の話です」
 クレアがテラスの手摺に両腕を置く。
「私としては光牙に入っていただければ助かるのですが、そこはフェイトさんの自由です。あなたならどこの部署でも大歓迎ですよ」
 フェイトがシーハーツに居つくようになってから約半年。特に行き先も決めていなかったフェイトは、どこにも所属することはせず、必要に応じてシーハーツ軍を支えてきたのである。
 しかし、正式にフェイトがシーハーツの住人として認められるようになった今、いい加減に根無し草ではマズイというのがラッセルの意見だ。
 どこに所属するかはフェイトの自由。自分が最も力を発揮できる部署に所属せよ、とラッセルに通達されたのが半月前。そろそろ答えを出さなければいけない頃合かもしれない。
「そうですね。僕も光牙か封魔で迷っているんです。やっぱり知り合いがいたほうがやりやすいですし」
「なるほど。では、ネルに先手を打つために一つここでフェイトさんを誘惑しておきますか」
「はは、相変わらず冗談が上手いですね、クレアさんは」
「あら、意外と本気かもしれないですよ?」
 茶目っ気たっぷりに微笑むクレア。
 本当、彼女は読めない。
 そう、フェイトが苦笑を零したとき、テラスの扉が開いてそこから男性が姿を現した。
 男性はクレアにダンスを申し込み、クレアは綺麗な笑顔でそれに応じた。
 今の今までパーティーが嫌い、と言っていたとは思えないほどの変わり身に、フェイトは舌を巻かずにはいられない。
 人混みの中に戻っていくクレアの背中を見送りつつ、フェイトはふと人混みの中で見知った顔を見つけた。
 会場に戻り、遠くから目を凝らす。
「ディルナさん」
 人混みから少し離れた場所。壁に背を預けて佇んでいたのは、間違いなくディルナだった。
 そういえば彼女は商家の人間だと言っていた。なら、ここにいてもおかしくはない。
 フェイトは女性の声をやんわりと振り切ってディルナの元へ近付くと、声をかける。
「ディルナさんも来ていたんですね」
 が、
「初めまして、フェイト・ラインゴッド様。お目にかかれて光栄です」
 返ってきたのはフェイトの想像とはまるで違う、冷たい笑顔と言葉だった。
「私はディルナ・シュテンノと申します。どうです? 楽しんでおられますか?」
「でぃる……」
「あと少しでパーティーも終わります。どうぞそれまで楽しんで下さい」
 フェイトが話す隙など与えず、ディルナは去って行った。
 孤独なディルナの後姿を見ながら、フェイトは自分が交わした彼女との約束を思い出す。
 全てを、なかったことに。
 そんな約束、彼女を見たときに頭から消えていた。ただ、また話がしたいと思って、体は勝手に動いていた。
「そっか。約束、したもんな」
 そう、一夜限り。ダンスを教えてもらい、終わったら他人に戻る約束だったはずだ。
 確かに自分も了承した。それがディルナの為でもあるならと、理由も聞かずに納得させた。
 契約を破ったのは自分。ディルナの反応を責めることなど出来ない。
 そう、フェイトが自分に言い聞かせていたとき、
「フェイト様」
 壮年の男性が目の前に立っていた。
 フェイトは慌てて顔を上げて会釈する。
「あ、はい?」
「失礼かと存じますが、ディルナ・シュテンノ嬢とどういったご関係で?」
 いきなり何を言い出すのかとも思ったが、男性の声は真剣だった。フェイトは契約通りに答える。
「いえ、初めてお会いした方です。今も挨拶をしただけですよ」
「そうですか。それなら良かった」
 妙に引っかかる言い方。フェイトが眉を上げる。
「どういうことですか?」
「え、ああ……グリーテンの方であるフェイト様はお知りにならないかと思いますのでご忠告しますが、彼女とは関わりにならないほうがよろしいですよ」
「それは、どうしてですか?」
「あまり良い噂がたたない者です」
 ちらり、と遠く離れた場所でまた人混みから抜けて壁に背を預けるディルナを見、男性は声を潜める。
 フェイトは小さな苛立ちを覚えながら、先を促した。
「良い噂がたたないって、彼女か問題でもあるんですか?」
「ええ、彼女はシュテンノ家の三女ということになっていますが、実は血の繋がらない者という噂があります」
「血の繋がらない?」
「あちらをご覧下さい」
 手で男性が談笑している二人の男女を示す。
 美しい金糸に翠の目を持つ男性と、亜麻色の髪に蒼い目の女性だ。
「あの方達が現在のシュテンノ家のご当主とその奥方様です。どうです? 似ても似つかないでしょう」
 確かに、とフェイトは頷く。
 ディルナは漆黒の髪に青みがかった紫の瞳。毅然とした顔立ちも穏やかな二人と見比べても似ているところはない。
「でも、似てない家族だっているでしょう。それだけで決めつけるのは」
「ええ、そうです。ですが、シュテンノ家というのは代々商家にしておくのは勿体ないほどの高い施力を持っていましてね、ディルナ様の姉上方も高い施力を有しておられるのですが」
 男性はここで一度言葉を切り、さらに声を潜める。
「ディルナ様はたったの1%。こんな数値、シュテンノ家から出てくるはずがないのですよ。シュテンノ家の恥なのです」
 またか、とフェイトはうんざりと内心で毒づいた。
「ですから、フェイト様のお立場の為にも、彼女とは関わり合いにならないことをお勧めします」
 施力、施力、施力。シーハーツの貴族が揃って口にする言葉だ。
 フェイトはようやく理解した。
 どうしてディルナがあのような言葉を言ったのか。他でもない、フェイトを守るためだ。
 自分のせいでフェイトが非難されないよう、遠ざけた。シランドに入るとき、わざわざフェイトを先に行かせたのも、自分と一緒にいることでフェイトにマイナスのイメージを持たせないためだ。
 それがわかると、フェイトは無性に腹が立ってきた。
 男性に適当な言葉を投げ、ディルナの元へ一直線に向かう。
 そして、
「踊りましょう」
 誰からも触られることのない細い腕を取り、フェイトはディルナを踊りの場へと連れ出した。
「な……何をするんですか!?」
 いきなりのことに、ディルナは抵抗も出来ずにフェイトに引き摺られる。
 しかし、すぐに落ち着きを取り戻すと、見た目は乱暴にならないよう、だが思いの外強い力でフェイトの手を振りほどいた。
「困ります。私は踊る気はありませんから」
「どうしてです? せっかくなんです、踊りませんか?」
 きっ、とディルナが睨みつけてくる。硬く握られた手が小さく震えた。
「約束、お忘れになられたのですか?」
 威圧の篭った声が耳を掠める。
「忘れていませんよ。僕とあなたは初対面。でも、ダンスの相手を申し込むのは顔見知りじゃなきゃいけないなんてことはないでしょう?」
「それは……」
「言い返せませんね。じゃあ踊りましょう。ほら、周りも不審がっていますよ」
 皆が踊っている場で立ったまま動かない二人に、周囲から視線が向けられる。
 ましてそれが救国の英雄と商家の間で知らぬもののいない娘とくれば、自然と視線は集まるのだ。
 ディルナとしてはすぐにでもこの場から逃げ去りたかったが、そんなことをすれば余計に注目が集まり、ここに来ている両親にも迷惑をかけてしまう。
 奥歯を噛んで、ディルナは差し出されたフェイトの手を取った。


「待って! 待って下さい!」
 短い踊りを終えた頃、パーティーは丁度終了の時刻を迎えた。
 ディルナはダンスが終わると同時にフェイトを鋭く睨んで会釈をし、挨拶もそこそこに会場から立ち去った。
 フェイトはクレアに断りを入れると、すぐにディルナの後を追った。だが、なかなか追いつけない。
 ロングドレスを着ているとは思えないような足の速さで疾走するディルナ。フェイトも全力を出しているが、先程から距離が縮まる気配がなかった。
 縮まらない距離のままペターニの街を抜け、パルミラ平原へと出る。
 このままでは埒があかない。そればかりかいずれ逃げ切られてしまうと判断したフェイトは、その場に蹲ると大声をあげた。
「っ痛たたたたた!!」
 お腹を押さえ、草の上に倒れ込む。
 その声に足を止めたディルナは、後ろを振り返ると、すぐに走ってきた。
「おい、どうした!?」
 フェイトの背に手を当て、抱き起こそうと手を伸ばすが、
「捕まえた」
 がっしりと腕を掴まれたかと思うと、にこやかな笑顔を浮かべたフェイトが目の前にいた。
 フェイトが笑みを深めながらディルナを見つめる。
「いや、やっぱりディルナさんはいい人だったんですね」
 呆けたように目を瞬かせていたディルナは、一度大きく息を吐くと、口端をゆっくりと持ち上げた。そして、満足そうに頷くフェイト目掛けて手を振り翳し、
「死ね……馬鹿!!」
 滅多に吐かない暴言と共に、力一杯殴り飛ばした。ちなみにグーで。
 容赦ない一撃、それも女性にしては重すぎる拳を食らったフェイトはスローモーションで草の上に転げる。
 ディルナは荒くなった息を整えると、倒れたまま動かないフェイトに更に蹴りを入れた。
「ぐはっ!」
 まさか追い討ちがくるとは思っていなかったフェイトはまた悶える。
 蹲りながら視線を上げると、更に手をあげようとするディルナが見えた。
 さすがにこれ以上やられたら死んでしまう。フェイトはすぐさま起き上がってディルナの手首を掴んだ。
「ちょ、ちょっと待って、ディルナさん! これ以上は無理! マジで無理です!」
「っ、五月蝿い! お前が悪いんだろう! なんなんだお前は! 私を馬鹿にするのも大概にしろっ!」
 朱を帯びた顔でフェイトを睨みあげるディルナ。
 さすがに、やりすぎたかもしれない。フェイトは謝ろうと口を開いたが、出てきたのは全く違う言葉だった。
「これが、君の素なんだね」
「は?」
「ずっと、君の笑顔に違和感を持っていた。でも、気付けなかった」
 ディルナの手首を掴んだまま、フェイトは正面から彼女を見つめる。
「すごく綺麗な作り笑顔だったから」
「な、に言って……」
「完璧だった。多分、こうして君を知っていかないと気付けないぐらい、綺麗な作り笑顔だったよ」
 そう、ディルナは何度もフェイトの前で微笑みながら、一度だって笑ったことがなかった。
 完璧すぎる作り笑顔。それは自分を守るためか、生きるための術か。
「でも、僕は今のほうがディルナらしいと思う」
「……」
「隠さなくてもいいんだ。周りなんか気にしなくていいんだ。それができないなら、僕の前だけでもディルナでいてほしい」
 見開かれた紫の瞳。掴んだ腕から伝わる抵抗の力が消えていく。
「……馬鹿、じゃないのか。私のこと、知ったんだろう? なのに、どうしてそんな事言える?」
「聞いたよ。すごく腹が立った」
「痛……は、離せっ」
 知らずのうちにディルナの手首を掴む手に力をこめてしまっていたのだろう。顔を顰めたディルナは乱暴にフェイトの手を振り払った。
「あ、ごめん」
 フェイトが謝る。ディルナは赤くなった手首を押さえながらフェイトに冷たい視線を向ける。
「同情ならいらない。お前にも、誰にも同情なんかされたくない。私は情けをかけられるほど弱くない」
「違うよ。僕が腹をたててるのは君の周りじゃない」
 言葉を切り、訝しげな目でこちらを向いているディルナを見返す。
「君にだよ、ディルナ」
「私……?」
「そう、君にだ」
「ふざけるな。私がお前に腹を立てる理由はあっても、お前に立てられる理由なんてない。私はお前に迷惑なんて……」
「それ。それが悪い」
 ディルナの言葉を遮り、フェイトがびしりと指を立てる。
「君は僕を気遣って色々としてくれたみたいだけど、僕からしたらいい迷惑だ」
「な……っ」
 驚いたように言葉を詰まらせたディルナだったが、すぐに嘲るような笑みを貼り付けた。
「は、そうか。それはすまなかった。忌み子からの気遣いなど英雄様には必要なかったな」
「それも違う。僕の言いたいこと、わからないかな」
「わかるわけないだろう。わかりたくもない」
「そうか。じゃあ、はっきり言うよ」
 ふぅ、と息を吐き、フェイトは真っ直ぐにディルナを見つめる。

「僕は君が好きだ。だから、僕の為に君が離れるなんて納得できるわけがない」

 風が吹く。
 ディルナは動かない。フェイトも動かない。
 長い、長い沈黙。時間にして十分ほど経った頃だろうか、ディルナは片眉を上げて口を開いた。
「なんの冗談だ?」
「ちょっと、人の一世一代の告白をそんな風に扱わなくても罰は当たらないと思うんだけど」
「で、オチは?」
「ないないないない。オチでもドッキリでもない。真剣だって」
 ぶんぶんと手を振り回して本気だということをアピールするフェイトに、ディルナはますます顔を顰めた。
 綺麗な顔が台無しだ、とフェイトは思うが口には出さない。何が飛んでくるかわかったものじゃない。
「お前がそんな軽薄な男だとは思わなかった」
「軽薄って失礼だな! 僕だって何度も違うかもって考えて出した結果だよ!」
 勢いよく立ち上がり、ディルナを見下ろす。月光に照らされた顔はとても綺麗で、やはりこの感情は間違っていないのだと再認識する。
「朝起きたら君がいなくて、約束通り忘れようとした。でも、できなかった。今日一日、君のことを考えていない時はなかったよ」
「……」
「さっき、初めてディルナの素を見れて嬉しかった。こっちの君のほうがいいって言ったのも本当」
「……っ」
「だから、多分これが好きってことなんだと思う。僕はディルナが」
「も、もういい! いい加減に黙ってくれ!」
 急に立ち上がったディルナが両手でフェイトの口を塞ぐ。
 俯いているせいで顔は見えないが、長い黒髪の隙間から見える耳は夜の闇の中でもわかるほどに赤かった。
 フェイトが口を押さえられながら笑っていると、ディルナが僅かに顔をあげた。
「何がおかしい?」
「いや、可愛いなと思って」
 力の抜けたディルナの手を口から外しながら言うと、赤い顔がさらに赤みを帯びた。
 ディルナはばっとフェイトから顔を逸らす。フェイトはそんなディルナを微笑みながら見つめると、柔らかく声をかけた。
「それで、返事は聞いていいのかな? 待てって言うなら待つけど」
「断る」
「即答!?」
 断られない絶対の自信があったわけではないが、まさかたった一言で斬り捨てられるとは思わなかった。
 一秒も迷っていなかったのではないだろうか。
「も、もう少し考えてくれてもいいじゃないか」
「考えるまでもない。私はお前が嫌いだ」
「そんな嫌わなくても」
 はた、とフェイトが思い留まった。
 自分がディルナに対し行ってきたことを一つ一つ反芻する。
 いきなりダンスの練習を頼み込み、その条件として出された約束を反故。嫌がるディルナを無理矢理躍らせ、逃げるディルナを追いかけ、騙して捕まえた。
「……ごめん。最悪だ僕」
「いや、そこまで真剣に落ち込まれると私が悪者のような気分になるから止めてくれ」
 まるでこの世の終わりのように項垂れるフェイトの肩に、ディルナが慰めるように手を置く。
 だが、フェイトは一向に顔を上げる気配はなく、ますます肩を落として深い溜息を吐いた。
「そりゃへこむよ。初めて本気で好きになった人にフラれたんだからさ」
「本気って……気の迷いだ。忘れろ。だいたい私とお前は会って一日しか……」
「時間は関係ないだろ」
「ないわけじゃない」
「……で、つまりは僕は望みゼロってことかい?」
 しゃがみ込み、草をぶちぶちと抜きながら見上げてくるフェイト。
 それがディルナの目にどう映ったのだろうか、
「ディルナ?」
 くすくすと声を押し殺し、ディルナは眉を下げて笑っていた。
 その笑顔があまりにも自然で、可愛くて。フェイトは草を抜く手をを止めてディルナを見つめた。
 ディルナはフェイトの視線に気付くと、口元に手を当てたまま笑いを止める。
「お前、本当に諦めが悪いんだな」
「え?」
「初めてお前を見たときもそうだった。一人じゃどうしようもないくらい下手で、お前もそれをわかっているはずなのに、お前は練習を止めようとはしなかった」
 瞳を伏せて喋り出すディルナ。フェイトは一人で練習していたダンスのことを言われているのだとようやく理解した。
「多分、私が練習を断ったとしてもお前は諦めなかったんだろう?」
「それはそうだよ。諦めるのはやれることを全部やった後でいい」
 諦めることはとても簡単だ。いつだってやめることができる。
 だから、フェイトは自分が出来る全ての事をやった後で諦めるのだ。その方が諦めもつくし、何よりも後悔が少ない。
 何の迷いもなく言いきったフェイトに、ディルナはもう一度微笑んでから、どこか寂しそうに眉を下げた。
「私はお前が羨ましい」
「え?」
 何を言われているのかわからず、フェイトは首を傾げる。
 ディルナはフェイトから視線を空へと向けると、遠く、星の向こうを見るような目で呟いた。
「諦めないこと……それは、私が最初に諦めたことだ」
 冷たい、肌を刺すような向かい風が頬を撫でる。
 ディルナは長い前髪を片手で押さえると、自嘲めいた笑みを浮かべて瞳を伏せた。
「諦めて、全てを受け入れたほうが楽に生きれた。この世の中はそういうものなのだと思った方が、悩まずにすんだ」
「ディルナ……」
「どんなに願っても、祈っても、運命は変わらない。過去も変わらない。私が私であることは変わらない」
 そう、とディルナはフェイトを見つめる。
「汚れた私は、変わらない」
 光を失った濁った紫が、悲しそうに微笑んだ。
「どうしようもないくらい、汚れている。そんな私に、お前は相応しくないし、資格もない」
 その瞳は、傷つく事を、傷つける事が怖いから拒絶する。そんな、人間らしい弱さに似ていた。
 どうして、こうまでも他人を拒絶するようになってしまったのだろうか。
 彼女の過去を、思いを知らないフェイトには知ることは出来ない。華奢な体の中に潜む深く歪んだ闇の形さえも掴めない。
 そんな自分が気安く触れていいはずがない。踏み入っていい場所じゃない。そんなことは、フェイトだってよくわかっていた。
 だが、それでも。
「そんなの勝手じゃないか」
「え……?」
「一方的だよ、そんなもの。僕にはディルナのどこが汚れているのかなんてわからない」
 どうしようもなく、自分はこの女性に惚れてしまっているのだ。
 あの夜、初めて会ったときから。きっと、好きになっていた。
 雪原に一本。吹雪にも耐える花のように凛とした佇まいの中に、いつでも折れてしまいそうな弱さを持った彼女が。
 誰も寄せ付けないように振舞っているのに、誰かを傷つけたくはないと頑なに頑張っている彼女が。
 独りになるのが怖いくせに、一方で独りになることに安心している彼女が、愛しいと思った。
「ほら、こんなに綺麗じゃないか」
 ディルナの手を取り、月明かりに翳す。
 白く細い腕は、女のものだ。
「馬鹿言え。私がこの手で何人の人間を殺していると思っている? どれだけの人間を不幸にしたと思っている?」
 ぱしっとフェイトの腕を振り払い、ディルナは顔を背ける。
 フェイトはここでようやく彼女が軍人なのだと理解した。先の戦争。彼女もまたその手で多くのアーリグリフ人の命を摘み取ってきたのだろう。
 美しい顔を赤化粧で彩り、未来を刈り取ってきた。
「戦争だ。人は死ぬ。後悔はしていない。私は私の守らなくてはならないものの為に戦った。戦うと誓った。だが」
「……」
「赦されるとも、思っていない」
 強く、強く握られた手首。影がかかった表情は見えないが、唇が強く結ばれていた。
「別に戦争で人の命を奪ったから幸せになれないと言うつもりもない。なりたい奴やなれる奴はなればいい」
「でも、君にはその気がないっていうのか?」
「私が幸せを感じれた時は、もう終わったんだ」
 冷たい、突き放すような口調。フェイトは募る苛立ちを抑えながら、口を開いた。
「なんだよ、それ。ディルナは一生そうやって生きるつもりなのか」
 犯した罪を背負って、刈り取った命を引き摺って、血で濡れた道を歩き続ける。
 その先に何もないとわかっていながら、それでも歩き続けると彼女は言う。ただ一人で、共に往くのは亡霊のみとわかっていて、なお進む。
「君はそれでいいのか?」
「……」
「なんの夢や希望もないって言うのか!?」
 フェイトの声が、静かな平野に響き渡る。
 長い、長い沈黙の後。不意に顔を上げたディルナは、
「あったよ」
 消え入りそうな声と微笑みで、そう言った。
「あった……約束した。この国を内側から変え、差別や偏見を少しでもなくす。それが、私達の夢だった」
 でも、とディルナは前髪を掴む。
「それも遠い昔の夢だ。私がどんなに足掻いたところで、何も変わらない」
「……君は、その為に何かしたのかい?」
「何か? 私に何が出来る? たかが1%の私が血統限界値に拘る制度を変えたいとぬかしたところで、結局自分が助かりたいだけだと思われるのが関の山だ」
 ディルナの言葉は正しい。
 彼女が自分の為だけにこの制度を変えたいと言っているわけではないのはわかっている。
 だが、周囲はそうは思わない。
 血統限界値が低いせいで苦しむ自分を助けたい。周りを見返してやりたい。
 ディルナの願いは、歪曲されて捉えられるだろう。
 だから、ディルナは諦めた。容易に予想できる未来に絶望し、その夢を手放した。そしていつの頃からか、全てを諦め、全てを受け入れるようになったのだ。
 誰かに助けを求めることはせず、一人底なし沼に嵌っていくように、今も沈み続けている。
 そんなディルナにフェイトが出来ることは一つ。
「ディルナ」
 手を伸ばして、細い手首を掴んで。
「僕も手伝う。君の夢」
 泥に絡め取られた彼女を、救い上げてあげることだけだ。自分の全てで彼女を受け入れて、少しでも背負っている重荷を減らしてあげることだけ。
「いや、手伝わせてくれ、僕に」
 それが、彼女に惚れてしまった自分の務め。
 たとえ彼女の行く道に何も実りを落とせずとも、せめて一緒に歩くことはしてあげたい。
 独りじゃない。
 そう言って、震えを隠す手を握ってやることだけでもしてあげたいと思うのだ。
「お前……」
 ふっ、とディルナの腕から力が抜ける。
 フェイトが顔を真っ直ぐに向ければ、
「本当に……バカだ」
 そこには眉を下げて、込み上げてくる笑顔を必死に隠そうとするディルナがいる。
「お前みたいに諦めの悪いやつなんて……初めてだよ」
「姉の影響かな、諦めは人一倍悪いんだ」
「……お前には、私が何を言っても無駄みたいだ」
 ディルナはフェイトの手をやんわりと外し、背を向ける。
「私はもう行く。それほど暇じゃないんだ」
「ディルナ」
「……追って来るな。それと、約束は守ってもらう。私とお前は他人。今日のパーティーでたまたま一度踊っただけの関係だ」
 忘れるな。
 そう言い残し、ディルナは後ろ髪を引かれる様子もなく立ち去った。
 一人残されたフェイトは玉砕に落胆するでもなく、どこか晴れやかな気持ちだった。
 最後に見せてくれた、暗闇の中でもはっきりと見えたディルナの笑顔。
 それだけを思い浮かべ、フェイトは夜空に瞬く無数の星達を見上げて笑った。

「先は長そうだな」




 あの夜から三日経ち、ディルナはいつもと変わらない毎日を送っていた。あれからフェイトとは一度も会っていないし、会おうとも思わなかった。それがお互いの為なのだ。
 だが、たった数時間を共にした自分の為にあそこまで怒って、挙句の果て好きだなどと言ってきた男の顔は、なかなか頭の中から離れてはくれない。
「……不快だ」
 苛立ち紛れに藁束を切る。
 ばさり、と藁が地面に落ちる音。
 ディルナが大きな溜息をついて剣を鞘に締まったとき、周りで同じように訓練をしていた師団兵達がざわつく。
 何事かと思い彼らの視線の先を追いかけると、そこには見知った顔が二つ。
 そのうちの一人、朱色の髪を揺らした女性はルージュ。ディルナが所属する抗魔師団『炎』の師団長だ。
 だから、彼女がここに来るのは不思議ではない。
 問題なのはもう一人のほう。
 まさに今、ディルナの頭の隅で苛立ちの元となっている青年。
「フェイト・ラインゴッド……なんで?」
 そして、あろうことかその二人はディルナの姿を見るやいなやこちらに駆け寄ってきたのだ。
 考えるよりも早く体は動いていた。
 くるりと身を返し、ディルナは全速力で訓練場から逃げ出そうとするが、
「スピキュール」
 なんとも気の抜けた掛け声とは裏腹に、ディルナの足先1cm先に炎の塊が落下した。
 炎の塊の正体であるルージュは背を向けしゃがみ込んだ体勢のまま、首だけをディルナへと向けて爽やかに笑った。
「もう、上官を見て逃げるなんてディルナは相変わらず困ったちゃんね」
 言葉を失っていたディルナだったが、一度大きく深呼吸をすると、額に手を当てて嘆息した。
「部下を殺そうとする上官じゃ逃げたくもなります。普通の反応です」
「まぁーたディルナは可愛くないなぁ。敬愛するルージュ様があまりにいい男の方を連れてきたので恥ずかしかったんです……とか言えないの?」
「言ってほしいんですか?」
「ううん、ごめん。そんなディルナはちょっと嫌」
 冷ややかに返答するディルナに、ルージュは口元を押さえて首を振る。
 そしてすぐに声を抑えて笑い出す。おそらくそれを思い浮かべて笑っているのだろう。大変不快なことではあるが、ディルナはあえて無視を決め込んだ。
 と、
「驚いたな。君が素を出すなんて」
 背後で聞こえた声。ディルナは不機嫌な顔を隠そうともせずに振り返る。
「まだ居たのか、変質者」
「そこまでランクダウンしてるんだ」
 がっくりと肩を落とすフェイト。ディルナは腕を組んでフェイトを睨みあげた。
「なぜお前がルージュ様とここにいる?」
 ルージュとフェイトが顔見知りなのは知っている。以前何度かフェイトについてルージュから話を聞いたことがあるからだ。
 だが、だからといってフェイトがここに来る理由など思いつかない。
 鋭いディルナの視線にフェイトが戸惑っていると、ようやく笑いを引っ込めたルージュが立ち上がった。
「それは簡単よ、ディルナ」
 そう言い、ルージュはフェイトの肩に腕を回し、極上の笑みを浮かべた。
「彼、今日からうちに入ることになったから」
 時間が止まる。
 呼吸すら忘れる。
 世界から音が消えたような錯覚すら覚えた。
 ディルナは急激な眩暈に襲われたように目頭を押さえると、搾り出すような声で問い返した。
「誰が、どこに入る、と?」
「フェイトが、抗魔に」
「なぜ?」
「彼の意思。私も意外だったんだけどね、てっきりネルかクレアのとこに入ると思ってたから」
 あたしとしては嬉しい限りだけど、とルージュは満足気に頷く。
「言いたいことはわかりました」
 極力平静を保ち、ディルナが言う。
「それで、なぜ私に知らせに?」
「うん、いくらフェイトが色んな師団を手伝っていた経験があるっていっても、正式な師団員になるのはこれが初めてでしょ? だからわからないこととかも色々とあると思うのよ」
 それはそうだろう、とディルナも首肯する。
 ルージュはだから、とフェイトから腕を離すと、ディルナをびしりと指差して大声をあげた。
「ディルナ・シュテンノ!」
 思わず直立の体勢になる。何人かの師団員が何事かと好奇の視線を向けてくるが、声の主がルージュだとわかると何事もなかったかのように訓練へと戻っていく。
 ルージュはそんなことなどまるで気にも留めず、ディルナを真っ直ぐに見つめたまま不敵に笑った。
「これからしばらく、あんたをフェイトの世話係に任命する! いかなる時も彼と共にあり、一刻も早く一人前にさせること! 以上、異論は認めない!」
「断固拒否します」
「ちょ、異論は認めないって言ったじゃない!」
 間髪入れずに反論され、ルージュはじたんだを踏んで暴れる。
 ディルナは、落ち着いて下さい、と務めて冷静にルージュを宥めると、腰に手を当てた。
「英雄の世話係など私には過ぎた勤め。謹んで辞退させていただきます」
 ですが、とディルナは付け加える。
「ただ単に命令を拒否するのも気が引けるので、私から適任者を推薦します」
「ちなみに誰?」
 不貞腐れたルージュが唇を尖らせながら聞き返す。
「イライザ・シュテンノ。姉上なら面倒見もいいですし、何より文句を言う人はいないでしょう」
「文句って……あんたまた!」
 今までのふざけた態度を一変させ、ルージュが真剣な顔へと変わった。
 だが、ディルナはあくまで表情を崩さずに答える。
「ルージュ様、あなたが私を気にかけて下さるのは嬉しく思います。ですが、あなたは師団長。ならば、私だけでなく新しく入団する彼もまた気にかけなくてはなりません」
「……」
「私といることで確実に彼に対して良からぬ感情が動く。それは私としても快くないことですし、同時に彼にもまた迷惑がかかる。ルージュ様、あなたは……」
「あーっ!! うるっさーい!!」
 ルージュの体が小さく震えたかと思うと、まるで何かが爆発したような大声が耳をつんざいた。
 びりびりと鼓膜を刺激する声にたまらずディルナとフェイトは耳を押さえ、周りの師団員達は蜘蛛の子を散らすように訓練場から逃げ出した。
 途端に静まり帰った訓練場。刃を打ち鳴らす音や掛け声が消えた空間は、いつもよりやけに広く感じる。
 叫んだまま急に黙り込んだルージュにディルナが戸惑っていると、いきなり首根っこを掴まれ、激しく揺さぶられた。
「もう、あんたはなんでいつもいつもそう卑屈なのよ! そのくせ頭も口も回るから始末が悪いわ! 理論武装なんて卑怯! あたしが対抗できるわけないじゃない!」
「ちょ……る、じゅ……」
 ぐるんぐるんと回る視界。ルージュの言葉もろくに入ってこないが、とにかく理不尽なことを言われているのは理解できた。
 ルージュの手を止めようとするが、ろくに力が入らない。
 気持ち悪さだけが募り、このまま意識を手放してしまったほうが楽になれるのではないかと思った時、
「る、ルージュ! そろそろ止めないとディルナが……っ」
「……あ」
 ぐったりと項垂れるディルナに、ようやくルージュが我に返る。ぱっと手を離すと、ディルナはその場に座り込んだ。
「だ、大丈夫かい?」
 フェイトが背中に手を当てるが、ディルナは眩暈と吐き気で言葉を返すことすら出来ない。
「あ、あー……ゴメンね、ディルナ」
 途端にしおらしくなったルージュが両の人差し指をくっつけながら上目遣いにディルナを見上げる。
 ディルナは気持ち悪さを堪えて顔を上げると、首を横に振った。
「いえ、私も言葉が過ぎました。ルージュ様が謝る必要はありません」
「うん、ありがと」
「はい。それよりもルージュ様、フェイト様の件ですが、やはり私はお断りさせて頂きます」
「……わかった。それじゃ、あたしからは何も言わない。変わりに、あんたが彼を説得させなさい」
「それは、どういう……?」
「どうも何も、世話係を誰にするかって話であんたを指名したのはフェイトだもの。あんた達知り合いだったの?」
 ディルナの動きが止まる。フェイトが両腕を頭の上で組んでそっぽを向いた。
「ラインゴッド……貴様、一体何度約束を破れば……っ」
 ゆらり、とフェイトに歩み寄ったディルナがフェイトの胸倉をつかみ上げる。
 フェイトはわたわたと手を振ると、上擦った声で叫んだ。
「ご、ごめんって! でも仕方ないだろ! 僕は君が」
「五月蝿い。黙れ。それ以上言うな、気色悪い」
「ひ、ひどっ!」
「お前に文句を言う資格などない!」
 いつの間に抜いたのだろうか、妖しく光る銀色の刀身がフェイトの眼前に突きつけられていた。
「ご、ごめんなさい」
 顔色を失くしたフェイトが両手を上げると、ディルナは刃を引いて手を離した。
 どさり、とフェイトが尻餅をつく。ディルナは剣を鞘に納めると、ルージュに向き直った。
「と、いうわけです、ルージュ様。彼も納得してくれたようです」
「あんた、フェイトに何されたわけ?」
 呆然とルージュがディルナを見上げる。
「何も。フェイト様とは昨日のパーティーで二、三言お話しただけです」
 ぴしゃり、と言い放つディルナ。
 あくまで他人のフリを続けようとするディルナに、フェイトは顔を顰めていたが、やがて何かを思いついたように手を叩いて立ち上がった。
 ディルナの手を引き、ルージュから引き離す。
「なんだ」
「ディルナってさ、普段は礼儀正しくてまさに師団員の鏡のような子なんだってね?」
「……どこでそれを」
 あからさまに引き攣ったディルナの表情をフェイトは見逃さない。
 師団員の鏡。
 フェイトも最初この話を聞いたときには驚いたが、話を聞いていくうちにそれは本当のことなのだと納得させられた。
 命令には忠実。上司だけでなく部下に対しても義を持って振舞う。任務達成率は三級構成員とは思えないほど立派な数値を出しているのにそれを奢ることは一切せず、努力は怠らない。
 まさに師団員の鏡。
 そして、その裏には彼女の頑ななまでの家族に対する壁を感じた。
 ただでさえ良い噂のたたない自分がこれ以上迷惑をかけることのないように、せめて行動だけでも正しくあろうとする彼女の姿勢。
 孤高。
 その形容がとてもしっくりとくるディルナの生き方。
 それはとても彼女らしい。しかし、同時に彼女がそれを望んで選んだような強い人間ではないこともわかっている。
 そうするしか道がなかった。さらに幸か不幸か、そうするだけの力量がディルナにはあったのだ。
 だが、そんなものフェイトは認めない。認めたくはなかった。
 ディルナの背負う事情など表面だけの薄っぺらいものしか知らない。
 何も知らない奴が首を突っ込むなと言われても仕方ない。
 だが、それでも、惚れてしまったのだから。
 たとえディルナの立つ場所が高い山の上でも、無理矢理にでもよじ登ってみせる。そう、決めたのだ。
「この前の夜のディルナ。あれは僕の夢だったのかな」
「……卑怯じゃないのか、それは」
 予想通りの反応。込み上げてくる笑みを堪えつつ、ディルナの目を覗き込む。
「その返事は、僕の申し出を了承してくれるってことでいいのかい?」
「……」
 悔しそうに顔を歪めるディルナ。
 必死に言葉を探しているのだろうが、生憎とそんな暇は与えてはやらない。
 せかすように、フェイトはディルナの名前を呼んだ。
「ディールナ」
「っ、ああ、もう勝手にしろ! 好きにすればいい!」
 折れた。
 わかってやったこととは言え、少し良心は痛むが、それよりもディルナと一緒にいたいという欲求のほうが勝ったのだ。
「じゃあ、これからよろしく。ディルナ」
 手を差し出せば、ディルナは嫌そうに顔を顰めながらもちゃんと振り返ってくれて。
「どうなっても、私は責任は取れないからな」
 躊躇いがちに、右手を重ねた。
 その手はとても暖かく。
「お前には負けるよ、フェイト・ラインゴッド」
 太陽に向かって顔を上げれば、そこには彼女の本当の笑顔があった。


−Fin−


執筆者:壬代

【後書き】
ネルやクレア、クレセントもそっちのけでまさかのディルナでした。
どうしてこうなったのか私自身も分かりませんが、フェイトはディルナに対してとことんデレデレです。
ネル達では、こうした普通の大学生みたいな恋愛をするフェイトは書けなかったので、ディルナに登場してもらいました。
需要そっちのけで暴走してしまいましたが、お楽しみいただければ嬉しいです。